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「タテ社会の人間関係」要約
中根千枝さんが現代の日本社会を分析した本書を読みましたが、会社で働く身として非常に面白かったので要約します。ああ、これだから日本企業はダメなんだ、という要素を隅々まで体感できます。
2章 「場」による集団の特性
日本人は資格よりも場を優先する。記者、エンジニア、といった資格よりも、朝日新聞の記者、シャープの技術者、といったように所属する会社の方が重視される。日本の企業は「家」と同じような関係で、従業員は嫁の立場にそっくりである。終身雇用制によって、仕事を中心とした従業員による封鎖的な社会集団が構成される。
人間関係の強弱は、実際の接触の長さ、激しさに比例する。日本のいかなる社会集団にあっても、「新入り」がヒエラルキーの最下層に位置付けられているのは、この接触期間が最も短いためである。年功序列の温床もここにある。実際の接触の長さが個人の社会的資本となるため、勤続年数が長くなるほど転職することは個人にとって非常な損失となる。
外国人は、二つ以上の集団に所属して、そのすべてを大事にすることができるが、日本人コミュニティは各自に全面的参加を要求するため、二つ以上の集団に均等に所属することができない。そして一度コミュニティを離れると元の関係に戻るのは難しい。音信が途切れる、ご無沙汰するというのは大変失礼なことであり、そのまま疎遠になることが多い。
3章 「タテ」組織による序列の発達
集団内の関係は親子、師弟のように「タテ」に繋がりやすく、兄弟姉妹のような「ヨコ」の関係は弱い。会社内では、年齢、入社年次、勤続期間の長短などで序列が生じる。どれくらい能力を有しているかよりも、こうした序列の方が大きな影響力を持っている。
年功序列制の長所は、いったん雇用関係が設定されれば、その後なんら変更・是正の必要がないというシステマティックな運営にある。個人の能力差はミニマムに考えられる。能力主義をとるには、個々人の能力差を克明に判定する必要があるが、日本社会にはそのような判定法が存在しない。日本人は「働き者」「怠け者」というように個人の努力差には注目するが、「誰でもやればできるんだ」という能力平等感が根強く存在している。
実際の能力差による比較は、同期入社の間など限定的な候補の中で行われる。能力のある者には、より多くの仕事、重要な仕事を負担させられ、同期の中では昇進が早い、といった具合だ。
個人能力で活動するはずの作家や俳優などでさえ、序列意識が根強く存在する。学術においても教授、助手、学生といったタテの関係が存在するため純粋な学問的議論ができない。
4章 「タテ」組織による全体像の構成
日本人の好む民主主義とは人間平等主義に根差していて、西欧の伝統的な民主主義とは質的に異なる。日本人は、たとえ貧乏人でも、成功しない者でも、教育のない者でも、そうでない者と同等に扱われる権利があると信じこんでいる。
この根強い平等主義は個々人に自信を持たせ、努力を惜しまず続けさせるところに大きな長所がある。これが日本社会に驚くべきモビリティを与えている。江戸時代から現在までの農村の家々の興亡を調べると三代以上つづいて上層を占め続けたというのは少なく、五代以上となると例外に近くなる。
インドでは貧しい下層カーストの人々が心理的にみじめではないことに驚く。そのカーストに生まれれば死ぬまで同じカーストにとどまる、競争に敗れたという悲惨さがない、という安定した気持ちと、同類がいてお互いに助け合うという連帯感を持ちうるためと思われる。「ヨコ」の繋がりが強い。
しかし日本では「タテ」の上向きの運動が激しい社会なので、下層にとどまるということは非常に心理的な負担となる。上へのルートがあるだけに、下にいることは競争に負けた者、没落者であるという含みが入ってくるからである。そのため同類を敵とみなし、「ヨコ」の関係は弱くなる一方だ。
この並立する者との競争は、日本の近代化に偉大な貢献をした。常に上向きであるということは人々の活動を活発にし、競争は仕事の推進力となった。しかし同時に分業ができないという短所も持っている。分業志向が強ければお互いが専門とするものを社会に共有してネットワークを作り、一つの大きな有機体となる。しかし日本ではすべての製品を自前で用意しようとするため、過当競争が助長され、不当なエネルギーを浪費し、格差が生じる。
