「星座になれたら」は「ぼ喜多」のようで「ぼ喜多」ではなさそうだけど、やっぱり「ぼ喜多」でもありそう
最初に
初投稿です。素人の戯言なので、生暖かい目でご覧ください。読み辛い部分があるかもしれませんが、一つの解釈として楽しんでいただけたら嬉しいです。
いろいろ考えた結果タイトルが頭がおかしいよくわからない感じになりましたが、真面目に考察したつもりです。
前置き
本投稿でのセリフ引用は基本的にアニメからのセリフを引用しています。原作から引用するべきかとも考えましたが、「星座になれたら」自体がアニメで使用されている楽曲であることを加味してそのようにしました。
長くなりすぎるので、本投稿では歌詞の解釈の核心と僕が考えている部分の理解に焦点を当て、詳細な考察は省いています。
セリフ、歌詞の引用は必要なものにとどめたつもりです。また、意図した改変が生じないように細心の注意を払いましたが、もし問題があれば修正・削除など対応いたします。
なお、この投稿では、以下の内容に触れます。ネタバレを避けたいという方はご注意ください。
ぼっち・ざ・ろっく!アニメ第一期全体
ぼっち・ざ・ろっく!原作(アニメ化された範囲)
本文でアニメと記載した場合は TV 放送版のぼっち・ざ・ろっく!第一期を指します。
また、以下の歌詞を引用として使用しています。
「結束バンド」として発表されたアルバム楽曲の歌詞(「結束バンド」、「Re: 結束バンド」)
BUMP OF CHICKEN の一部楽曲からの歌詞からの抜粋
また、以下の内容には触れません。
劇場総集編ぼっち・ざ・ろっく!(前後編両方)
なぜ今更「星座になれたら」の解釈について書くのか?
「星座になれたら」はぼっち・ざ・ろっく!というアニメの作中で使用されている楽曲です。この曲が初めて世に出たのは 2022 年に放送されたアニメの第 12 話(放送日は 12/25)なので、この投稿を書いている 2024 年の 8 月某日からはもう二年前になろうとしています。
そんな少し前の曲の歌詞についてなぜ今更書くのか?
それは自分と同じ解釈を全くと言ってよいほど見かけないからです。「ぼ喜多」という理解に対して疑問を呈している方は見かけましたが、では一体この歌詞がどういう意味なのか?という点を明確に説明していて、僕と同じ解釈の人はぱっと見た限りではいなそうでした。
完全に「ぼ喜多」の曲だという認識が定着しているのに、こんな投稿をするのは野暮だと思いつつ、見当たらないのなら、と自分の解釈を書いてみることにしました。
個人的にはこう解釈するのが一番好きなので、ネットの片隅に置いておきたいと思います。
僕の「星座になれたら」に対する解釈の説明
先に結論だけ書くと、「星座になれたら」は結束バンドのためにギターヒーローの力をライブでも発揮することを決意している曲だと考えています。
「君」とは誰なのか
まずは星座になれたらの 1 番のサビの歌詞を抜粋します。
多くの人がこの歌詞の「僕がどんなに眩しくても」の部分については疑問を感じているようでしたが、僕も疑問に感じました。「君」は喜多ちゃん?いや、喜多ちゃん目線でひとりのこと?などいろいろ考えましたが、どれも腑に落ちませんでした。
後藤ひとりは他人に向けて「自分が眩しい」などと言えるのだろうか?コミュ障のひとりが他人目線の歌詞を書けるだろうか?
少なくとも、僕の見てきた後藤ひとりは絶対に言えないし、書けないと思います。
まず、歌詞中の「星座」は結束バンドと捉えて間違いないと思います(ここに異論がある方はあまりいないはず)。「君と集まって星座になれたら」というフレーズから、「君」はその中にいる人物と捉えるのが自然です。
バンドメンバーで、かつひとりが強く出れる相手・・・でも後藤ひとりは他人に強く出れるとは思えない・・・と考え、消去法でひとり自身くらいしかいない、という結論に至りました。
自己対話
これを読んでいる方の中には「「君」といっているのだから他者であるべきではないか?」という意見もあるかもしれません。
しかし、自分を他者として登場させ自分と向きあっているのは他のバンドの曲でも見られます。
例えば、BUMP OF CHICKEN の歌詞ではしばしば「君は僕だ」という歌詞があります。
僕はもともと BUMP OF CHICKEN が好きでよく聞いていました。なので、この考え方は比較的簡単に浮かんできました。
自己対話する理由
では仮に「君」がひとり自身だとして、何のために自己対話しているのでしょうか?
