【短編小説】忘れんぼ探偵と光る風泥棒
二〇××年八月十九日号外記事より抜粋
『いっかく号、空中分解 乗組員生存絶望』
スペースシャトル・いっかくが、日本時間十九日午前十時ごろ、何らかのトラブルで空中分解し地上に墜落した。日本航空宇宙局は、乗組員六名全員の生存は絶望的とみている。乗組員の死亡が確認された場合、日本製の有人宇宙機の死亡事故は今回が初。
いっかくは先月二十八日に朝日宇宙空間観測所(東京都府中市)から打ち上げられた。ヒガシ船長をはじめとした日本人四名を含む乗組員六名は、約二十二日間にわたり地球周回軌道上にて科学実験を行っていた。日本政府は「テロの情報はない」とし、救助チームを派遣、調査を急いでいる。……
第一章
『八月十九日(日) 天気 知らない』
いっかくの事故から今日で四年たちました。私は小学五年生になってしまいました。いっかくの船長だったお父さんが死んでから、まだ四年しか経ってないんだなあ、と思います。お父さんとの思い出を、何だか遠い昔のことのように、忘れて行ってしまいそうでこわいです。生きていたお父さんとの最後の思い出は、いっかくに乗り込むお父さんに、手をふったことです。でも、それを思い出そうとすると、事故のしゅん間も自然と思い出してしまいます。だから、思い出したいけど、思い出したくないんです。お父さんが死んでからの四年間は、毎日が楽しくもなければおこることもなくて、からっぽで、なのにお父さんの生きていたことと死んだことばっかり頭の中でぐるぐるして、ただ時間が流れてねむくなるのを待つような日々です。
昨日自分が書いた、夏休みの宿題の絵日記を見返す。寝る前に書いたから、少し正直な気持ちを書きすぎたかもしれない。絵も……余白を真っ黒に塗りつぶしているし。恥ずかしさが込み上げてきた。でも、一度全部消して書き直すのもおっくうだったし、これから病院に行かないといけないからと、無理やり絵日記帳を閉じた。
「ナナミー? そろそろ行くよー」
お母さんののんびりした声が一階から聞こえてきた。
「はーい」
のんびりした声につられて私ものんびりした返事をして、二階の自分の部屋を出て階段をぱたぱたと下りる。お母さんの軽自動車の助手席に乗り、病院へ向かう。前回の診察から新しい先生になった……と思う。そういう話だったからそうなんだと思う。前の先生は優しかったけど、私の症状が何の病気なのかは、よく分かっていないようだった。医学のことは全然知らないけど、その先生が分かっていないことは何となく分かった。
小学校に入学して五回目の夏休み。学校を休まなくていいから、平日の昼間に病院に行くのを申し訳なく思う必要がなくて、少し気が楽だった。
「前回の問診の結果を鑑みるに、ナナミさんはタマネギ病でしょう」消毒された清潔な匂いに満ちた真っ白な診察室で、目の前のお医者さん(多分男の人)が言った。
「タマネギ病?」診察に付き添ってくれているお母さんがお医者さんの言葉を繰り返した。
「はい。ここ十年くらいで明るみに出てきた精神障害です。新しく認知され始めた障害なので、精神障害の診断マニュアルや国際的な疾病分類にはまだ記載されていません。医療関係者でも知っている者は少ないでしょう。治療法も確立していません」
全てが同じ価値に思える(つまり、全て価値が無いと思うことと一緒)。人の顔が全て同じに見える。心がからっぽ。何もしていなくても涙が出てくる……。前回の初めての診察で私がお医者さんに伝えた症状は、タマネギ病のそれに当てはまったらしい。
人の顔が同じに見えるとはどういうことかというと、違いが分からないのだ。顔に目や鼻や口がついている、ということは分かる。だけど、顔のパーツを総合して見て、この人は優しい顔だからお母さんで、この子は大人っぽい顔立ちだからクラスメイトの誰々ちゃん、みたいなことが分からない。性別も分からないから声の高さで何となく判断しているし、大人か子どもかも分からないから、身長で判断している。そういう専門家じゃない人が、アリ一匹一匹の顔や、それこそタマネギの一つ一つの違いを識別できないようなものだ。実際、お医者さんとお母さんの顔の違いも分かっていない。声や服装の違いで見分けているというわけだ。
切っても切っても中身が無い。あるのは同じ形をした「からっぽの心」。なのに涙がぽろぽろ出てくる。それがタマネギ病。
先生の座っている椅子の後ろの大きな正方形の窓を、青々とした木の葉たちが風に揺れながら外から撫でていた。真っ白な雲が空を覆っていて、病院の外も中も真っ白で、なんだか病院という箱庭に閉じ込められたような気分だった。
「ナナミさんは未成年ですから、薬の処方はできるだけ避けたいと考えています」
「わかりました」先生の言葉に私はうなずいた。それだけなのに、右目から涙が一粒零れ落ちた。楽しくなくても、笑顔でいれば自然と楽しい気持ちになる! なんて、よく励ましの言葉として使われる。実際、お父さんが死んだ後とか、周りの同じ顔の人たちから言われたことがある。でもそれなら、悲しくなくても、涙が出れば自ずと悲しい気持ちになるのだ。
先生は静かに涙を流す私をちらと見て、お母さんにスケジュールの確認をした。先生が診察を切り上げようとしている。午前の診療時間がもうすぐ終わるからだろう。
「ありがとうございました」お母さんが立ち上がって頭を下げた。
「ありがとうございました」私も泣きながらそれに続いて頭を下げ、二人で診察室を出た。診察室の真っ白な床に透明な涙を二つ落としてしまったけど、拭くタイミングが無かった。汚してしまって少し申し訳なかった。病院の廊下を、溢れてくる涙をハンカチで拭いながらゆっくり歩いた。
待合室で会計を待っている間、ソファに隣同士で座っていたけど、お母さんとはほとんど話をしなかった。
「来週からお母さん、仕事忙しくなっちゃうんだー。お金は渡すから、一人でここまで来られる?」
「うん」私がうなずくと、それで会話は終わった。
隣に座るお母さんを横目で見てみると、スマホでニュースサイトを開いてその画面を見つめていた。親指で上、下、上、下、と繰り返しスクロールしているだけで、文字の情報は目に反射しているようだった。
自分の症状に正式ではないとはいえ病名がついていることを知って少し安心した。でも、自分と同じような症状で悩む人が他にもいることを知って、がっかりもした。これといってとりえのない私の唯一の個性だと認めてもらいたかったのかもしれない。でもタマネギ病の人は他にもいるらしいし、多分これからもっと増えていくことだろう。新しくタマネギ病になる人の他にも、今までタマネギ病だったけど別の病気だと思われていた人とか、タマネギ病の症状を病気じゃないと思って過ごしてきた人とか、色々だ。
タマネギ病の人がタマネギ病の人を見たら、どんな顔に見えるんだろう? ふとそんなことを疑問に思った。本当にタマネギ頭に見えていたりして。……いやいや、それよりも多分大事なのは。私から見て「同じ顔」の人たちは、いったい「誰」の顔に見えているのかということだ。「同じ顔」の正体が分かれば、何か治療の手がかりになるかもしれない。……タマネギ病を治療できたところで、お父さんは帰ってこないけど。
「ヒガシ・ナナミさん」お母さんと同じ顔をした受付の(多分)お姉さんが私を呼んだ。お母さんが先に「はい」と返事をして、二人でソファから立ち上がり、お会計を済ませてくれた。
「良さそうな先生で良かったね」帰り道、お母さんが正面を向いたまま、私に目を合わさないようにしながら全く中身のないことを言ってきた。これは仲が悪いのではなくて、私がお願いしたのだ。同じ顔の人たちにじろじろ見られるのが怖いから。
「うん、お話聞いてくれそう」私も正面を向いたまま答えた。二人黙って、相手の速さを窺いながらお互いに歩調を合わせようと歩いて帰り道を急いだ。さっきまで真っ白だった空はうっすらとオレンジがかって、ヒグラシがケケケケケケと鳴き始めていた。家の近くの十字路に差し掛かった時、私の後ろから、
「ナナミちゃん!」その声に安心と驚き半分半分の気持ちで私が振り返ると、マイちゃんが立っていた。
「あらマイちゃん、こんにちはー」お母さんも足を止めて振り返り、マイちゃんに挨拶した。
「こんにちは!」彼女はハキハキとお母さんの挨拶に返事をしてくれた。
「こんにちは。塾の帰り?」私が尋ねると、マイちゃんは笑顔でうなずいた。
マイちゃんは、私が唯一「違う顔」と認識できる人物だ。小学校に入学してから知り合ったんだけど、一年生の二学期の頃にはもうタマネギ病だった私にすごく優しく、仲良くしてくれた。私もマイちゃんが「違う顔」なのが嬉しくて、学校では常にマイちゃんと一緒にいた。しかも私と誕生日が同じで、マイちゃんの名字はハタだから、新しい学年の初めは必ず前の席にマイちゃんが座る。学校の先生たちが考えてくれているのか分からないが、私は今のところマイちゃんとずっと同じクラスだ。マイちゃんは勉強ができて絵も上手、しかもスポーツもそつなくこなせる。そんな万能な子が、どうしてこんな私と仲良くしてくれるんだろう。何でもできて他の子とは違うから、「違う顔」なのかなあ。
「ナナミちゃんちょうどよかった」と言いながら、マイちゃんが塾用のリュックサックからいそいそと何か取り出した。それは、隣町の博物館で明日から開催する「コロンビア黄金展」の招待券だった。
「これ! コロンビア黄金展の招待券! 塾でもらったんだ。しかも二枚! 急なんだけどさ、明日一緒に行かない?」マイちゃんは矢継ぎ早に説明した。彼女は頭の回転が速いタイプの頭の良い人だからか、結構早口なのだ。
「明日って何かあったっけ?」何も無いことは分かっていたが、私はお母さんに念のため訊いた。
「ううん、お母さんは仕事だけどー、それ以外は特に」お母さんはマイちゃんを笑顔で見つめながら答えた。
