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反集中3 居場所の意味

反集中のインタビュー3つ目。以下から全文が読めるっぽいです。

都会の中で、どうやって自分の居場所を見つけるか。

はじめる前に頭のなかであらかじめ想像できるようなことを組んでいたら、こんなに豊かなこと起きなかった。むしろ、計画するということは、いろんな創造性の幅を狭めているんじゃないかとさえ思いました

会社なんかは、こういう計画でこういう見込みがあるからこれだけ投資する、みたいなロジックで動いています。何が起こるか分かりませんがやってみます、という提案はあまり受け入れられません。

でも新規事業は先が見えないから、あんまり計画せずとりあえずやってみるのが大事、とも言われていて。それを会社にもロジックで説明できるように、「ISO56002 イノベーション・マネジメントシステム」みたいな規格まで作って、いかに計画せずに動くことを計画するかに腐心しています。なんか不自由ですね。

私が15秒後に何をしゃべるかすら自分でもわからない。その都度、生命は生き直しているのだから、その流動性を狭めていくとどんどん苦しくなっていきます

人間はもっとゆるく流動的に生きていた方がいいんじゃないか、って。機械じゃないんだから。資本主義で効率的な工業生産を推進してきた結果、人間も機械みたいに動くのが最適になってきましたが、そういう無駄や余白のない種族は環境変化に弱いって自明の理ですからね。

身近な環境は似た者同士の方が快適ですが、種族全体としては多様性に富んだ方向に進みたいですね。資本主義一極集中は危険です。しかし資本主義が強すぎて、他の生き方が淘汰されてしまうのも事実で、どうやって多様性を確保するのがいいのか。やはりISOで規格化するしかないのか。

「こう振舞ってほしい」というメッセージを発していない空間みたいなものが、都市のなかに必要なのかなと思いました。「なんのためにあるのか」を問わない場所

TPOをわきまえましょうとか、場所に応じた暗黙のルールみたいなのがありますけど、そういう規格化された場所では新しいことは起こりにくいです。なんでもいいよ、なんでもなくてもいいよ、と全てを受け入れてくれる場が都市の中に必要だと。

田舎にはそういう場所はあるのかな? 大自然に囲まれていれば、少なくとも人間が提示するルールはないから、自分の自由にできる気はします。そうした、身を委ねられる寛容な環境が、不足しているのでしょう。生き苦しいですもんね、都会。

都市のなかで、「自分のことを語っていい場所」ってなかなかないんですよ。飲食店や家のなかではないちょっとパブリックな場で、「私はこうしたい」みたいな発言が許される場

これは難しいですね。大自然は何のリアクションもないですけど、都市の中で、人間関係のなかで、自分を無条件に受け入れてほしい、というのは、とても難しい。それってすごく余裕のある人しかできない。傲慢で上から目線にならないとできない。それくらい強い行為としての救いを弱者が求めるのは、構造的に良くない気がします。

強い人に依存しないと生きていけない場はサステナブルではありません。もっと大自然のように、ただそこにあるだけで、勝手に自分で自己解決して勝手に救われるタイプの救いにした方がいいです。

都会の人はお互いに無関心でいることをルールとして密な状態を耐え忍ぶように進化しました。都会の密のなかで、お互いに心地よく関心を向けあうというのが可能なのか、私には分かりません。誰か強い人にファシリテートしてもらうか、都会の中に「疎」が許される空間を用意する必要があります。それは地価の高い都会の中では贅沢なことだと思いますが。

「疎」の空間に入ることが許された人は幸せでしょう。最初はそういう空間の存在自体が人づてにしか伝わらないので、限られた人たちの中で安定した運営ができると思います。しかしそれがバズって多くの人が来るようになったら、その「疎」を維持するのが困難になります。

そう考えると、私たちは身近な空間に、多少のランダム性をもった、あいまいに閉じた場を設定して、半パブリック半プライベートな交流を持つのが幸せ、ということになるのかなぁ、と思いました。

そう、イベントバーエデンみたいなやつですね。


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