その理由を示すために、作品の描写を引用します。なぜ歌詞ではなく作品から入るかというと、この歌詞は暗喩が多すぎて何を言っているのかが掴みにくいと思うからです。
ひとりはアニメ 1 話でリョウと虹夏に出会ったときからずっと本来の力を発揮できていないと感じています。
結束バンドのためにも現実のライブでもギターヒーローの力を発揮したい。にもかかわらずひとりは本来持っているギターヒーローとしての力を発揮できずにいます(もちろん断片的には発揮出来ていますが、安定しているわけではありません)。
その意味で、「君」はより厳密にいうと「自分自身」というよりギターヒーローを指しています。本来の力を発揮するためのギターヒーローと対話しているのを自己対話の形式として歌詞にしているのです。
「星座になるために」
だから本来の演奏能力を発揮してバンドとして輝きたいという想いを乗せて「星座になれたら」というタイトルなのだと思います。
ひとりから見たら他のバンドメンバー三人は既に輝いており、あとは自分が輝けるかが問題だからです(この根拠は後述の補助線としての新曲「ドッペルゲンガー」、「僕と三原色」で触れています)。
そういった目線で歌詞の各サビの最後の文章をみると、ひとりのそうした不安と決意が表われています。
暗喩としての「カルマ」
「君」がギターヒーローだと思う根拠のひとつに、C メロの歌詞があります。C メロの歌詞には明らかに現実のバンドの曲が使用されています(これについてはすでに多くの方が触れていました)。
「遥か彼方」は ASIAN KUNG-FU GENERATION の一曲、「カルマ」は BUMP OF CHICKEN の一曲です。
ここでは「カルマ」に注目します。「カルマ」の歌詞の最後を抜粋してみます。
ギターヒーローの力を現実のライブでも実現するというのは、動画撮影時の自分とライブ演奏時の自分を同一化させるとも言え、このカルマの歌詞は今回の解釈そのもので、意図された言葉選びだと僕は考えています。
また、
この一節は現実でもギターヒーローの力を発揮したいのにうまくいかない苦悩が垣間見えていると捉えられます。
補助線としての新曲「ドッペルゲンガー」、「僕と三原色」
もう少しだけこの解釈を補強する要素を付け足したいと思います。新曲の ドッペルゲンガー」と「僕と三原色」です。
これを書いているのは 2024 年 8 月某日ですが、劇場総集編ぼっち・ざ・ろっく! Re:Re:(劇場総集編の後編)が同年 8/9 に公開されたばかりです。
それに合わせて新曲も公開 & ミニアルバム「Re: 結束バンド」が 8/14 に発売されており、「星座になれたら」と同じ樋口愛さん作詞の新曲として公開されたうちの二曲です。
「ドッペルゲンガー」は明らかにひとりとギターヒーローの関係を描いている
「僕と三原色」はバンドメンバーを「三原色」と表現し、自分だけが原色ではない(輝いていない)ということを描いている
いずれも今回の星座になれたらの歌詞の解釈の要素を分けて作られた曲のように思えます。
そして、「ドッペルゲンガー」が台風の日の初ライブの 3 曲目として公開されたのは重要です。設定上とはいえ、「星座になれたら」の作詞よりも前に自分自身をギターヒーローと現実の自分に分けて考え、視点をギターヒーロー側に渡すアイディアがあった、ということを暗に示しているからです(視点の移行についての詳細は後述の「僕がどんなに眩しくても」の解釈部分にて)。
「星座になれたら」を理解するうえで、この二曲が「星座になれたら」への補助線として機能していると考えられます。
この歌の歌詞の具体的なシーン
ちなみに、この歌詞がいつ生まれたのか?というのを勝手に考えてみたいと思います。それはギターヒーローとしての力を発揮したいというひとりの決意が描かれたシーンで、 8 話のライブ打ち上げ時のひとりと虹夏の会話シーンです。