「そっか。じゃあ明日行こう。天気も良いみたいだし」スマホで明日の天気を調べながら私はマイちゃんの誘いに乗った。
「やったあ!」マイちゃんは一層笑顔になって喜んでくれた。
「じゃあ明日、十三時に駅前集合ね!」と続けた。マイちゃんには他に友達もたくさんいるのに、いつもわざわざ私を誘ってくれるのは、私の病気を気遣ってのことなのだろうか。申し訳なさを感じつつも、素直に嬉しかった。
「鍵、ちゃんと持って出かけてね。あとガスの元栓も確認してね」
お母さんの言いつけに私はうなずいた。するとまた、左目から涙が一粒零れてしまった。急いでポケットからハンカチを取り出し、左目を押さえながら、
「それじゃあまた明日、十三時に駅前集合で」と、さっきマイちゃんが言ってくれたことを繰り返して、彼女と私たちは別れ、それぞれの家路についた。私が涙を零してしまった時、ちょっとマイちゃんが私のことを心配そうに見ていたけれど、私は精一杯の元気を出してぎこちない笑顔で彼女に手を振った。ヒグラシの声が一段と強くなった。
『八月二十日(月) 天気 晴れ』
病院に行きました。
新しいお医者さんが、私のことをタマネギ病だと言いました。
ちょっとまぬけな名前の病気だけど、名前のわりにけっこうしんどいと思います。
まぬけな名前だから、どうせ大した病気じゃないだろうと思われるかもしれません。
でもしんどいのはしんどいんです。
病院の帰り、マイちゃんに会いました。明日は博物館に行きます。
ヒグラシの鳴き声ってなんかこわい。
今日の絵日記帳の絵を描くところには、白い病室の窓から見える木を描いた。
翌朝。目覚まし時計の音ではなく、自然と目が覚めた。妙に寝覚めがすっきりしていたので、嫌な予感がして時計を見てみると、十一時を過ぎていた。本当は八時に起きて宿題をやりたかったけどしょうがない。無意識に目覚ましを止めてしまっていたらしい。絶望的な寝坊ではなかったが、予定が狂うには狂ったので、ベッドの上で布団を被りながら、出発の時間までどうしようかぼんやりと考えていた。
半袖のTシャツとキュロットスカートに着替えてから自室を出て一階に降りると、お母さんはとっくに仕事に行っていた。冷房をつけたままにしておいてくれたらしく、真夏ではあるが家の中は涼しい。食パンでも焼こうかと思ったが、今朝ごはんを食べるとお昼になってもお腹いっぱいになっていそうだったので、十二時まで我慢することにした。
とりあえず十二時まで少しだけ宿題をしようと思い、歯みがきと洗顔を済ませて二階の自室に戻った。机に向かい、横に掛けてあるランドセルから算数ドリルを取り出すと、とりあえず今日の分だけ問題を解いた。
問題を解き終わり、スマホの時計を見ると十二時少し前だったので、一階のダイニングキッチンに降りた。家族三人が囲めるようにと、私が生まれたばかりの頃お父さんが張り切って調達したらしいテーブル。今は少し広い。四枚切りの食パンを袋から取り出して、トースターで焼く。その間に電気ポットで紅茶も淹れて焼きあがるのを待つこの時間が昔好きだった。
焼きあがったトーストにイチゴジャムを塗って食べる。トーストは耳がガリガリになる位よく焼く方が美味しいと感じる。せっかく焼くなら、とことん焼かないと、トースターを使った意味や価値のようなものがないという意識があるのかもしれない。
トーストを咀嚼しながら窓の外を見ると、世界が太陽の光で白んでいるのが見えた。今まで気にしていなかったけど、アブラゼミの声も窓越しにくぐもって聞こえてくる。今日は暑そうだ。
ブランチを食べ終えて、食器を流しに下げる。自分が使った食器は自分で洗うルールだけど、今は時間が無い。帰って来てから洗うことを誓って、使ってないけどガスの元栓を確認。エアコンの電源も切った。鍵も持った。それからスマホとお財布と、ハンカチをリュックに入れる。玄関に向かいスニーカーを履いて家を出た。
駅前の広場に着く頃、スマホを見ると十二時五十五分だった。夏休みだからか家族連れが多い。無論、みんな「同じ顔」だ。マイちゃんはもう来ているかな? マイちゃんを探すのもちょっと大変だ。そう思っていると、
「あ、ナナミちゃん!」マイちゃんが私を見つけて駆け寄って来た。
「ごめん、待たせちゃった?」と私が尋ねると、
「ううん、私も今来たところ」とマイちゃんが答えた。多分マイちゃんは、本当に今来たところかどうかは別として、こう答えてくれるんだろう。
「それじゃあ切符買って、電車乗っちゃおっか」
「うん」私はマイちゃんに主動してもらいながら改札を通り、電車に乗り込んだ。
博物館方面へ向かう電車は混雑していて座れなかったが、冷房が効いて少し寒いくらいだった。一駅しか乗らないのでさほど問題ではなかったけど、皆コロンビア黄金展が目当てなのだろうか。ともあれ、駅前と変わらず乗客は「同じ顔」だ。大勢の同じ顔の人々に囲まれているのが怖くて、私はマイちゃんの顔をずっと見ていた。
「大丈夫?」マイちゃんが小声で私に訊いてくれた。私は頷いて、次の駅に電車が止まるまで揺られていた。他のタマネギ病の人が私を見ても、多分周りの人と「同じ顔」なんだろうな。でもマイちゃんは違うかもしれない。マイちゃんは、天才だから。……平凡って、なんて不幸なのだろう。
博物館の最寄り駅に電車が止まり、私たちは足早に電車を降りた。冷房の効いた車内から一気に真夏の都会へと繰り出すと、気温差で何も感じない瞬間があった。徐々に暑さを身体が察知して、汗ばんできた。
「暑いねー。あ、でっかいポスター貼ってあるよ!」マイちゃんが指さす駅構内には、コロンビア黄金展の大きなポスターがあちこちに貼ってあった。今までそんなに気にしてなかったけど、もしかしてこの展覧会って、すごいやつなのだろうか。
博物館までは駅から徒歩約十分程度で着く。普段博物館なんて行かないし、最後に行ったのは三年前の学校の課外授業の時だ。学習塾やファストフードの店が立ち並ぶ駅前の通りを抜け、私たちは博物館の入口前にやってきた。博物館の敷地は庭園のようになっていて、木立には何匹か蝉が止まっているらしく、遠くに聞こえていた蝉の声も一層強くなった。
涙を拭くために持ってきていたハンカチでおでこの汗を拭いながら、マイちゃんの後に続いて博物館の中へと入っていった。三年前に来た時よりも内装が新しくなっており、当時は少し埃っぽい匂いのしていたのが、コンクリート張りの都市感溢れる造りになって、新しい塗料のような匂いがしていた。やはり夏休みだからか子供連れが多く、広くて薄暗い場所に興奮して走り回る小さな子どももいた。
「去年改装したんだよ。その記念に今回コロンビア黄金展を開いたんだって。三階にカフェもできたんだ」マイちゃんの説明を聞きながら、コロンビア黄金展を開催している二階まで続く階段を上った。二階の展示室前のロビーには「コロンビア黄金展」と書かれたタペストリーが大きく天井から垂れ下がっており、新聞記者らしき人たちが学芸員さんに取材していた。警備員さんの数もお客さんも一階より段違いに多くて、展覧会をやっている部屋の入口に立つチケットを確認する人のところまでたどり着くのに、五分くらい並ばなければならなかった。
列に並びながら、マイちゃんが昨日見せてくれた招待券を一枚私に渡してくれたので、それをスタッフさんに見せて、ようやくコロンビア黄金展の部屋の中に入ることができた。中はロビーよりももっと暗くて、展示されたまさに黄金の品々が、それぞれ照明に照らされてじんわりと輝いていた。中は車の渋滞みたいに、たくさんの人が並びながら少しずつしか進めなかったけど、結構暗いおかげで「同じ顔」をあまり気にせずに展示品を集中して見られた。でも、ふと展示されていた黄金の品々から目を離し、ガラスケースに反射する自分の顔を見て、ぎょっとした。それはマイちゃん以外の人たちと「同じ顔」だった。四年前からタマネギ病の症状はあったけど、昔より「同じ顔」に対する恐怖が強くなっている気がする。とにかく、私は「同じ顔」──個性の無い凡人なのだ。そう思うと涙が零れてしまって、前を歩くマイちゃんに気付かれないように急いでハンカチで顔をゴシゴシと拭いた。
黄金展の中でもひときわ人だかりのできているところがあった。列に並ぶ人たち(もちろん同じ顔だ)の話が耳に入って来るに、それは「黄金ジェット」と呼ばれるオーパーツらしい。オーパーツとは、それが作られた時代ではありえないような技術の結晶……だったっけ。何年か前に読んだオカルト雑誌にそう書いてあった。その時代にはありえない、進歩したもの。何となく、私の前を列にならって歩くマイちゃんの背中を見つめた。
列が少しずつ進んで、私たちが黄金ジェットを見られる番になった。それは幅五センチ位の小さなジェット機のような形をしていた。大きさに対して大げさなほど観覧者との距離を離すよう柵が置かれており、柵ギリギリまで身を乗り出さないとそれがどんな形をしているのかよくわからなかった。
「見て! すごいね。これがコロンビア黄金展の目玉だよ」マイちゃんが小声で、でも興奮した様子で黄金ジェットを見ていた。
だけど私が一番気になったのは「黄金ジェット」が、昔お父さんのくれたロケットペンダントにそっくりだったことだ。まさかこんなところでお父さんとの記憶を思い出させられるとは思っていなくて、黄金ジェットを眺めながら、私はまた涙を浮かべてしまった。
私たちが先に進もうとすると、黄金ジェットを観覧する人たちの列がなにやら詰まっているようだった。列の先には、一人の男性が列の進行方向とは逆向きに立って、博物館にしては大きな声で警備員さんと揉めていた。
「……だから今夜、ここに『光る風泥棒』が来るに違いないのだ。奴はこの黄金ジェットを盗みに必ずやってくる」つい声の主である男性の顔が目に入ってしまい、しまった、と思った。だけど、その顔は違った。ちゃんと一人の人として、固有の顔を持っている。マイちゃんと同じだ!
