正統的周辺参加:読書会最終回「周辺参加を超える学習姿勢」
ついに正統的周辺参加の読書会も最終回となりました。今回も非常に面白い議論が繰り広げられていました。それぞれの立場・主張を考慮してメモを残すのは非常に労力がかかるので、私の感じた解釈という狭い観点になってしまいますが、どんな話があったかを簡単に残しておこうと思います。これまでのメモは以下をご参照ください。
正統的周辺参加してなくても学習したいと思う気持ちがある
例えばフランスに住んでいて選挙権はないけれど、フランスの国政にすごく関心を持っている方がいます。これは正統性が付与されていない状態ですが、それでも興味を持って学習したいと思う気持ちはどこから生まれてくるのでしょうか。
別に投票することだけが選挙への関心のあり方ではなくて、投票権はなくても選挙というできごとを抽象化して、その中にあるロジックを学ぶことは必ずこの先の経験に繋がるだろうな、という感覚がある。だから興味があるのだといいます。
でもその興味の源泉をたどると、以前からイラク戦争について一緒に勉強してきた仲間がいて、その派生で最近のウクライナの戦争についても非常に関心を持っているから、今後を占うフランスの大統領選挙にも関心を持ったという流れがあるようです。そうやって誰かと繋がって連想されることが、興味を持つ大きな要因ではないかといいます。それもまた、小さな仲間たちの集まりにおける周辺参加の形なのかもしれません。
学習に向かう自己のアイデンティティ
内田樹さんの著書「日本辺境論」の中で、学習というのは、それが役に立つかどうか分からない状態でも、たぶん学んでおいた方がいいなと判断する力のことだ、といったことが述べられていました。人は無意識のうちに、これは必要、これは不要、と判断しています。未知のものに対して、必要と判断できるかどうかが、学習できるかどうかの分かれ目だというのです。
学習環境をデザインするとき、「これを学ぶとこんないいことがあります」「将来こんな役に立ちます」といったことを示したいと思いがちですが、そういう既知の評価が与えられないと学習しないような学習者は、もはや学習しているとは言えないのです。
では、その判断はどこで行われるのかを考えると、「アイデンティティ」ではないかという意見が出ました。自分はどういう人間でありたいか。会社の中の○○課の○○担当、といったように自分のアイデンティティを明確に制限すればするほど、自分がフォーカスする未知の領域が限定されていきます。逆に、知に飢えている人は「自分はまだ何物でもないまっさらなパレットのようなもので、どんなことでも吸収したい」と自らのアイデンティティを設定していたりします。
アイデンティティというのは、周辺参加の結果生まれてくるものなので、つまり自分がどの周辺性に参加していると思っているかが、大きな分かれ目なのかなあと個人的には思いました。自分は○○会社の一員なのだと思っていれば会社全体を良くしようと頑張るし、○○会社の○○部の○○課の○○担当だと思っていれば、その狭い担当範囲でしか頑張りません。知に飢えている人は、そんな会社の枠にもとどまらず、日本社会の一員だったり、人類の一員だったり、そういう広い周辺性を認知しているから、よりよい世の中のために頑張りたい、などと思うのではないかと感じました。
ここで、参加している周辺性は決して一人一つではなく、誰にでもペルソナはあって、○○会社の一員でもあるけれど、○○地域の一員でもある、といった多様性を内在します。それらが複雑にからみあって私という個人を形成しているのだと思います。
新しい周辺性に参加することはできるか
特に大人になってからの学習というのは停滞しがちです。それは自分の参加している周辺性が固定化して、あらたな周辺参加をしなくなるからでしょう。では、どうしたら新しい周辺性に参加しようと思えるのか。つまり、自分のアイデンティティにとっては不要と思っていた部分にあえてフォーカスして、未知の、先駆的に必要性の分からない部分を学びたいと思えるのでしょうか。これが、学習環境を整える上で最大の課題であり、解決策が分からず「人による」「個性」で片づけられてしまう部分ではないかと思います。
