【長井香織】ボクシングに救ってもらった 2022年5月15日
◇東洋太平洋女子ミニマム級タイトルマッチ8回戦
チャンピオン:千本瑞規(ワタナベ) 3戦3勝(1KO)
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挑戦者:長井香織(真正) 12戦6勝(2KO)3敗3分
「ボクシングに救ってもらったと思っています。もちろん、家族とか、周りの友だちにも支えてもらったんですけど、確実にボクシングで変わりました」
カラッと晴れ渡るような声で長井香織は言った。
つらい経験をした。高校を卒業し、働き始めて、1年が過ぎた頃だった。街を歩けば、すれ違う人たち、誰もが自分の悪口を言っているような感覚に襲われるようになる。外で食事をすると周りの目が気になって手が震え、喉も通らなくなった。
社交不安症。そう診断された。外を出歩くことが怖くなった。自分に自信を持てなくなった。生きがいを感じられなくなった。
ある日、駅のホームで動けなくなり、その場に立ち尽くした。ふと目を上げたとき、今まで気にも留めていなかったものに吸い寄せられるように惹きつけられた。
「前からあったんですよ。そこに。前からあったんですけど、なんか輝いて見えたんです。そのボクシングジムが。あ、やってみようかなって、ふっと心の中に入ってきたというか」
それがきっかけだった。小学生の頃、空手をやっていたことがあった。「別にたいしてできたわけじゃないんですけど、格闘技は好きで」。どこかに引っかかるものがあったのかもしれない、という。
「やってみたら、楽しかった」。すべてが一気に変わったわけではない。思いがけず自分から足を踏み入れた新しい世界で、体を動かし、汗を流し、一心にパンチを繰り出すうち、「ちょっとずつ、ちょっとずつ」、何かが芽生えていった。
「見返してやりたいなって。誰に対してとか、そんなんじゃなくて、自分自身を」
最初はアマチュアの試合に出ようと思い立った。だが、なかなか機会が訪れなかった。それならプロのリングに。フィットネス専門だったボクシングジムから、迷わずプロ加盟のジムに移った。
デビュー戦は25歳のとき。ほとんど何も覚えていないという。
「もう人に見られるっていうのが嫌で、嫌で。リングに上がった瞬間、頭が真っ白です。あ、1個だけ、覚えてるのが、1ラウンドが終わって、コーナーに戻ったとき、最初に『いけるか?』って言われたんで『いけません。助けてください』って答えました。もうパニックでした(笑)」
おどけるように振り返ってくれたが、どれだけ勇気を振り絞ったことか。
8ヵ月後の2戦目は、話題性があり、メディアの注目を集めた選手のデビュー戦の相手を務めることになった。自然と力が湧いてきた。「絶対に勝つぞ」。初めて思ったという。
「負けたんですけど、めちゃくちゃ練習したんですよ。その頑張った過程があったから、自分のなかで、けど、頑張ったしなって、自分、頑張れるやんって思えて、ちょっと自信になったというか。負けたけど、よく頑張ったねって言ってくれる人も結構いて。こんな自分でも、そんなん言ってもらえるんや、リングに上がれるんって、今しかできひんことやしな、と思って」
試合を重ねていくうち、「ちょっとずつ、ちょっとずつ」、自信もついていったという。当時、在籍していたジムには、長井しか女子の選手がいなかった。練習相手がいる環境でボクシングをもっと突きつめていきたいと考えるようになる。
そんなとき、2019年9月に決まったのが、元東洋太平洋王者で世界挑戦経験もあり、自分の3倍近い戦績がある神田桃子(寝屋川石田=当時)との一戦だった。
「勝ったら、移籍しよう。負けたら、ボクシングを辞める」
そう思い決めたリングで勝利。移籍の希望を伝えた真正ジムに迎え入れてもらうこともできた。
「みんな、強すぎて、置いていかれないようにしないとっていう危機感と、切磋琢磨して、アドバイスし合って、チームみたいな感じで練習できるんで、刺激的な毎日ですね」
女子ボクサーの仲間に囲まれ、がらりと環境も変わったが、ボクシングに対する考え方も180度変わった。
「それまでは殴られたら、その倍返せ、みたいな。そういうものだと思ってたんですけど。フェイントとか、駆け引きとか、いつ、どのパンチを打つとか。ボクシングって、考えてやるんやって、初めて知りました(笑)」
今の憧れであり、お手本にしているのはWBC世界ライトフライ級王者・寺地拳四朗(BMB)のジャブとステップワークを駆使したスタイルという。
移籍してから3年近く。日本女子アトム級王者になり、初防衛も果たした。昨年9月の前戦では初めて東京に遠征し、後楽園ホールで当時の元WBA女子世界アトム級王者で、今年2月にIBF同級王座に返り咲いた宮尾綾香(ワタナベ)と拳を交えた。
「一言で言うと何もできなかった試合」
大差の判定負けは、あの2戦目以来、5年ぶりの負けでもあった。世界王者の力を見せつけられ、心が折れかけた。大きかったのが周囲の存在だった。
「山下(正人)会長やトレーナーさん、ジムメイト、みんなが支えてくれて、こうして、またリングに立てるので。ここからの1戦1戦、大切に戦わないといけない、と思っています」
普段はゴルフ場のキャディとして働く。パートの立場にこだわるのはボクシングを優先したいから。仕事中、カートには乗らない。ゴルフバッグと芝の補修用の砂を入れた袋をかついで、練習も兼ねて、ひたすら走る。「しんどいなー、っていうときは甘えますけど。乗せてくださいって(笑)」。ときにはゴルフ場のコースを走り込ませてもらうこともある。
今でもリングで注目を浴びるのは、あまり得意ではないのだという。それでもリングに上がり続ける。
「ボクシングが楽しいから、としか言えないんです。実際にやってみて、楽しいから、としか。あとは応援してくださる方やジムの方たち、勝って、喜んでくれる人たちがいるのがありがたいですね。自分のことのように喜んでもらえるなんて、ないことなので」
日本タイトルを返上して、挑むのは1階級上の東洋太平洋王座。階級は気にならないが、王者の千本瑞規のことは「巧いし、強いし、完璧な人」と手放しで称える。3月から延期になった2ヵ月をプラスに捉え、しっかり準備してきた。「トレーナーさんが考えてくれた“秘策”」もあるという。
あとは、これまで道を拓いてきたときと同じように思い切って飛び込むだけだ。
「私はチャレンジャーなんで、気持ちで負けないように。千本さんにすべてをぶつけたいと思います」
<船橋真二郎>