「なんなんですかあなた。ヒカルカゼドロボーって何ですか? これ以上騒ぐようなら、強制的に外に連れ出しますよ」同じ顔の警備員さんは、あきれた様子で違う顔の男性の相手をしていた。その男性は夏だというのにヨレヨレのベージュのロングコートを着込んでいた。
「マイちゃん、マイちゃん、あの人顔が違う」私は思わずマイちゃんに話しかけた。マイちゃんの返事を待たずに、黄金ジェットの列を外れて、その男性の元まで駆け寄った。
「あ、あれ? ナナミちゃん!」マイちゃんが私を追って男性のところまでついてきた。
「おや? 君たちは……ええっと、私の助手、だったかな?」男性はポケットから手帳を取り出し、中身を捲りながら、不思議なことを私たちに尋ねてきた。しかも、さっきよりなんだか弱弱しい。自分の記憶に自信が無いようだ。
「はい、そうです。忘れちゃったんですか?」私は咄嗟にそう答えた。この人との関係をここで終わらせてはいけない。そう頭が警鐘を鳴らしていたのだ。
「え、そうだったの?」マイちゃんが驚いている。男性はううむ、と唸ると、
「すまない。覚えておきたいことは必ずこの手帳にメモしているはずなのだが。名前は何というのかな?」
「私、ナナミっていいます。こっちの子は友達のマイちゃん」
「そうか。メモしておこう」男性は手帳に鉛筆でさらさらと私たちの名前を書き込んだ。
「もうそろそろいいですか。これ以上列の流れを止められては困ります」警備員さんが苛立ちを隠せない様子で私たちに声をかけた。
「ああ、すまない。では最後にこれを」男性は再び手帳にさらさらと何か書き込んで、それをちぎり、私たちに一枚ずつ紙切れを渡してきた。どうやら彼の連絡先のようだった。
「それではね、助手の諸君。また会おう。警備している君、警告はしたからね」男性──紙切れの情報によれば、「探偵 カワダ・シンタロウ」さんは、警備員さんに連れられて黄金ジェットの人だかりから離れ、展示室を出て行った。
「……ナナミちゃん、知り合いなの?」
「ううん、違うけど。嘘ついちゃった」
私たちは観覧の列にそれとなく合流して、最後の展示品まで見終えると、博物館を出た。
久しぶりにワクワクした気持ちを抑えきれず、電車に乗っている時も、マイちゃんと別れ家まで一人で歩いている時も、私の口元には笑みが零れていた。
その日の夜。お母さんが仕事から帰ってきて、一緒に晩御飯を食べた。私が炊いておいた白いごはんにインスタントのわかめのお味噌汁、お母さんが買ってきたスーパーのお惣菜の天ぷら。
「今日ね、博物館で違う顔の人に会ったの」私は我慢できず、お母さんにカワダさんのことを話した。
「え、本当? どんな人なの?」
「えっと、カワダ・シンタロウさんって人。今日の夜、博物館に展示してる物を盗みに来る人がいるからって、警備員さんに注意してた」
「ええ? 何それ。どうしてわかるんだろうね?」
「うーん、なんでなんだろう。とにかく、ちょっと変わった人だったよ」それから、お母さんには言わなかったけど、お父さんと同じくらいの年齢の忘れんぼ探偵だよ。と、心の中で付け足した。
『八月二十一日(火) 天気 晴れ』
マイちゃんと二人で、博物館で黄金ジェットを見ました。
昨日博物館に行くことを日記に書いちゃったから、今日はあまり書くことが無いかもな、と思っていました。ですが、今日、マイちゃん以外の違う顔の人とぐう然出会いました。
探偵さんなんだそうです。お友達になれたらいいなあと思います。
暗闇の中で輝く黄金ジェットの絵を描いた。小さくてよく見えなかったから大体の形でしか描けなかったけど、絵が得意じゃないわりにはそれっぽく描けたと思う。
第二章
次の日の朝。朝と言っても、また昨日と同じく十一時くらいに目を覚ました。目覚まし時計に気づかず寝過ごしていたらしい。お母さんも当然仕事に行っており、家の中は静かだ。何となくスマホを見てみると、ニュース速報の通知が来ていた。
『速報 黄金ジェット 盗難される コロンビア黄金展で』
全国ニュースの欄に載っていたから、相当な大事件なのだろう。何より、カワダさんの言った通りになったことに、彼への得体のしれない尊敬の気持ちが高ぶった。私はそのニュース記事に一通り目を通した後、カワダさんにもらった紙切れに書かれた電話番号に電話をかけた。
「はい、カワダです」昨日博物館で耳にした、落ち着いていて深々とお腹に響く声がスピーカーから聞こえてきた。
「もしもし、私ナナミです」
「ああ、ええっと……ナナミ君、そうそう、ナナミ君。そうだ。昨日博物館で会ったね。私の助手だという」途中紙を捲るような音が聞こえた。手帳で必死に私の名前を探していたのだろう。
「それで、どうしたのかな?」カワダさんはまるで今朝のニュースを見ていないような口ぶりだった。
「今朝のニュース見ませんでしたか?」
「えーっと、見たかな。見ていないかな……」
「黄金ジェットが盗まれたんです」
「それは本当かい?」カワダさんの語気が少し強まった。
「カワダさんの言った通りになりましたよ」はやる気持ちを抑えて私は応えた。すると、
「私、そんなことを言ったのかね?」と、とぼけたようなことを言われ、私はすこし戸惑ってしまった。この人は少々忘れっぽい程度の人かと思っていたけれど、これでは普通の……「同じ顔」の人より生活に支障が出るレベルなのではないだろうか? いったいどんな才能があって、私に「違う顔」を見せてくれたのだろう?
「もう、探偵さん。昨日博物館で、『今夜黄金ジェットが光る風泥棒に盗まれる』って、言ってたんですよ」
「そうか。思い出した。またしても『光る風泥棒』にやられたか……」
カワダさんは悔しそうに唸っていた。それから、
「これから時間はあるかね? ひとまず私は博物館に向かおうと思う。ナナミ君も来てくれるかな」と提案され、私は、
「はい、すぐに向かいます」と反射的に答えた。
「これから博物館に向かうと、私は十二時半頃に着くだろう。それでいいかな?」自室の目覚まし時計を見ると、現在の時刻は十二時十五分を過ぎた頃だった。そんなに博物館の近所に住んでいたのか。
「はい。少しお待たせしてしまうかもしれませんが……。それから、マイちゃんも連れて行きます」
「マイちゃん、マイ君か。……えーっと、そうそう、マイ君も昨日会ったんだね。わかった。では二人とも、待っているよ」そう言ってカワダさんは電話を切ろうとした。既の所で、
「そうだ、十二時半になったら私に電話をくれないか?」と付け足した。
「良いですけど……どうして?」
「君たちとの約束を忘れてしまうからだ」と言って、今度こそ探偵は電話を切った。
私は急いでマイちゃんに電話して、支度を整え家を駆け出た。
十二時半になる頃、私とマイちゃんは博物館の最寄り駅の改札を出た。駅構内で私はカワダさんに電話をして、私たちとの約束を思い出してもらった。電話のたびに自己紹介をしなければならないようで手間取ったが、助手である私たちのことを覚えようともしてくれているみたいだったので責められなかった。
博物館へ向かう間、真夏の暑さも蝉の鳴き声も、同じ顔の人たちも全然気にならなくて、とにかく私はカワダさんに会うために早歩きになっていた。
私たちが博物館に到着したのは、十二時四十分頃だった。入口にカワダさんの姿は無かったので、私が先導して二階のコロンビア黄金展展示室へと階段を駆け上がった。展示室の入口は、ドラマでよく見る立ち入り禁止テープが張られていて、とても入れそうな雰囲気ではなかった。そんな蛍光イエローの立ち入り禁止テープの前に、相変わらず真夏だというのにヨレヨレのロングコートを着てカワダさんは立っていた。
「カワダさん、こんにちは」私が探偵に声をかけると、何やら俯いた様子の彼が振り向いた。
「ああ、ナナミ君とマイ君だね。ここまでご苦労」カワダさんは満足げに頷きながらそう言った。
「覚えていてくれたんですね」と私が言うと、
「もちろん。と、言いたいところだが……」さっきまで忘れないように手帳をずっと見ていたのだ、と彼は続けた。
「それで、えーっと、どちらがナナミ君で、どちらがマイ君だったかな?」
「私がナナミで、こっちがマイちゃんです」
「なるほど、なるほど……うーん、写真などはないだろうか?」
「あ! それなら私いいの持ってるよ」と、マイちゃんが言って取り出したのは、半年くらい前に撮った私と彼女のプリクラだった。それぞれに「NANAMI」「MAI」と落書きしてあるので、まあ、確かに丁度良い……かもしれない。でも結構恥ずかしい。思いっきり決め顔をしているし。
「シール帳持ってて良かった! これ、カワダさんの手帳に貼っててください!」と彼女は元気に言った。
「なるほど。ありがとうマイ君」とカワダさんはすんなり彼女のプリクラを受け入れて、手帳にそれを貼った。手帳に書いた私たちの名前と顔を一致させるように、手帳と私たちを交互にしげしげ見つめた後、探偵は話題を切り出した。
「……して、助手諸君よ。今回の事件、私は『光る風泥棒』の仕業に違いないと踏んでいるのだが、残念ながらこのテープの向こう側には入れなくてね」
私は探偵とその助手といえば刑事事件に直接関与できると思っていたので驚いた。
「え、どうしてですか?」と私が尋ねると、
「そりゃあ私たち、警察の方々からしたらただの部外者だからね。ドラマや小説のようにはいかないのだよ」とカワダさんは答えた。
「えっそれじゃあ私もナナミちゃんも、今回何をしにここに?」マイちゃんもどうやら私と同じ思い込みをしていたようだ。
「うむ。野次馬は野次馬なりに、できることがあるのだ。それに『光る風泥棒』は、私も個人的に行方を追っていてね。警察は犯人の尻尾をつかめていないようだけど、私には彼の仕業と確信できる証拠があるのだ」忘れんぼ探偵は立ち入り禁止テープの向こう側を見遣り、何かのタイミングを探っているようだった。そして鑑識さんが小さなビニールのチャック付き袋に入れた何かを持ってテープをくぐり、私たちの近くを通り過ぎた時、彼は言った。
「……やはり、今回の事件も、『光る風泥棒』の仕業に違いない」
「どうして分かるんですか?」私には今の一瞬のことで何が彼を確信させたのかさっぱりわからなかった。
「それはだね、ナナミ君。彼──『光る風泥棒』の犯行現場には、必ず鱗粉が落ちているからなのだよ。今あの鑑識は鱗粉を手に持っていた」
「鱗粉? って、蝶の翅の? どうしてそれが証拠に?」マイちゃんが矢継ぎ早に質問する。
「そうだ。『光る風泥棒』の背には、蝶の翅が生えているのだ」探偵は手帳に目を走らせながら言った。……いや、今何て? 背中に蝶の翅が生えた泥棒? この人、忘れんぼなだけじゃなくていよいよ本当にやばい人なのだろうか。
