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短編小説:婆ちゃんの天眼 (3)

3 夫婦円満


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 通信・通話アプリをスマートフォンにインストールしたばかりのトミ子婆ちゃんが、「友達登録」をした息子夫婦と孫たちに「緊急家族会議招集」の一斉連絡をしたのは、新型コロナウイルスの感染が首都圏に広がる半年前のことである。三男昭夫の長女、真理が離婚したいと言い出し、相談を受けたトミ子婆ちゃんが家族会議に諮ることにしたのだった。

 家族会議は土曜日の午後四時から始まった。真理のほか、真理の母親桜子と弟の真一、真司、いとこの良則と圭菜、伯母の幸子が顔をそろえた。

 トミ子婆ちゃん宅のダイニングは十畳しかなく、八人には狭く感じられた。大テーブルの席に着くと互いの肩が触れ合った。なぜか、ビールと枝豆、冷ややっこ、柿の種がたんと大テーブルに置かれていた。

 「俊勇と昭夫は来ないのかい。特に昭夫は。真理の父親だろ」

 口火を切ったトミ子婆ちゃんに昭夫の妻である桜子が言い訳をする。

 「昭夫さん、営業でゴルフに行っています。帰宅は夜九時を回るそうです。お母さん、すみません。昭夫さんの考えはのちほどわたしがきちんと説明しますので……」

 「仕事じゃしょうがない。俊勇の方はどうなんだい? 幸子さん」

 トミ子婆ちゃんから尋ねられると、幸子はまるで模範解答を読み上げるように「俊勇さんは有明の東京ビッグサイトで商談会です。イベントのあとはお得意様の接待が予定されています。帰宅は深夜遅くになるとのことでした。俊勇さんの考えも、のちほどお伝えします」と答えた。

 家族会議はのっけからピリピリした。トミ子婆ちゃんの声はいつもと違い、ドスがきいている。出席者は家族会議が出す結論が「本人次第」になることを前もって知っている。知らなかったのはトミ子婆ちゃん一人である。孫の真司だけは婆ちゃんが知らないふりをしていると疑っていた。

 「それでは真理からあらためて話を聞こうか。なぜ、離婚したいと思うんだい?」

 真理と夫の充啓は結婚して一年もたっていない。親類一同がラブラブだと思っていた。赤ちゃんがいつできるのかと注目の的だった。亀有香取神社で結婚式を挙げ、文豪も訪れた柴又の老舗日本料理店で百二十人が出席する披露宴を催し、祝福された二人である。それだけに見栄っ張りで世間体を気にするトミ子婆ちゃんの胸中は複雑だった。口には出さないものの「離婚したら百二十人の方々へ、離婚することに相成りましたと連絡を差し上げないといけない。こりゃ大変だわい」などと考えを巡らせていた。

 真理の話は混乱していた。

 充啓は勤務先の上司によるパワーハラスメントが原因で、心療内科で「うつ病」と診断されていた。結婚前の話である。パワーハラスメントがエスカレートして心身のバランスを崩し転職を考えていたにもかかわらず、充啓はこのことを真理には内緒にしてプロポーズした。真理は充啓の体調異変にはまったく気づかなかった。付き合いが一年以上も続いていたにもかかわらずだ。

 「好きな相手の体調が分からないということがあるのだろうか。恋に動転していたということか。さっぱり分からん」とトミ子婆ちゃんは黙って首を傾げた。

 涙声になった真理の話は続く。

 結婚式の翌日から「転職したい」と充啓は言い出した。新婚旅行先のハワイでも「転職したい」と繰り返した。朝起きてから夜寝るまでの間、ずっとである。ワイキキビーチでも言った。ダイヤモンドヘッドの頂上でも言った。アラモアナショッピングセンターでも言った。ノースショアでも言った。帰りの飛行機でも成田空港でも言った。

 真理は充啓の態度を「後だしじゃんけん」となじった。結婚前に相談を受けていれば、うつ病を克服し転職したあとに結婚する選択肢もあったと真理は憤る。パワハラ上司と会社を訴えることもできた。裁判で一緒に闘うこともできた。「後だしじゃんけん」ではそれはできない。戦う意欲が湧かない。

 真理は孫のなかでトミ子婆ちゃんに一番性格が似ている。黒白を付けたがる。カッとなると言動が乱暴になり見境がなくなる。それでいて正義感が強く涙もろい。弱い者の味方になりたい。世界は自分を中心に回っている。二人はいつもそう考えている。

