そして今年もやってきた
背負っているものの重さが、少し軽くなった頃、また重くなる出来事が起こる。
「それが人生だ」と悟りの境地にはまだまだ遠い。
一期一会というけれど 2024.01
「あの絵が欲しいんですけど」
高校生くらいの女の子が、壁に掛かっている小さな作品を指して聞いてきた。
「ありがとう。個展が終わってからの発送になるけど、それでいいですか?」
「はい、私、山口県なんですけど、送ってもらえますか?」
少し不安そうに、一緒に来ていた父親の方を見た。
「来週の火曜日に個展が終わるから、それから発送作業をして、週末には届くように手配するね」
その返事にホッとしたようだ。送り先を記入してもらいながら、
「お父さんと旅行かな、いいね」
と、声をかけた。
「私、春から看護学校へ進学が決まったので、そのご褒美の大阪神戸の旅行なんですよ。一緒にいるのは叔父です。こっちでは神戸の叔父の家にお世話になってます」
なるほど、叔父さんなら父親と間違えても仕方ないなと思いながら、
「こっちは初めて?」
私の問いかけに嬉しそうに頷いた。
「それに、こういう展覧会も初めてです。私があの絵が好きだっていったら、せっかくだからお祝いに買ってくれるって」
「優しい叔父さんだね」
「はい。父よりずっと優しいんですよ」
いたずらっぽい笑顔で話す彼女を、少し離れたところで見ている叔父さんも、とても素敵な笑顔だった。
「僕はこの展覧会の企画をしたものです」
と、名刺を二人に渡した。
「描かれた方ではないんですね」
「違いますよ、本職はカメラマンですけど、こういう若手の作家の展覧会を企画してます。今日は作家が夕方からしか来ないけど、伝えておきますね。話ができなくて、きっと残念がると思いますよ」
「もし作家の方がいらしたら、お話したりできるんですか?」
きっと彼女は作家と話をすることなんて、想像もしていなかったのだろう。
「こういう個展は作家と話ができることが、楽しみのひとつだよ。どこかでまた機会があったら、気軽に話しかければいいよ」
偉そうなことをいってはみたが、個展期間中いつでも在廊することなどできない。芳名帳を見て、残念な思いをしたことが何度もある。
「はい、次は是非そうします」
「ここへ入ろうと思ったのはどうして?」
と、聞くと、彼女は考えながら、
「何かに呼ばれたというか、引き込まれたというのか、気がついたら入ってました。すみません、答えになってないですよね」
と、はにかみながら答えてくれた。
「作家自身なのか作品なのかわからないけど、君とどこかで惹かれ合っているんだろうね。直接は目に見えないけど、きっと、何かで繋がってるんだよ。その何かのひとつが今日はは絵だったんだね。音楽や映画や小説だったり、そういうアートは、生きることには一番遠い存在かも知れないけど、実は誰の心の中にでも、必ずある大切なものだと思うよ」
私の話を聞きながら、きっと彼女は心の中で「ふーん?」と思ったに違いない。
「この後はアメ村をブラブラするの?」
私が聞くと、嬉しそうに笑顔を見せた。
二人の後ろ姿が、街の喧噪とビルを照らす夕陽の中に消えていった。
そして、1月17日。個展の最終日だった。大きな揺れで目が覚めた。速報は流れたが、その時点での被害状況はよく理解できていなかった。どちらかというと、個展会場の様子が気になっていたのですぐに向かった。高速は全線通行止め。仕方なく国道1号を走ったが、私の走るルートではそれほどの被害は見つけられなかった。幸いにも作品の被害も、ギャラリーが入居しているビルの被害もなかった。一息ついた。ただ、昼頃から刻々と伝えられる被害の状況に、呆然とテレビを見つめ続けた。
後日、予定よりも遅くなってしまった作品の発送準備が終わり、その謝罪と住所確認の電話を彼女の家に掛けた。
「娘は地震で亡くなりました」
時間にすれば一瞬の言葉。頭が真っ白になるとはこういうことなんだろう。どんな話をしたのかはっきりとは覚えていないが、お嬢さんが気に入って購入された作品だから飾ってあげて欲しい、というようなことをいった記憶がある。電話を切って深く息をした。そして涙がこぼれた。
今でも考えることがある。あのギャラリーで過ごした僅かな時間のこと。私にとっては、幾度となく訪れては通り過ぎて行く、展覧会でのひとこまにしか過ぎないが、彼女にとっては、人生唯一の時間だった。そんなかけがえのない貴重な時間を、しっかりと心を込めて共有できたんだろうか。
希望に溢れた笑顔を今でも忘れられない。あの笑顔を繋いでいくことが、あの日以来、私の人生になった。
平成7年(1995年)1月17日(火)午前5時46分。
阪神淡路大震災のときに経験したひとこまだ。
きっと誰でも忘れられない一瞬がある。
それを人生の糧にするかしないかは、自分次第だと思う。
私はあの日から、自分を戒めるためにこの日を過ごしているつもりだ。
とはいえ、私の性格上、それほど重たいものでもないし、忘れてしまうことだってある。ただ、彼女の分まで、一生懸命に人生を楽しもうとしているだけ。
何年か前に書いた文章に、今年も少し手を加えた。最初の頃はもっと重たい内容だったと思う。きっと私の変化だと思う。変化する小説のような備忘録だ。