「どういうこと? どういうこと?」マイちゃんも困惑している様子で、私に助けを求めてきた。
「信じがたいだろうが、実在するのだから仕方がない。しかし、今回は惜しかった。今回こそ先回りして彼奴を捕まえられると思ったのだが」探偵はなおも手帳を見つめながら独り言のようにつぶやいた。
「……その、『光る風泥棒』って、黄金ジェットを盗んでどうするんでしょうか?」お金だけが目的なら、わざわざ人の注目が集まっているようなオーパーツを盗んで話題に上がろうとはしないだろうと私は思った。
「わからない。だが『光る風泥棒』は、黄金ジェットを……黄金ジェットだけを盗む泥棒なのだ。少なくとも、黄金ジェットが盗まれた現場以外では、彼奴の鱗粉は見つかっていないからね。私はそう推理しているようだ」他人事のように結論付けたのは、手帳に自分で書いた推理を忘れてしまっていたからなのだろうか。しかも、彼の口ぶりでは。
「黄金ジェットって、ここにあった一つだけじゃないんですか?」
そう。マイちゃんが今言ったように、黄金ジェットは複数あるようだった。
「そうだ。えー、今まで盗まれた黄金ジェットの持ち主と件数は……」探偵が手帳を捲っていると、
「すみません、ここ、関係者以外立ち入り禁止なんですけど」テープの向こうから初々しい青年の警察官が申し訳なさそうに私たちに言った。
「あ、ごめんなさい」私は咄嗟に謝った。
「ごめんなさい」マイちゃんも謝って、二人でカワダさんを引っ張って博物館を出た。
博物館の外に追い出されて、私たち三人は庭園の木陰で涼みながら作戦会議をした。
「今日のところは、これ以上ここで私にも諸君にも何もできない。私は今までの黄金ジェット盗難事件を整理しておくよう、手帳に書いておこう」カワダさんは手帳に「今までの黄金ジェット盗難事件を整理!」と大きく書いていた。
「私たちにできることはありませんか?」マイちゃんが探偵に訊いた。忘れんぼな探偵さんのためにできることがあるなら、私も協力したい。その思いはマイちゃんも同じようだった。何より、こんなにワクワクする夏休みはまたとない。
「ううむ。残念だが無いね。だが、私からの電話に出て、すぐ調査に出発できるよう、体調を整えておいてくれ」とカワダさんは私たちに言った。
私とマイちゃんがそれを承諾すると、探偵は「ではね」と手を振った。それを解散の合図と捉えた私たちは、各々の帰路についた。
電車に乗って自宅の最寄り駅で降り、マイちゃんと私はいつもの、私の家の近くの十字路で別れた。太陽はとっくに西に傾き、少し涼しくなった。ヒグラシが近くでわんわん鳴いていた。
一人で自宅まで歩いていると、ヒグラシの鳴き声で危うく気づかないでいるところだったが、リュックのスマホが鳴っているのが分かった。スマホの画面を見てみると「非通知」とだけ書いてあった。忘れんぼ探偵さんかな? カワダさんの方から電話が来るのは初めてだし、こんなにすぐに再会することになるとは思わなかったけど、まあいいか。案外すんなりと新しい事実が発見できたのかもしれない。そう思って私は電話に出た。
「はい、ナナミです」
「やあ、ありがとう」第一声からしてカワダさんのものではないことが分かった。その声はひょっとしたら女性のもののようにも聞こえるけれど、男性のような不思議な落ち着いた響きも持っていた。それから何か、後ろの方でしゃらん、しゃらん、と、細かいガラスが擦れている音と言って良いのか、シャンデリアが揺れているような音も聞こえていた。
「えっ……と。どちら様です、か?」
「黄金ジェットを持ち出したのは僕だよ」あっさりと自称犯人──「光る風泥棒」が自白した。
「どうして私の番号が分かったんですか?」私は事件の核心人物からの電話に、お腹の奥底からわなわなと、真夏だというのに震えた。
「返してほしければ条件があるんだ」仮称「光る風泥棒」は、私の質問には答えなかった。妙に優しい声質が不気味だ。
「条件って、な、なんですか」
「キミの持っているロケットペンダントがあるでしょう? それを僕に渡してくれるなら、博物館の黄金ジェットは返却するよ」しゃらん、しゃらん、と一定のリズムで聞こえるガラスの音と、犯人の声が耳につく。
「どうしてそれを……」光る風泥棒が私の質問に答えてくれるとは思わなかったが、訊かずにはいられなかった。
「それじゃあね、バイバイ」犯人は幼稚な挨拶で一歩的に私に別れを告げると、通話を切った。
私はしばし呆然と立ち尽くしていたけど、カワダさんに報告しなければと思い直して、その場で急いで電話をかけ、報告した。
「……そうか、わかった」報告内容を紙に書き取る音が聞こえ、カワダさんは話を聞いてくれた。
「さっそくだが、明日の夕方十六時に博物館近くの喫茶店『ヒスイ』で会えるかな? 調査の続きをしよう」
「わかりました。マイちゃんも誘います」
「うむ。その、君のロケットペンダントだがね」
「……はい」
「これからは肌身離さず持っておくんだ。君の目を離した隙に持って行かれないように」
「はい」
報告を終えて通話を切る。ツー、ツー、という電子音が頭の中に響く。その場でマイちゃんにも明日の要件の電話をした。太陽はすっかり沈んで、西の方角は黒とオレンジが混ざり合った、濁った色をしていた。
『八月二十二日(水) 天気 晴れ時々くもり』
「光る風どろぼう」が、私に電話をかけてきました。ぼくが黄金ジェットをぬすんだんだよと、自分から言ってきました。でも、けいさつの人に言って信じてもらえるんでしょうか。ちょうのはねが生えた人が犯人だって。
わすれんぼたんていさんのお手伝い、できてるのかなあ。
蝶の翅の生えた人を想像で絵に描いて、今日の絵日記を終えた。
第三章
次の日の朝、つまり十一時過ぎに目が覚めた。昨日の逢魔時にあった電話のことは、お母さんには言えなかった。昨日は私より先にお母さんが家に帰っていたみたいで、帰るのが少し遅すぎると注意された。
身支度と一階での朝食を済ませ、夕方のカワダさんとの用事まで宿題をしようと思い、自室に戻った。今日は漢字ドリルでもやろうか。ちなみに、宿題はその日その日に何となくやっていて、計画とか予定とかは全然立てていない。
今日の分の漢字ドリルのページを開き、書き取りをしていく。次のページに進むと、とある漢字が目に入った。「士」だ。「士」の使用例の中に、「宇宙飛行士」があった。思いもしなかったところでお父さんを思い出させる言葉に遭遇してしまい、少しうろたえたけど、とりあえず今日の分は終わらせた。
十五時を過ぎたので、そろそろ出かける準備をしようと思い、リュックサックの中身を確認する。財布と、スマホと、新しいハンカチ。それから、机の引き出しにしまっていたお父さんのロケットペンダントを首にかけた。今改めて見てみると、本当に博物館で見た黄金ジェットに似ている。でも唯一違うのは、そのペンダントを開くとお父さんの写真が入っているということだ。久しぶりにお父さんの顔を見た。お父さんは「違う顔」だ。宇宙船の船長で、優しい自慢のお父さんだった。
四年前の事故で、お父さんは、他の五人の船員さんたちと一緒に火の玉になりながら地球に帰ってきた。その時私は、お父さんの帰りが待ち遠しくて、お母さんと一緒に朝日宇宙空間観測所に出向いていた。だからお父さんが焼かれながら地面に墜ちていくのをこの目で見たのだ。その光景が、今でも、いつでも頭のどこかにはあって、それが私をタマネギにしている。……そろそろ外に出よう。昼間は暑そうだったけど、少し日の傾いた今は日影ができて涼しそうだった。
マイちゃんと一緒に冷房の効きすぎた電車に乗って、博物館の最寄り駅まで向かう。喫茶店「ヒスイ」は、駅から博物館に向かう途中にあるので、いつもより歩かなくて済んだ。ヒスイに到着したのは十五時五十分頃。アンティーク調のドアを手前に引くと、ドアベルがカランカランと鳴った。
「いらっしゃいませ」と同じ顔の店員さんが言う。私たちは軽く会釈をすると、涼しい店内へと入っていった。もうカワダさんは来ているだろうか。
「ナナミ君、マイ君」深く響く声が聞こえた方を向くと、カワダさんがこっちこっち、と手招いていた。相変わらずヨレヨレのロングコートを着て、汗ひとつかいていなかった。四人掛けのテーブル席に、カワダさんと向かい合うようにマイちゃんと腰かける。少しソファには高さがあって、私は床から足を浮かべていた。
「好きなものを選びたまえ」と、カワダさんがメニューを見せてくれた。店員さんがやってきて、
「じゃあ私、オレンジジュースで!」マイちゃんはこういうお店ではいつもオレンジジュースを頼むと決まっている。私も、
「じゃあ、メロンソーダで」と続いた。私もいつもメロンソーダと決めているのだ。店員さんは「かしこまりました」と言い、カウンターへ戻っていった。
「すみません、待たせちゃいましたか?」私がカワダさんの様子を窺うと、
「いや、そんなことはない。私もつい先ほど来たところだ」カワダさんがそう答えた。本当かどうかは分からないけれど、大人って大抵そう言うのかもな。
全員分の飲み物が運ばれてきて、カワダさんはコーヒーにミルクを混ぜながら言った。
「状況の整理をしよう。まず、博物館から黄金ジェットが盗まれたのが、えーっと…」
「おとといです」ミルクをかき混ぜながら彼の言葉が詰まったので、助手の出番と言わ
んばかりにマイちゃんが補足した。それに対しカワダさんは、そうだ、と肯定した。
「そして、ナナミ君に『光る風泥棒』から電話があったのが昨日だね」ミルクを混ぜ終
えた探偵が言った。
「はい、そうです」
「え、そんなことがあったの?」マイちゃんが驚いた様子で私の方を見た。そういえば、
マイちゃんには昨日「明日来て」とは言ったけど、風泥棒からの電話のことは言っていな
かった。なんだか申し訳なくて、私はメロンソーダをストローで一口飲みながらうなずい
た。
「ナナミ君の持っているロケットペンダントを渡してくれるなら、黄金ジェットを博物館に返す、と。そう言ったんだね」カワダさんは手帳を見ながらそう言い終えると、コーヒーを一口飲んだ。間違いありません、と私は応えた。
「この間言ってた、黄金ジェット盗難事件の件数を教えてください」
マイちゃんが持ち前の記憶力で数日前のカワダさんの発言を掘り返した。
「うむ。被害件数は、えー、日本で三件、アメリカで一件、インドで一件だ」探偵は手
帳のメモを目で追いながら言った。
「日本だけじゃないんですね」てっきり私は、日本だけで起こっている事件だと思って
いたが、どうやら違うらしい。だけど、その国々には心当たりがあった。