 大学で応援部に所属した真理は早起きが苦でないことから大学卒業と同時に、青果物卸売会社に就いた。卸売市場で花形の女性せり人を務めるようになった。朝五時から昼二時までの勤務時間は、忙し過ぎて守られたことはない。残業続きである。それでも九月にある亀有香取神社の例大祭では神輿を必ず担ぐ。ただ、せり人になってからは声を出すのは控えている。声が枯れるとせりの仕事に差し障りがあるからである。

 電機メーカーで営業を担当する充啓と出会ったのは、人材紹介業者の企画する異業種交流会だった。大学時代に体育会でラグビーに熱中した充啓とすぐに意気投合した。スポーツ観戦のデートを毎週末に重ね、真理が二十八歳、充啓が三十歳の時にめでたくゴールインした。

 真理の話を黙って聞いていたトミ子婆ちゃんがビールをひと口飲んだのを合図に、それぞれがビールやつまみを口にした。五時半を過ぎていた。空腹を覚えたのはトミ子婆ちゃんばかりではなかった。真理を除く孫四人はすでに空腹に耐え切れず、お腹を大きく鳴らした。

 トミ子婆ちゃんが言った。

 「がんもと大根とこんにゃくの煮物が冷蔵庫に用意してある。それに海老チリ、チンジャオロースの具材もある。ちゃちゃとこさえてくれ。幸子さんと桜子さん、いいね」

 真理の話は結びに近づいた。一方で家族会議は宴会の準備に入った。家族会議のあとの宴会は毎度のことである。

 「転職したい」の話ばかりを聞かされるとこちらまでノイローゼになる。充啓さんは優しくて真面目。でもそれだけ。幸い、子どもがいないのでふん切りをつけたい。覚悟はできている。シングルマザーになるよりはいい。家族と親類一同に祝ってもらった結婚だけどしょうがない。第二の幸せを見つけたい。

 思ったことを順番に各自が口にするよう、トミ子婆ちゃんに促された。

 「真理の気持ちが大切だよ」

 「真理姉ちゃんが決めたことなら、誰も反対しないよ」

 「充啓さんが真理を大切にしていないようなら、離婚もしょうがないわね」

 「自分の気持ちに正直になるって素晴らしいと思う。真理ちゃんのことを尊重したい」

 「真理さん、もう泣かなくていいわよ。いっぱい食べて元気出しましょう」

 「俺は充啓を許さない。姉ちゃんを傷つけやがって。『後だしじゃんけん』をするなんてとんでもない。殴り倒してやる」

 真理はトミ子婆ちゃんのひと言を待っていた。

 「どっちでもいいだろ! お釈迦様はお見通しだよ!」

 十畳のダイニングに大きな声が響いた。

 それから宴会になった。ダイニングテーブルにがんもと大根とこんにゃくの煮物、海老チリ、チンジャオロースが盛り付けられた。それぞれ十人前はあった。餃子とシュウマイが追加で十人前用意された。夜十時すぎに営業ゴルフを終えた昭夫が顔を見せた。みんなでき上っている。昭夫もろれつが回らない。

 「ところで真理はどうするの?」

 真理が父親の昭夫に手短に説明する。

 「別れることにした。父さん、ごめんなさい……」

 「そうか。分かった」と昭夫はそれだけ言った。その声は優しかった。
仏間にある柱時計の音が午前〇時を知らせると家族会議はお開きになった。

 一週間後、真理から全員のスマートフォンに通信・通話アプリを使った連絡が入った。

 「♡緊急報告・離婚について💛」とハートマークの入ったタイトルに続いて、次のように書かれていた。

 「この度はご心配をおかけして申し訳ありませんでした。充啓さんとよく話し合いました。行き違いの多々あることがはっきりしました。二人でやり直したいと思います。幸せになれるよう努力いたしますので、これまでと同様のご厚情を賜れればと願っています💛」

 ハートマークに違和感を感じたトミ子婆ちゃんは仏壇に報告した。

 「ありがとうございました。真理たち夫婦は離婚しないことになりました。やはり、お釈迦様はお見通しでした」

 どっちに転んでも、お釈迦様に対するトミ子婆ちゃんの信心は変わらないのである。
                             (つづく)


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