このような連帯性のない孤立集団の存在は、中央集権的な政治に好都合である。孤立した諸集団を統合する行政網は各集団内部の「タテ」の線を伝わって底辺にまで難なく達することができる。江戸時代の徳川体制は士農工商という身分で「ヨコ」に区切り、藩という「タテ」の組織を設けて両者を交差させた非常に優れた制度であった。
5章 集団の構造的特色
日本の「タテ」社会は図のXのように頂点でしか全員と繋がっていない。図Yのように全員が繋がっている場合、この組織に新しく人が加入すると全員に影響があり、全員の承認が必要となる。しかし図Xの場合は、誰か一人と緊密な関係を作って、その下につく形で簡単に成員になることができる。
Yの組織は排他的ではあるが、いったん成員に参加できれば新参者でも他の成因と同列に立つことができる。また、全員の承認を得るのは大変なので、ルールが明確に規定されて、このルールによって成員の資格がはっきり決まるようになる。個々の成員は人間関係よりルール自体に忠実になることで集団構成の基盤ができる。
しかしXでは個人が集団参加したときの特定成員との関係がそのまま組織として定着してしまう。そして組織における位置の交換ができないため、古参が力を持ち、新参者は一番損な立場に立たされる不平等性が存在する。またトップに立つ「a」は組織の要となっていて、aの存在なしでは集団組織を構成できない。リーダーの交換は非常に困難である。また、a-bやa-cの関係が破綻すれば組織は分裂したり乗っ取られたりする。
一集団内でも「ヨコ」の連携は難しいので、別の集団との対等な合併はきわめて困難である。一方が他方を吸収合併して系列化すれば、「タテ」の関係で組織がつながるのでスムーズに進む。
6章 リーダーと集団の関係
日本のリーダーは、どんなに能力があっても、自由に組織を動かすことはできない。リーダー(a)は直接の幹部(b, c)を通さないと成員を動かせず、幹部たちの力関係の調整に相当なエネルギーを使わなければならなくなる。
日本の集団ではリーダーシップが集団全体によって制限されていて、リーダーより部下の力が強い。稟議制というのもトップダウンではなくボトムアップで意見を出して採用してもらっている。
これは極端にいうと上に立つものはバカでもいいことになる。むしろ上の者はバカな方がよく、上の者ができすぎると子分の存在理由が減ってしまう。天才的な能力よりも、人間に対する理解力・包容力を持つことの方がリーダーの資格に重要である。どんな能力のあるリーダーでも、子分を情的に把握し、彼らと密着に「タテ」の関係に繋がらない限り、よいリーダーにはなりえない。
日本における輝かしいリーダーと言うものは、リーダー個人の力によって集団を形成しているのではなく、もともと力関係に置いて優勢であった集団から有能な個人がタイミングよくリーダーに異動してきたパターンだ。
7章 人と人との関係
社会組織の基盤となる人と人との関係には三つの方法がある。これまで述べてきた「タテ」に結ばれるエモーショナルな関係、カーストのように「ヨコ」で繋がる関係、そして「契約」による関係だ。
西欧では契約によって関係が築かれるので、全く面識のなかった者同士でも、契約目的のために全員で協調する。しかし日本では、こうした寄り合い所帯は仲間割れをしたり上手くいかないケースが多い。それよりリーダーが愛弟子ばかりを集めた内輪のチームを作った方が目的を遂行しうる。
人と人との関係を何より優先する価値観は、宗教的ではなく道徳的である。対人関係が自己を位置づける尺度となり、自己の思考を導く。「みんながこうしているから」「他人がこうするから」という考えで自己の行動が決まり、他人の行動を規制する。日本人の価値観には、"絶対"を設定する思考・論理的探究というものがきわめて低調で、かわりに直接的・感情的人間関係を前提とする"相対"が強く存在する。
論理的な反論はできない、論理を敬遠して感情を楽しむ会話がメインとなる。気が合った仲間と、断片的に言葉を発するだけで通じる、非論理的な会話がリラクゼーションとして大いに貢献している。反対の、ゲーム的な対話や批評は許されず、議論は最初から最後まで平行線で終わる。