「その、盗まれた被害者の方の名字って分かりますか?」私が尋ねると、
「書いてあったかな……」とまたカワダさんは手帳をベラベラと捲り始めた。
「ああ、あったあった。シミズ、ヤマモト、……カワダ、フォード、トゥリベディ、だ」
「……やっぱり」この名字の羅列で私は確信した。
「その人たちって、いっかく号の乗組員の家族じゃないですか?」私は何かに追い立てられるように探偵に問い詰めた。
「ああ、そうだ。思い出した。彼らはいっかく号乗組員の遺族だ」探偵は目を静かに閉じながらそう答えた。
「もしかして、被害者のカワダって」マイちゃんが恐る恐る尋ねる。
「私のことだ」カワダさんは続けた。
「いっかく号に乗っていたカワダ・アケミとは、私の妻だ。彼女の遺品に黄金ジェットがあったのだ。それを『光る風泥棒』に盗まれた。家には鱗粉も落ちていた。どうして今まで忘れていたのか……」彼は忘れ去っていた大事な記憶を、ぐりぐりと手帳に押し込むように書き込んでいる。
「これでも私は、四年前……いっかく号の事故が起きるまでは、記憶力に問題は無かったのだ。あの時私は、朝日宇宙空間観測所で、いっかくが空中分解するのを眺めていることしかできなかった」
何ということだろう。お父さんが地球に墜ちてきたあの日、あの場所にカワダさんもいたんだ。タマネギ病を患った私のように、カワダさんも、記憶力の低下という障害を抱えてしまったのだ。
「だから私の所に、風泥棒から電話が来たんですね」沈黙の空気を破り、私はぽつりと呟いた。
「まさか、君の名字は……」
「ヒガシです。いっかく号の船長、ヒガシ・トシヒコは私の父です」
私は両目から涙が溢れるのを止められなかった。この涙は、タマネギ病の症状によるも
のじゃないはずだ。マイちゃんが私の背中をさすってくれた。カワダさんはコーヒー
を一気に飲み切り、カップをソーサーに静かに置いて私を見ていた。
いっかくの乗組員の遺品を盗むなんて、いったい何のために。いや、目的はどうであれ、
私は光る風泥棒が許せなくなった。
「今日のところは、これで解散にしよう。大きな収穫があった」カワダさんが切り出し、
私たちは店を出た。ジュース代はカワダさんが払ってくれた。外ではちょうど十七時の、
夕焼け小焼けのチャイムが鳴り始めたところだった。
「あの、飲み物、ありがとう、ございました」さっき泣いたせいで喉が詰まり、途切れ途切れのお礼になってしまった。
「ありがとうございました!」マイちゃんが場の空気を変えようとしているのか、一層元気にカワダさんにお礼を言うと、
「いや、構わない。これでも大人だからね」と謙遜した。
「それじゃあ、また。進展があったら連絡する」カワダさんはそう言って私たちを見送る体勢になった。互いに手を振り合ってカワダさんと別れ、駅へ向かった。
電車に乗って自宅の最寄り駅で降り、いつもの十字路に差し掛かった時、マイちゃんが立ち止まり、不意に口を開いた。
「私ね、今まで黙ってたんだけど」マイちゃんにしては珍しく、口をもごもごさせている。
「どうしたの?」と私が促すと、彼女は言った。
「私、宇宙飛行士になりたいんだ。それで、ええっと……でも、ナナミちゃんの前では言えてなくてさ」
「うん」
「なんか、ずっとモヤモヤしてたんだよね。宇宙飛行士になるとしても、ずっと未来のことだし、今言ったところでどうにもならないかもしれないけど、でも、ナナミちゃんには言いたかったんだ」
「……うん」
「この間から色んなことが周りで起きてて、なんか、その、雰囲気に押された? っていうか。ほら、黄金ジェット展に誘ったの私だし、黄金ジェット見たかったのって、やっぱりジェット機ってさ、ロケットみたいだしさ。自分でも何言ってるのかよくわかんないんだけど、ええっと……」
「すごく良い夢だと思う」
「ほんと? ありがとう!」
「うん。頑張って!」
「うん……うん、ありがとう」マイちゃんのはにかみが、夕陽に照らされてオレンジ一色になっていた。えくぼが違う顔のマイちゃんのほっぺに影を落としている。
「それじゃあね、また」私とマイちゃんは互いに手を振り合い、十字路をそれぞれ反対方向に歩き始めた。
あーあ。違う顔の大切な人たちは、どんどん遠いところに行っちゃうなあ。さっきの涙ですでに湿っていたハンカチを取り出して、私は目元を押さえながら、オレンジ色の世界を家まで歩いた。
その日の夜、お母さんが帰って来てから夕ご飯を一緒に食べて、寝る準備をした。寝る前に麦茶を飲もうと一階に降りると、お母さんがそういえば、といったように私に投げかけた。
「明日病院、よろしくねー」そうだ、明日は一人で病院に行かなければならない。
「うん、わかった」私はコップの中の麦茶を一気に流し込み、おやすみなさい、とお母さんに言って自室へ戻った。
ベッドに入ったけど、どうも興奮しているのかなかなか寝付けなかった。それに、また風泥棒から電話が来るかもしれないと思うと、気が気でなかった。そう思っていた矢先。スマートフォンがぶるぶると規則的に震え出した。まさか、と思い画面を見てみると、非通知だった。光る風泥棒に違いない。私は恐る恐る電話に出た。
「……もしもし」
「やあ、親友の子」
「……親友?」
「僕が黄金ジェットを必要としているのは、キミのお父さん、つまり僕の親友との約束を果たすためなんだ」
「あなたのことなんて、お父さんは一度も話してくれたことなかったですけど」
「あの探偵に近づいちゃだめだよ」前回同様、私の話を聞く気は無いようだ。話が噛み合わない。
「カワダさんのことですか?」
「あの探偵はね、昔、キミくらい小さかったときにね、キミのお父さんをいじめていたんだ」
一瞬。何を言っているのか、日本語を聞いているはずなのに理解できなかった。カワダさんがお父さんをいじめていた? そんな話信じがたい。忘れっぽいのが玉に傷かもしれないけど、それはここ四年くらいの話で、性格に問題があるとは思えない。それに。
「……それが本当だなんて、信じられません。……それに、それに」
風泥棒に反論しようとしたところで思考が立ち止まる。あれ? もしかして。忘れっぽくなる前は、子供のころからすごく性格の悪い人だったって、ことなのかな。
一瞬嫌な想像をしてしまったが、そんなはずはないと、再び口を開く。
「今色んな人たちを悲しい思いにさせているあなたが、私をだまそうとしているのかもしれないじゃないですか。だから、信じられません」
私は怒りと恐怖でわなわなと震える横隔膜を押さえながら、精一杯反論した。……するとしばらく無言のまま通話を切られた。逃げられたような気がして、悔しくて涙が零れてしまった。寝る前に泣いてしまったら瞼が腫れるので、すぐにハンカチで拭い、ベッドに入った。ハンカチを手に持ったまま、いつの間にか眠ってしまっていた。
第四章
病院の真っ白な待合室で一人で待っていると、じきに私の番号が呼ばれ、診察室へと入った。
「こんにちは。よろしくお願いします」ドアを閉めきってからお医者さんに挨拶した。
「こんにちは。どうぞおかけください」とお医者さんに促され、私は事務椅子に腰かけた。
「前回から、調子はどうですか?」私がタマネギ病だと診察してくれた先生が優しく訊ねてくる。
「えっと……涙は時々出ますが、調子は良いと思います」この数日間にあった出来事を思い出しながら、そう答えた。
「ナナミさんは未成年ですから、薬の処方はできるだけ避けたいと考えています」
「はい」確か前回の診察でも同じことを言っていたような気がするな、と思ったけれど、大事なことなのかもしれないと自分の中で解釈し、納得した。
次回はこの日に来てください、と、カレンダーを指しながら言われ、診察を終えて部屋を出た。なんだ、こんな私でも一人で診察を受けられたぞ。少し自信が湧きつつも、会計を済ませて帰宅した。
その日の夜。お母さんが帰ってくるまでに炊飯器でご飯を炊いた。この前お母さんが言っていた通り、忙しかったのかいつもより帰りが遅かった。お母さんが帰って来てから、二人でご飯を食べた。白いご飯に、インスタントのわかめのお味噌汁に、お母さんがスーパーで買ってきたお惣菜。病院で先生に言われたことなどを話して、食べ進めていた。
「ナナミ、カワダさんと会うようになってから楽しそうだねー」多少自覚はしていたけど、お母さんに改めて食卓で言われて、ハッとした。
「うん」久しぶりに楽しいと思える日々を送っているような心持ちだったのは確かだ。
「カワダさん、違う顔なのはすごいことだけど、お母さんちょっと心配だな」お母さんの言う通り、いきなり数日前から、それまで全く知り合っていなかった大人の人と一緒に行動しているのは変なのかもしれない。
「でも昨日、メロンソーダをごちそうしてくれたんだよ」私はせめてもの反論として昨日の出来事を話した。だけど、
「そういう大人はねー、世の中たくさんいるんだよ」と言われてしまい、
「うん……そっか」と、何も言えなくなってしまった。やっぱり「光る風泥棒」の電話ももちろんだけど、あまりカワダさんとは関わらない方が良いのかな。そう思った私は、これからはあまり連絡を取り合わないようにしようと決めた。
『八月二十三日(火) 天気 晴れ時々くもり』
光る風どろぼうが絶対に許せません。カワダさんのことをひどく言うし、お父さんはいじめられていたなんて、聞いたことが無いのに。風どろぼうは、どろぼうだし、うそつきだと思います。
『八月二十四日(水) 天気 くもり時々晴れ』
今日は一人で病院に行きました。
一人でここまで遠くに行ったのは、今日が初めてです。
前行った時と同じことを先生に言われました。行った意味あったのかなあ、と、少し思ってしまいました。
あまりよく知らない大人とは、話さない方が良いのかもしれません。カワダさんは悪い人ではなさそうだけど、お母さんがあぶないって言うので、話さないようにします。
次の日、いつものように私は十一時過ぎに起きた。するとそれを見計らっていたかのように着信があった。スマホの画面を見ると、「カワダさん」と書いてあった。何か事件に進展があったのかもしれない。と真っ先に思ったけれど、いやいや、昨日カワダさんとも風泥棒とも連絡しないって決めたんだから、電話には出ちゃだめだ、と思い直して、それを無視した。
今日は久しぶりに何も予定が無い日だ。お母さんも仕事でいないし、今日は自分の好きなように過ごそう。そこまで考えて、ふと私の頭の中は一つの疑問で持ちきりになってしまった。私の好きなことって、何だろう? タマネギ病になってから、全然考えたことがなかった。結局暇つぶしの前に宿題を少し片付けて、スマホで動画を見たり、ゲームをしたりして過ごした。窓の外、遠くから蝉の声がじりじりと聞こえてくる。ここ最近、全然雨が降らないなあ。ゲリラ豪雨すら降らないなんて、ダムとか大丈夫なのかなあ。そんなことをぼんやり考えながら動画を見ているうちに、私はいつの間にか眠り込んでしまった。