以前、タクトピア株式会社の長井さんとお話したとき、今いる環境の中で新しい学習環境を構築するのは非常に難しい、との経験談を伺いました。一番効果的なのは、今いる場所の外に無理やり引きずり出すこと。会社員であれば会社の外で研修させること。今までと違う場所に強制的に連れてくることで、未知のことを学ばざるを得ないと思わせるのが重要だそうです。
会社の中では既に自分のアイデンティティは確立されていて、それを崩すことは果てしなく難しいです。しかし違う環境で違う役割を与えられれば、学ばざるを得なくなります。つまり強制的に新しい周辺参加をさせるのが大事ということですね。
社内でのローテーション制度、強制的な異動を促すのも似たような効果があると思います。異動によって仕事の能率は一時的に落ちますが、それでも異動によって新たな学習が進むことで、個人にとっても、組織全体にとっても結果的にはプラスになります。そして、そういう経験を持てば、未知への関心力が高まり、自発的に学びたいと思う力が育っていくのではないでしょうか。
ということで、今の狭いアイデンティティに凝り固まってしまっている人には多少の荒療治が必要なのではないか、というのが現在の私の認識です。
多様性と個性
組織にとって、多様性のある人材がそろっている方がロバスト性が高い、強い組織だと思います。全社員が、違う環境を追い求めて変化したいと思うことは、果たして多様性が高い状態と言えるのでしょうか。狭いアイデンティティの中でひたすら技術・知識を深め続けるという人も、重要な役割を持っていると思います。
でも、そういう人も変化する必要はあります。狭くて深いアイデンティティをもつ技術者であっても、時代の変化とともに技術が変化して、常に最先端を追求していかなければなりません。だから、技術的素人から見れば狭くて深いアイデンティティに見えたとしても、きっと当人からすれば技術の幅や奥深さなどにアイデンティティのグラデーションがあり、未知の領域があって常に新しい周辺性へ参加しているのだと思います。
そうではない、枯れた技術をただ淡々と使うだけの人になってしまったら、やはり荒療治でもいいので学習へのアンテナを育ててあげるサポートが必要ではないかなと思います。
怠けるのも個性だし、8:2の法則で働かないアリは生まれますが、その人たちにも適切な知識や機会は提供したいと個人的には思います。そこをどこまで介入すべきかは、難しいところだなあと思いますが。
余白が必要
ここまでの議論と似たようなことは、教育業界でも頻繁に考えられてきたようです。たとえば、狭いアイデンティティの範囲内で自分の学習を最適化するのを「自己調整型学習(Self-regulated Learning)」、広いアイデンティティの中で自分の進むべき方向性を自分で決める学習は「自己主導型学習(Self-directed Learning)」というそうです。
また、未知のものに対して学習した方がいいのではないかと判断する力については「純粋直観」という似たような概念があるそうです。
自分のアイデンティティを広げるためのアプローチとして「ジョブ・クラフティング」という考え方もあるそうです。仕事を「Job」「Career」「Calling」という三段階に分けて、作業→成長→天職と進んでいくイメージだそうです。
ただ、何をやるにしても、時間的な、精神的な「余白」が必要だよね、という意見がありました。結局忙しかったら、新しいことに心を配ることはできません。余白がないと自分を見つめ直して、新しい未知へ挑戦することもできません。現代は豊かになって、仕事は減っているはずなのに、昔よりもはるかに余白はなくなって、みんな時間に追われて、切り詰められて生活している気がします。この辺りも、どうにか変えていきたいポイントですね。
感想
今回も、正統的周辺参加から始まって幅広い学習について議論することができてとても面白かったです。まだまだこの読書会から学べること、考えられることはいっぱいある気がするので、引き続き新しい本を探して読んでいけたらいいのではないかと思っています。
今後ともよろしくお願いいたします。