「ギリ障」の生き方
今朝、恥ずかしい過ちを犯してしまった。というのも先日服屋で買い物をしたのだけど、返品した商品の請求がクレジットカードの明細に記載されていると勘違いし、購入店舗に電話したのだ。結局、お店の方とやり取りしているうちに僕の勘違いであったことが判明し、むしろこちらが迷惑をかけたことを深く謝罪した。
これ自体は他愛のない話なのだけど、僕はこんな時自分がバカなのではないかとひどく不安にかられる。
ところで、実はあまり好きではないがネットスラングにギリ健というものがあり、これは「明らかに健常者とは思えない能力の低さで社会生活の困難さを感じているが、診断がつくほどではない」ことを意味する。実際に生きづらさを抱えているのに、何らの社会的支援も得られないことはたいそう辛いだろう。
一方で僕は精神障害の診断はついているが、あまり病人扱いもしてもらえない。周囲の言によると、全くそう見えない(らしい)からだ。同じ精神障害者の友達と映画を観に行った時は僕だけ手帳の提示を求められるし、相談員と一緒に障害者雇用の見学に行った時は「誰が志望者か分からなかった」と後に管理者から言われた。
そのくせ障害年金等の社会的支援は受けている訳なのでずるく捉えられるかもしれないが、これはこれで不幸なところがある。基本的に病人扱いされないので健常者と同じ振る舞いを求められ、苦しくなってダウンすると「お前は病人なんかじゃない」と心無い言葉をかけられることもあるからだ。
そんなわけで、僕は自分のような人種をギリ健の対概念として「ギリ障」と勝手に呼んでいる。先の定義を持ち出すと「明らかに健常者とは思えない能力の低さで社会生活の困難さを感じていて診断もつくが、病人扱いはされない」ということになる。
こうした人たちは健常者・障害者どちらのコミュニティにも人生観にもなじめない。特に男性は稼得能力の低さゆえに結婚や育児等のライフイベントにありつけず、かといって病院のデイケアや作業所での仕事は簡単過ぎて退屈を通り越し苦痛を感じるのである。
そして最終的には僕のような、30歳独身一人暮らし、国家資格で雇われながらもパートタイム6時間勤務という、なんとも中途半端で訳の分からない生き物に成り下がってしまうわけだ。なまじ自立している分、同情もされないし得体が知れないので近づいてくる人もいない。
それでも、誰に迷惑をかけることなく慎ましやかに日々を送る「ギリ障」の僕たちは、健常者・障害者の2つの顔を持ってこの社会をサバイブしていく。病人として使える福祉制度は利用し、働く職業人としてその対価を納めながら先細りしていく生活の果てに幸福はあるのか。いや、こんな悩みを持てること自体幸福なのかもしれない。