特に何の夢も見られないうちに目が覚めた。目覚まし時計を見ると、十六時を過ぎた頃だった。そろそろお米を研がなければと思い、一階のキッチンに降りて米を研ぎ、炊飯器の炊飯スイッチを押した。
そのうちお母さんが仕事から帰って来て、いつも通りご飯を食べて、寝る準備をした。自室のベッドでスマホの画面をなんとなく眺めていると、着信があった。画面には「非通知」の文字。光る風泥棒だ。どきっとしたけれど、結局何回かスマホが震えて止まった。私自身何もしていないが、風泥棒に勝ったような気がして可笑しかった。
『八月二十五日(木) 天気 くもり』
今日は
とくに何も無い
一日
でした
次の日の夜。お母さんは仕事がお休みだったけど、職場のお友達の結婚式にお呼ばれして出かけていった。
「知らない人が来てもドアを開けちゃ駄目だからね」と私に念を押して、お母さんはタクシーに乗り込んだ。それを見送ると、私は一人で夕ご飯を食べた。仕事が忙しいとはいえ、なんだかんだで一緒にご飯を食べることが多かったから、一人の夕食は久しぶりだ。少し贅沢をして、カップラーメンを食べることに決め、容器にお湯を注いで食べた。
夕ご飯を食べ終えて、ごみを捨てて自室に戻った。何もすることがなくて、ベッドになんとなく横になって天井を仰いだ。昨日から考えていた「自分の好きなこと」が全然思いつかない。これもタマネギ病の症状なんだろうな。でも、だからといって、タマネギ病になる前は何か好きなことがあったのかと言われると、それも思い出せない。考えているのに頭が回らなくて、そのうち涙が出てきてしまった。もう、涙を拭くのも面倒くさくて、そのまま垂れ流しにしていた。仰向けに寝ていたので涙がこめかみを濡らしているのがわかった。きっと私がこうしている間にも、マイちゃんは宇宙飛行士になるための勉強を頑張っているんだろうな。どうして私は何にも一生懸命になれないんだろう。私じゃない誰かになりたい。そんな考えが頭の中をぐるぐる回って、涙を押し出していた。
しばらく泣いているうちに、ふと、どこからかコツン、コツン、という音が聞こえてくるのに気付いた。耳をすましてみると、その音はカーテンの向こうからしていた。まるで爪で窓を叩いているような音だ。まさか、誰かがノックしているのだろうか? でも、ここは二階だ。あり得ない。鳥か何かだろうと思いつつ、私はカーテンを開けた。
──そこにいたのは、光る蝶のような翅を背中に大きく生やした青年だった。光る翅以外は、熱帯夜だというのに真っ黒な長袖のタートルネックに真っ黒な長ズボンといった出で立ちで、袖から見える手や首は死んだように青白かった。ゆっくりとはばたいてホバリングしながら、その青年は窓を爪で叩いていたのだ。私がカーテンを開けたことに気づくと、彼はくつくつと笑っていた。……何より驚いたのは、その顔が「違う顔」だったことだ。そして、あまりにも人間離れしているというか、美しすぎるほどに整った顔立ちをしていた。この青年こそが「光る風泥棒」に違いない! そう確信して私は窓を開けてしまった。
「やあ、待ちかねたよ」青年は私にそう言って笑いかけた。しゃらん、しゃらん、という音は、どうやら翅の動きによって生み出されているらしかった。
「どうして、私の家……私の部屋……」が分かったの? と訊こうとしたが、彼を前にしてもはやその質問に意味はなかった。
「泣かないで、親友の子」彼はその細くて人形さんのような腕をこちらに伸ばし、手を取って、と言うように手のひらを天井に向けた。タマネギ病で泣いていた私を慰めるような口ぶりに、私は思わずその手を取ってしまった。
「さあ、こっち」青年に言われるがまま、私は窓を跨いで、思い切って足を中空に投げ出した。すると彼はその細い腕に見合わぬ力強さで私の手を引っ張り、空へと急上昇した。手と手でしか繋がっていないのに、彼の能力なのか、力まずとも引っ張られるままに空を飛ぶことができた。雲を掴めるほどの高さまで到達して、私たちは雲に手を突っ込んだり、口元まで運んで食べるふりをしたりして楽しんだ。
「見て、ナナミ。夜なのにこの街は明るいね」手を繋いだまま、私たちは私の住む街を見下ろした。住宅街はもう電気が消えている家もあったけれど、駅の方はまだまだ明るくて、天の川のように綺麗だった。
「僕はね、ナナミ。この星の生き物ではないんだよ」光る風泥棒が街を見下ろしながら言った。宇宙人や地球外生命体なんて本当にいるのかと今まで思っていたけど、彼を、この状況を目の前にしては何も言い返せない。
「僕はいっかくとともにこの星に墜ちてきた。星に帰るのに、黄金ジェットに使われている金属が必要なんだ。だから盗んだ」
「金が燃料になるの?」私は小さい子供を相手にしているような口調で、いつの間にか風泥棒に語りかけていた。
「黄金ジェットの材料は、黄金じゃない。リボパトベムタっていうんだ」聞きなれない名前が突然出てきて、困惑した様子でいると、彼は続けた。
「博物館の黄金ジェットでもう材料は揃っているけれど、キミのお父さんとの約束を守りたい」
「約束って?」
「博物館の黄金ジェットとキミのペンダント、どちらをもらっても良いかは、キミが決めて」
「……わかった」電話と変わらず、こちらからの質問にはまともに答えてくれないようだった。私がうなずいたのを見守って、風泥棒は徐々に下降していき、私の部屋の窓辺まで送ってくれた。
「お父さんのいじめについては、あの探偵本人に聞いてみるといい」おやすみ、と最後に言い残して、「光る風泥棒」はひときわ大きくしゃらん、と翅を動かすと、彼方へと飛び去っていった。
気が付くと次の日の朝になっていた。時計を見るとやはり十一時だった。昨夜の出来事は、夢だったのだろうか? そう思って部屋の窓を見遣ると、カーテンも窓も開きっぱなしだった。空を飛んだあの体験は、夢ではなかったのだ。ベッドに横になったまま、私は風泥棒に言われた言葉を頭の中で繰り返した。博物館の黄金ジェットをこの星から持ち出すか、お父さんのペンダントを代わりに差し出すか。
正直なところ、お父さんのペンダントは手元に残しておきたい。お父さんの数少ない形見の一つだし、今まで手元にあったものが無くなるのは、とにかく悲しい。……自分一人では結論を出せない。幸い、今日もお母さんは仕事で家にいないので、お母さんが帰ってこないうちにカワダさんに会ってみようか。お父さんのいじめについても聞きたいことがある。そう思い立ち、私はカワダさんとマイちゃんに電話した。急な連絡ではあったが、二人とも今日の午後、ヒスイで待っていると言ってくれた。私は急いで身支度をして、駅へと向かった。
ヒスイに到着すると、二人がすでにテーブル席で私を待っていた。
「ごめんなさい、遅くなりました」カワダさんに対してもマイちゃんに対しても、他人行儀にならないと何だか落ち着かなかった。カワダさんは相変わらず、真夏だというのにロングコートを羽織っていた。
「いや、問題ない。さあ、好きな物を選びたまえ」カワダさんがメニューを広げて見せてくれた。
「私たちはもう注文しちゃったんだ!」待てなくてごめんね? とマイちゃんが付け足した。
私はいつものメロンソーダではなく、無糖のアイスミルクティーを注文した。
「あれ、メロンソーダじゃないんだ。珍しいね」マイちゃんが意外そうにしている。今日は私から大事な話があって二人を誘ったのだ。気を引き締める思いが、私をミルクティーへと導いた。
マイちゃんのオレンジジュースと探偵のコーヒー、そして私のミルクティーが運ばれてきて、彼は口を開いた。
「それで、話っていうのは何かな、ナナミ君?」
「あ、えっと、まずは。……この間、電話に出られなくてごめんなさい」
「ううむ? そんなことあったかな?」カワダさんは首をひねった。忘れていた、この人は忘れんぼ探偵だ。数日前の電話のことなど、大層な要件でもない限り忘れているだろう。
「あ、じゃあ何でもない……です。それで、本題なんですけど。昨日の夜『光る風泥棒』に会いました」
探偵は目を見開いて手帳と鉛筆を用意し、
「詳しく聞こうか」と真剣なまなざしになった。
「はい。この前電話で言われたように、お父さんのペンダントを差し出してくれるなら、博物館の黄金ジェットは返すって言われました。それから……」カワダさんがお父さんをいじめていた。この話題を口にして良いかしばらく悩んだのち、私は続けた。
「私のお父さんとカワダさんって、小学校の時同級生でしたか?」
「ヒガシ・トシヒコ君だね。覚えているよ」意外だった。てっきり、そんなことあったかな? と言われると思っていた。私が驚いて黙っていると、
「意外だと思っただろう。確かに私は記憶に障害があるが、昔のことは人並みに覚えているのだよ」探偵はどこか得意げにそう言うと、コーヒーを一口飲み込んだ。
「……じゃあ、カワダさんがお父さんにしたことって、覚えていますか?」私は恐る恐る目の前の探偵に尋ねる。
「したこと、というと、何かな?」問題が抽象的過ぎて分からないといった風に、カワダさんはきょとんとした。
「風泥棒が、……カワダさんは小学生の頃、私のお父さんをいじめていたって、言ったんです」カワダさんを疑う気持ちより、ついにこの言葉を口にしてしまった、という気持ちの方が強かった。頼むから、そんな事実がありませんように。
「……待ってくれ、そうか。ううむ」カワダさんは手帳をべらべらと捲り始めた。そしてその手を止めて、こう言った。
「確かに、そうかもしれない。……いや、そうだ。私はヒガシ君の運動靴に画鋲を入れたことがある」彼はゆっくりと自分の罪を認めた。
「そんな……」私はソファに力なく座り込んだ。
「どうしてそんなことを?」マイちゃんが不安気にカワダさんに尋ねた。
「……そうしなければ、自分がいじめの標的になってしまうからだ。幼稚な考えだった。本当に、すまない」カワダさんは立ち上がって私に頭を下げた。
「いや、そんな……やめてください」私は目の前の情けない大人に対してどう接すれば良いのか分からなかった。
「今日は集まってくれて、ありがとうございました。これお代です。それじゃ」私はその場に居た堪れなくなって、ヒスイを後にした。
