これからもなんとか
こんにちは。
4月からまた新生活が始まる方が多いと思われますが、最初から気張り過ぎないように、ほどほどにね。
桜より椿のほうが好みで、サムネは昔の写真から引っ張り出して来ました。
卒業ソングの歌詞や、アニメやドラマなどの入学式のシーンに、桜が舞っている描写が度々あるけれど、少なくとも自分の住んでる地域(関東)では卒業式頃にはまだ咲いてもいないし、入学式頃にはほぼ散っているのに、なぜそのような描写が世の中に浸透してるのかなあって春になるたびに思っていて、誰か教えてください。
卒業といえばで思い出して、このnoteを描くに至った。
人生生きてりゃなんとかなる、
は本当にそうで、
“死にたい”と考えだした小学3年生ころから、チラチラと顔を出す希死念慮があるにも関わらず。
若い頃死ねずに、今も死ねず。
毎日なんとか生きている人間はここにも、
多分、私が思ってるよりも数倍、あちらこちらにもいるのだろう。
そしてこれからも幾度となく現れるであろう希死念慮。
高校3年生の夏休み明けから不登校になった。
ここでもちらりと話している。(高速道路の話)
それまでは不登校になることなく学校に行けていた。
行かなくなることはたまにあったし
中学の頃は悲惨だったけれど登校はしていたし
高校生のときは熱が出ていても学校もバイトも行けていた。
でも、進学が決まった途端、行く気が全くなくなった。
高校には、3年生の9月から卒業まで10回も行ってないけれど、担任の先生に良くしてもらって卒業できた。
日頃は威圧感があって怖いけど、たまにユーモアがあるおじいちゃん先生だった。
この間、小中高の卒業アルバムを見た。
高校の卒業アルバムには誰からもメッセージをもらっていなかった。
ふと思い出した。
卒業式が終わってすぐに学校を出た。そして、友達と二人で商業施設へ向かった。
それからはあまり覚えてはいないのだが、一緒に夜ご飯を食べたあと、彼女に手を繋がれて雨上がりの神社に訪れたのは覚えている。
手を繋いできたときの彼女の顔は、寂しそうな、嬉しそうな、普段は秀才で物静かだけど、私の前でだけ感情をきれいに表す彼女がたまに見せてくる少女のような表情が、より一層高まっていたような気がして、少しドキッとした。
と同時に、恐怖すら覚えた。
不登校になる前の5月くらいから7月、彼女とは昼休みに、昼食を取ることなく図書室でお話していた。
お互いにそれぞれ本を読むときもあった。
あまり人も来ないし、大きな声で下世話な話をするわけでもないから、私たちにはベストスポットだった。
1年生のときにおとなしそうな3人が机向かい合わせて食べてるところに、入れさせてもらった。彼女とはそこで知り合った。毎年クラスがあり、2年と3年は違うクラスだったけど、2年生になってからもたまに話すことはあった。当時、私も彼女も好きでよく語っていたアーティストが表紙の音楽雑誌をあげたら、彼女は微笑みながら涙を零していた。
2年と3年で同じクラスだった女の子とは今でもたまに遊ぶ唯一の友達だけど、その子は顔が広く他の子と昼を過ごしていたから、思い起こしてみると2年生の昼休みはほぼ一人で過ごしていたということになる。それは俗に言うぼっちなのだが、好きに行動できたので私はそれでとても有意義だったし、運良くクラスの環境に恵まれていたので白い目で見られたり浮いてる感じもなかった。
でも、彼女と過ごした図書室もそれはそれで有意義だった。私はどこかのタイミングで「2年生のときも一緒にいればよかったよね」と言った。
こんな陰キャ育ちでも、高校生活だけは眩しすぎた。
あの子は、元気にしているだろうか。
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