
香港から見るこの世界【4】空気を読むことの危うさ
日本人には、空気を読むという習性がある。私もやはり空気を読む人間だと自覚している。そしてそれは日本人独特だそうだ。すごく良く分かる。何故なら外国に住んでいると、そもそも周りのにはその「空気」が全くないからだ。
「空気」がない世界にいると、自分の中の空気を読む機能は備わっているが電源はOFFのままだ。ところが、日本に帰ったり日本人が集まる場所などに身を置くと、普段は作動しない電源がONになる時がある。その典型例が、通勤電車に乗った時だ。その日、車両は比較的空いていて座席はいっぱいだったが、時間的に少し早かったのか、立っている人はいなかった。私は進行方向の後の方に座っていたが、そこから車両全体を見て思った。「人が全くいないようだ」と。息をする音も聞こえないくらい静まり返っている。話し声や人の動く音すら聞こえない。たまに紙袋のパリパリとした音が聞こえる。この静まり返った空間には、この紙袋の動く音すら大音声だ。更には乗客も降りる際に出入り口に向かう足音を努めて静かに抑えようとする「空気」があった。そんな時、自分の中の空気を読む電源は当然ONになっている。私は電話がマナーモードになっていることを再度確認し、静寂の車両の中で眠りについた。
対照的に「空気のない」香港では、電車内はワイワイガヤガヤは普通で、電話の呼び出し音から子供の泣き声まで、皆がその場で好きなようにふるまう。私もそれが普通で、そこには快も不快もない。ごく当たり前の普段がそこにある。
空気がある世界とない世界ではこんなにも違う。
では空気を読むとは何かを考えて見た。
私が出した結論的はつまり、自分と同じ「空気内」に存在する周囲の人との関係を鑑み、心地よいと想定される基準を経験から設定し、そこに自分を調和させることで安心を得ること。この辺に集約される。
だがこの安心を求めるはずの空気は、いろんな価値観や考え方が、自分の「空気内」に入ってきた時ちょっと厄介になる。上の例で言うと、あの日の通勤電車の静寂の中、急に物音を立てながらおしゃべりする数名のグループが入って来たりした場合である。これにより、人によっては吹き上がったり、攻撃に転じたりする。それはちょうど今、日本のテレビ業界の問題が四六時中メディアで流れているのを見て感じた。
今騒がれている問題は、要するに日本で昔から業界を超えて行われていたビジネスにおける接待の手法で、長年「空気」によって公然と行われ、あえて誰も口にしなこなかっただけだ。だからずっとその「空気内」で生きてきた人にとっては、今の騒動は「何をいまさら」なのである。
私はもともと日本のテレビは興味がないが、記者会見のワンシーンを動画サイトで見た。そこには質問する側もされる側も、つまりはテレビに映る画面の向こう側が、かつて同じ空気内にいた仲間だったのだ。それがふとしたきっかけで「空気内」のバランスが崩れ、分断が起こり、そこから一気に沸き起こる善側と悪側のチーム選別、そしてその中の「空気」で勝る「善側」が「悪側」を徹底的に叩く。そういう構図が出来あがる。
あの知事の一件も、あの有名芸人の一件も、たくさんの人が同じ構図に気が付き、うんざりしている。もちろん加害はダメだ。犯罪に近い強要や脅迫も一切肯定しない。ただ一方でこれだけ長きに渡り、広く業界で暗黙の常識として存在していた「空気」によって、双方持ちつ持たれつで静かに成立していた利害関係は確かにあったのだ。それがひとたび分断され、攻撃的に転じた時、「空気」は徹底的に烈火のごとく、叩くだけ叩く非常に陰湿な集団心理の塊に豹変することを忘れないでおこう。
本来、空気を読むという習性は、相手や周りに寄り添い、思いやるおもてなしの心にも通じるところがあり、美しいものを内在していると思う。結局のところ、これまではこの本来素晴らしいはずの習性を利用し、悪用する人がいたのだろう。また、空気を読みすぎて辛い思いや苦しんでいる人も多いんだろう。そう言う意味で、この空気は取り扱い次第では大変危ういものになりうることを、これからは一人ひとりが再確認すべきだと思う。
ただここ最近、どうも今までの「空気」のありかたが変わって来ているように感じる。外から日本を見てるからこそ余計に分かる。インバウンドの激増により「空気の無い世界」の人がどんどん日本に流入しているのも一つの要因かも知れない。いずれにしても、このタイミングを機に、日本独自がもつ空気を読むという習性が、形は変われど今後も浄化されつつ受け継がれ、おもてなしのように美しく、安心して過ごせる空気を生む国としてあり続けて欲しいと願うわけである。