「ナナミちゃん!」と呼ぶ声がしたけれど、聞こえないふりをして駅まで足早に向かった。光る風泥棒が宇宙人だったとか、黄金ジェットは金じゃない材質でできているとか、他にも報告しないといけないことはたくさんあったはずなのに、目の前の、取り返しのつかないことをした大人を見ていられなくなった。それに、あの口ぶり。まるで私がいじめについて訊くまで、お父さんの靴に画鋲を入れたことを忘れていたようだった。数日前私の頭の中を過った嫌な予感が的中してしまった。
カワダさんは忘れんぼ探偵になる前、悪い人だったんだ。風泥棒の言っていたことは本当だった。どうしてお父さんがいじめられなくちゃいけなかったんだろう。どうして、どうして。
もうカワダさんが信じられない。あんな大人、信じて助手になんてならなきゃよかった。違う顔だからきっと何か素晴らしい人なんだろうと、思い込んでしまっていた。お父さんのいない、同じ顔の人間ばかりがいる世界に意味なんてない。価値もない。
そうだ。私のやりたいこと、今やりたいことが見つかった。
『八月二十六日(金) 天気 知らない』
光る風どろぼうといっしょに、宇宙を旅したいです。
第五章
ヒスイから帰って来て絵日記に今の気持ちを書き殴った後、私はベッドに飛び込んだ。俯せになると、電車の中で我慢していた涙がぽろぽろ零れてきて、鬱陶しかった。もう何もかも面倒くさい。お母さんに「体調が悪いからお米炊けない ばんご飯もいらない」とだけメールして、不貞寝した。
目が覚めると夜になっていた。多分お母さんも帰ってきていることだろうが、様子を見に行ったり、「おかえりなさい」と言ったりする気力は無かった。……また、昨日みたいに空を飛べたら。そのまま宇宙の果てまで行けたらいいのに。そう思っていると、まるで運命のように、窓をコツン、コツン、と叩く音がした。風泥棒だ! すぐに窓を開けると、蝶のように美しい青年はそこにいた。
「やあ、親友の子」光る風泥棒は柔らかに微笑んで、私の手を取った。この時を待っていた。また空を飛べるなんて。私は手を繋いだまま窓から飛び降りて、空高く急上昇した。
「ねえ、風泥棒さん」雲の高さまで飛び上がった勢いのまま、近くなった夜空の星々を見上げながら言った。
「僕にはちゃんと、ム=ナヌエネブっていう名前があるんだよ」
「そうなんだ。ごめんなさい、ナヌエネブ」今までと違って、会話が噛み合っている実感があった。
「どうしたんだい、親友の子」
「あなたがこの星を旅立つとき、私も宇宙に連れて行ってくれない?」
「黄金ジェットはどうするの?」
「……そんなの、どうでもいいよ」
「親友の子。それがキミのやりたいことなら叶えたい」ナヌエネブの言葉に私は顔が明るくなった。それなのに、「だけど」と彼は続けた。
「今のキミは、心がからっぽなんだね」
「タマネギ病のこと?」病気のことはもちろんナヌエネブには言っていなかったが、きっとお見通しなのだろう。
「心がからっぽのまま宇宙へ旅立ってしまうと、良くないんだ。うまく言えないけど、宇宙は心で旅するものだから、ね」前は小さな子供のようだと思っていた彼が、今は何か「母」のようなものに見えた。まるでお母さんに優しく諭されているみたいな気分だった。
「心をからっぽじゃなくするには、どうすればいいの?」私は、小さくて何もわからない子供のように彼に訊ねた。
「ありのままのキミを、キミ自身が愛することだよ」ナヌエネブにそう言われて、私はなんだか拍子抜けしてしまった。
「そんなの、できないよ。私なんて、何の取柄もない、平凡な……」すごいお父さんやすごい友人の周りにただいる、天才になれなかったことを嘆く不幸な凡人なんだから。
「大丈夫、キミならできる」
「どうしてできるなんて分かるの?」
「自分じゃない誰かになりたいっていうのは、今の自分を変えたくないってことの裏返しでもあるからだよ。ほんとうは自分を愛したいっていう気持ちが、キミの心にもあるのさ」そう言うと、しゃらん、と彼は大きくはばたいてみせた。彼の言葉はすぐには飲み込めなかったけど、何となく当たっている気がした。
「本当に自分を変えたいなら、今の自分を愛してみようよ」彼は私の、繋いでいなかったもう片方の手を取って、二人で輪になってくるくると回りながら、いつの間にか私の部屋の窓辺までたどり着いていた。
「またね、ナナミ」
「おやすみなさい、ナヌエネブ」私は呆気にとられていたが、彼が飛び立つ直前に急いで別れの挨拶を告げると、ム=ナヌエネブは嬉しそうに笑って、しゃらん、と一気に飛び去っていった。
ナヌエネブが去って、私はさっきまで自分の居た雲の辺りを眺めながら、やりたいこと、なりたいものについて考えた。だけど、やっぱり分からない。ついさっきまで宇宙に行きたいと思っていたけど、それも今のままでは叶わないらしいし。何より、やりたいこと、なりたいものについて考えようとすると、涙が溢れてしまうのがやるせなかった。タマネギ病って、面倒な病気なんだな、と、改めて思った。それなら。
今の私ができる、目の前のことをとにかくやろう。
博物館の黄金ジェットか、お父さんのロケットペンダントか。
私は明日、探偵に電話しようと心に決めた。
『八月二十六日(金) 天気 知らない』
光る風どろぼうといっしょに、宇宙を旅したいです。
私が私としてやるべきことを
第六章
ナヌエネブと夜空で遊んだ次の日の朝。今日はいつもより早く起きることができた。目覚まし時計をセットした時間通り、九時半に起きることができたのだ。一階へ降りると、お母さんが家を出るところだった。
「あ、お母さん、おはよう」
「あれ、今日は早いんだねえ。おはようナナミ」お母さんは驚きに笑顔を浮かべていた。多分、タマネギ病になってからあまり早起きできなくなっていたから、出勤前に起きた私の体調がいくらか良くなったのかもしれないと思ったのだろう。
「それじゃあお母さん、行ってくるから」
「うん、行ってらっしゃい」お母さんを見送って、私はまた自室に戻った。本当は今すぐにでもカワダさんに電話したかったけど、多分朝早すぎるだろうから、あと一時間後くらいにかけよう。そう思っていた矢先、ベッドの上のスマホが震えた。画面を見ると、「カワダさん」とあったので、私は咄嗟に電話を取った。
「はい、ナナミです」
「もしもし、ナナミ君。その……」手帳をべらべらと捲る音が聞こえ、
「昨日は本当にすまなかった」と続いた。
「こっちこそごめんなさい。他にも言わなきゃいけないこと色々あったのに、途中で帰ってしまって」私も感情的になってしまったことを謝って、ム=ナヌエネブのことを話した。カワダさんはゆっくり相槌を打ちながら、わたしの話を聞いてくれた。
「して、ナナミ君。こんな電話で申し訳ないのだが。君に折り入って頼みがある」
「何でしょうか」
「……光る風泥棒と決着をつけたいのだ」
「そのことなんですけど、カワダさん、私……」と決意を表明しようとすると、彼が遮って続けた。
「私は博物館といっかく乗組員たちの黄金ジェットも取り返すし、お父さんの形見であるペンダントも彼奴に奪わせない」
「そんなことできるんですか?」私は驚いて彼に訊き返した。どちらも地球に残したままでいられるのなら、私を含めたいっかくの遺族やコロンビア黄金展に関わる人たち、広く言えば地球人が困らなくて済む。
「考えがあるのだ。といっても、今しがた思いついたのだが」探偵は作戦の内容を説明した。
「まず、君のスマホに光る風泥棒……いや、ム=ナヌエネブから電話があったら、祈念碑に来るよう伝えてほしいのだ」彼の言う祈念碑とは、いっかくの事故で亡くなった乗組員たちを弔うために作られた石碑のことだ。私の家の近くの国立墓地に、それはある。
「理由は、そうだな……君のペンダントを渡すことにしたということにして『気持ちの整理をつけたいから』とか、そんな風に言ってくれたまえ」
「わかりました」
「私とマイ君も同行しよう。何か身の危険があるといけない」そんなに危ないことをするような宇宙人ではなさそうだったが、念のためうなずいて、通話を切った。急に一人家の中に取り残されたような気がして、不安だった。とにかく私にできるのは、ナヌエネブからの電話を待つことだけだった。今日から、スマホは一日中肌身離さず持っておこう、と誓った。ここ数日は直接私の部屋に来ていたけど、今回はどうだろう。
その日の夜。お母さんがいつもより少し早めに帰ってきた。
「おかえり、早かったね」
「今日は定時で上がれたからね」浮ついたような調子でお母さんは言った。
いつも通り一階でご飯の支度をしていた時、不意にスマホの振動を感じて、一気に心が緊張するのが分かった。画面を見ると、「非通知」。まさかこんなに早く決着の時が訪れるとは。私は手汗の滲む指で受話器ボタンをタップした。
「はい、ナナミです」
「やあ、親友の子」
「……ナヌエネブ」
「空を飛びたいだろうに、今はちょっと手が離せないんだ。黄金の船の準備をしているんだ」
「ううん、大丈夫。ありがとう」
「黄金ジェット、どうするか決めてくれた?」
「それなんだけど、ナヌエネブ」私は浅く息を吸って答えた。
「ペンダントを渡すから、博物館の黄金ジェットは返してほしいの」私はナヌエネブに対して、初めて嘘をついた。声の震えでばれていないだろうか。
「……わかった」
「ただ、その」
「ん?」
「ペンダントを渡す場所、国立墓地の祈念碑前にしてほしいんだけど……」
「どうしてだい? ナナミ」
「お父さんの形見だし、気持ちの整理を、つけたいから」
「わかった。親友の子の願いなら」
「……うん。ありがとう。待たせちゃうかもしれないけど、今から向かうから」
それじゃあ、と通話を切る。何とか、こちらから伝えたいことは伝えたはずだ。
それからカワダさんとマイちゃんに、これから国立墓地に向かうよう電話もした。
「ナナミ、大丈夫? 何かもめ事?」お母さんが心配そうに私の様子を窺っていた。
「えっと、お母さん、ええっと、ええっと……」私は何から説明すべきなのか分からなくなって、
「とにかく今から国立墓地に一緒に来て!」と、言ってしまった。いや、多分間違いではないと思う。お父さんの形見にも関わる、きっと大事な「決着」なのだから。
国立墓地へ徒歩で向かいながら、私はお母さんに事情を矢継ぎ早に話した。伝わったかどうか分からないけれど、今はもう時間が無い。国立墓地へは歩いて十五分程度だ。私たちは小走りで、祈念碑へと向かった。
国立墓地の入口に到着すると、先にカワダさんとマイちゃんがそこで私たちを待っていた。マイちゃんは私のお母さんがついて来ていることに驚いていたが、挨拶もそこそこに、三人には近くのお墓の影に隠れていてほしい、と伝え、私は祈念碑のある敷地内中央へと足を進めた。
しばらくして、しゃらん、しゃらん、という音が上空から聞こえ始めた。……来た!
「……ナヌエネブ」私は、空に浮かぶ相変わらずのその美しさに、つい彼の名を呟いた。
「やあ、待たせたね。ナナミ」彼はひときわ大きくしゃらん、と一回はばたいて、ふうわりと着地した。それから彼は辺りを見渡して、
「……一人で来たわけではないみたいだね」と言った。どんな能力なのかは分からないけれど、彼を前に私の隠し事は通用しないらしい。
「うん。気持ちの整理、つけたいから。皆にも見ていてほしくて」それでも私はカワダさんの作戦をここまでしか聞いていなかったから、半分本心で半分作戦通りのことを言った。
「それじゃあ、ペンダントを僕に渡してほしいな」彼は青白い手を私の胸の前に差し出した。
「そこまでだ、光る風泥棒」探偵の声がして振り返ると、忘れんぼ探偵と、マイちゃん、それにお母さんが立っていた。
「黄金ジェットは渡さないし、返してもらうぞ。ム=ナヌエネブ。ズミホラヮウの民よ」探偵が聞きなれない言葉を口にしたかと思うと、ナヌエネブの視線は探偵へと向いた。
「ん? キミは……なぜ僕たちの名を?」風泥棒がいう「僕たち」とは、いわゆる種族のようなものなのだろうか。
「君にはもう、帰る星はない」淡々と探偵が言葉を紡いだ。
「え?」
「知らなかったのか?」探偵は手帳をべらべらと捲りながら言った。
「君の生まれた星、パユガ五ゴは、太陽暦でいう二年前、我々カシブ人が破壊した」
「……は?」ナヌエネブは探偵の言葉を理解できていないようだった。私にも、おそらくマイちゃんにも、お母さんにも理解できなかった。探偵は続けた。
「確かにこの星……地球にいる限り、情報が入ってくることも難しいかもしれないが。カシブ・ズミホラヮウ条約により、ズミホラヮウ人は我々の星、セラソウェトに移住したのだ」探偵が発する言葉の端々には意味不明な単語があったが、おそらくナヌエネブの帰る星は、二年前に破壊されていたということらしい。……そして、自らを「カシブ人」と称する探偵は、日本語を話すのをやめた。日本語のような音の区切りに聞こえるけれど、まったく意味が理解できない言葉を話し始めた。ナヌエネブもそれに対応して、おそらく同じ種類の言語を話し始めた。
私たち地球人には、何を言っているのかさっぱり分からなかったが、次第にナヌエネブの語気が荒くなっているように感じられた。ついにはナヌエネブが探偵に殴りかかろうとしたので、お母さんとマイちゃんと私で止めに入った。風泥棒は興奮を抑えきれない様子で、カワダさんが私たちに分かるように日本語で話してくれた。
「光る風泥棒……ム=ナヌエネブの帰る故郷はもはやない。私の種族が故郷の星を戦争で破壊した。だからナヌエネブの種族が作り出せる宇宙船『黄金の船』の部品を集めて航行したとしても、彼奴には目的地が無いのだ。ズミホラヮウの民が移住した私の故郷、セラソウェト星という拠点もあるのだが……戦争の敗北者に許される自由というのは、あまりないからね」カワダさんが言い終わるやいなや、ナヌエネブは何かがせりあがって来たかのように「ああ、ああ!」と嘆いた。
「ふる里に帰ることだけを希望にして、今まで、頑張ってきたのにね。この星にだって、僕の居場所はない。僕はきっと、この先永遠しかないだろうというような、からっぽの宇宙を漂い続けるしかないんだ」
探偵は静かに、感情を吐き出すナヌエネブを見ていた。
私はズミホラヮウの民の言葉を聞いて、やっぱりカワダさんの作戦を聞く前から心に決めていたことを、行うことにした。
「ナヌエネブ」小さな子供に言い聞かせるように、私は彼の名を呼んだ。
「……なんだい、ナナミ」彼は努めて穏やかに応えた。
「これ、あげるよ」私は胸にかけていたペンダントを彼に託した。
「そんな……ナナミ君、良いのかね?」カワダさんは明らかに狼狽していた。
「はい。良いんです」私は続けた。
「ここに来る途中、お母さんにも許可取ったし」お母さんを見遣ると、笑顔で頷いていた。もしどうにもならなくなったら、ペンダントを渡すけど良いよね? と聞いたら、お母さんは快諾してくれたのだった。
「ナヌエネブ達の詳しい事情は分からないけど、これで宇宙へ旅立てるなら。それが今ナヌエネブのやりたいこと……ナヌエネブ自身を愛するために必要なことなんだよね?」私は光る翅を持つ青年に訊いた。
「うん……うん。ありがとう、ナナミ。博物館のリボパトベムタを返してくる」そう言うと彼はしゃらん、と大きくはばたいて、物凄い速さで隣町へと向かい、一分もしないで祈念碑まで帰ってきた。
「僕が飛び立つところ、みんなに見ていてほしい」ナヌエネブはどこからともなく取り出した他の「黄金ジェット」と、お父さんのペンダントを両手で胸の前に持ち上げた。彼が目を瞑ると、それらは内側から光を発しながら、一つの大きな光となって融け合った。夜なのにあまりに眩しくて、思わず目を瞑ってしまった。見ていてほしいと言われたのに! そう思って再び目を開けると、ナヌエネブは大きな黄金の繭のようなものに包まれ、胎児のように逆さまに丸まっていた。
「これが『黄金の船』……」探偵も初めて目にしたようで、その感嘆を声に漏らしていた。マイちゃんも、お母さんも、私も、その美しさにしばしぼーっとしていた。
「ありがとう ありがとう 大切にするよ この先の永遠の航海で きみのことはきっとわすれない」ナヌエネブは機械のような口調で私にお礼を言った。
ぼくはもうじき ふねといっしょになってしまう
ありがとう ななみ
ありがとう あおきほしのひとびと
鐘のような美しい声で最後にそう言うと、黄金の船は空高く、真っすぐに航路を開いて行った。やがて空に輝く星々との区別がつかなくなって、流れ星のように尾を引くこともなく、そのまま天の川の彼方へと消えた。私たちはそれが消えてからも、しばらく夏の夜のよく晴れた空を眺めていた。
『八月二十七日(土)』
ナヌエネブは、いっかくの乗組員といっしょに旅立ちました。お父さんをもう一度宇宙に連れて行ってくれたのかもしれません。
さみしいけど、かなしくはありません。
ありがとう。
終章
夏休みが明けて最初の日。二学期の始業式の日。アラーム音で目が覚めて、私は顔を洗うために一階の洗面所へと階段を下りた。濡れた顔を拭いて、ふと鏡を見つめる。……あれ? 私って、「同じ顔」って、こんな顔だったっけ?
「ナナミ、おはよー。朝ごはん食べる?」いつものお母さんののんびりした声がして振り返る。そこにいたのは、「違う顔」のお母さんだった。いや、鏡の時点で薄々感づいていたけど、もしかして。
「おはようお母さん」私は堪らなくなって顔に笑みを浮かべた。
「あれー? なんだかスッキリした顔をしてるね」
「そうかな? うん、そうかも」
洗顔と歯みがきを終えて食卓に向かうと、四枚切りのトーストにイチゴジャムを塗って食べ、お母さんが淹れてくれたミルクティーで流し込んだ。何だか今日は、学校に行きたくてしょうがない。学校のある日は、いつも私の方が先に家を出る。自室に駆け上がってランドセルを背負い、また玄関へと駆け下りていった。
「そんなに急ぐと危ないよー」とすれ違ったお母さんに言われ、少しスピードを落とした。それでも気持ちが逸る。
「行ってきまーす!」
「あらもう行くの? いってらっしゃい、気を付けてね」
玄関まで見送りに来てくれたお母さんに手を振って、ドアを開けた。
まだまだ暑さの残る夏の湿気がむわっと家に入り込んできた。
その輝かしい太陽の光が、私の今を燦々と照らしてくれているようだった。