このシーンのひとりと虹夏の会話は完璧に今回の解釈通りといえないでしょうか?僕は「今日のぼっちちゃん、私には本当にヒーローに見えたよ」「動画の時みたいに毎回発揮出来たら」といった虹夏の言葉が「星座になれたら」の原点だと考えました。
そう考えるとこの曲は「ぼ虹」とも言えると思います。
ちなみに、このシーンは原作でもアニメ放送でも星空が印象的なシーンでもありました。
解釈のまとめ
以上の考察により、僕はこの曲は「結束バンドのライブでギターヒーローとしての力を発揮するというひとりの決意の曲」であるという理解で落ち着きました。
歌詞解釈
ここまで解釈を踏まえて、歌詞のなかでも特に難解で解釈が分かれている一番の B メロ~サビまでと、ラスサビの歌詞に触れたいと思います。
鍵カッコの意味
ここでいっている鍵カッコとは、1 番 B メロのラストの以下の一節です。
「君がどんなに眩しくても」を説明するためにその部分だけギターヒーロー目線に移行しているのではないか?という主張はすでに書きましたが、この鍵カッコがひとりからギターヒーローに視点が入れ替わるサインだと考えます。
それだけでなく、ここはそれぞれの目線のどちらからの言葉ととれるようにダブルミーニングになっているととれます。
分かりやすいように丸カッコで言葉を追加します。
一般的にここはひとりの目線で、少し投げやりな言葉と捉えられていると思います。
しかし、ギターヒーローの目線を仮定すると、否定として「いいや」と表現している可能性が考えられます。
ギターヒーローは評価されていていいな、というひとりの吐露。しかしギターヒーローとひとりはそもそも最初から「ひとり」なのだから、ギターヒーロー目線だと「何を言っているんだ、元からひとりだ」となるわけです。
この「ダブルミーニングになっていて否定ともとれる」というアイディア自体はすでに以下の投稿で触れられていました(他にもいらっしゃるかもしれません)。
視点が変わることを示しているというのは既にこちらの方も投稿で触れられていました(これに関してもほかにもいらっしゃるかもしれません)。
「僕がどんなに眩しくても」の解釈
これについては歌詞中の「僕」が一時的にギターヒーローになっていると考えるのが個人的には最も納得がいきます。そのまま「僕」がひとりだとすると、「ひとりが現実世界でギターヒーローの力を発揮したいと考えている」という解釈とずれが生じるからです。
この「視点が変わる」という考えは歌詞から読み取れる根拠が少ないように感じていましたが、歌詞中のかぎかっこの存在、そして最新曲の「ドッペルゲンガー」の歌詞を見て、そう捉えても不思議はないのではないかと感じました。
ラスサビ
ラスサビの歌詞です。ここにはひとりの覚悟が最も書かれていると思います。
ここは暗喩が多用されていますが、バンドでの成功が難しいこと(絵空事)と分かりつつ、理想(満月)とは違くても、バンドとして成功する(星座になりたい)ために本来の力を発揮して演奏をしたい(色とりどりの光 放つような)と書かれています。
ひとりと喜多ちゃん
最後に、一般的に言われている「ぼ喜多」の解釈についての僕の考えを少し書きたいと思います。
作品での描写を確認する
まず、原作では喜多ちゃんがひとりに文化祭の申し込み用紙をわざと出して謝罪したシーンで、喜多ちゃんのモノローグがあります。
喜多ちゃんはひとりの変化をみて自分も変わろうとし始めます。喜多ちゃんがひとりに注目し始めるのはこのあたりからです(厳密にいうと初ライブあたりからだと考えられますが、確定的なのはこのあたりです)。
一方、ひとりが喜多ちゃんに注目し始める描写があるのはここより後の、文化祭ライブの直前練習シーンです。
このシーンでようやくひとりは喜多ちゃんの変化に気づきます。そして、文化祭ライブで喜多ちゃんの上達に驚いています。
僕の解釈
このあたりの描写をみても、どうしても僕には、ひとりが喜多ちゃん(だけ)を歌詞にする根拠が見つけられませんでした。ひとりが鈍感系主人公すぎて喜多ちゃんを見始めるのがあまりに遅いのです。
少しずつ変わっていくひとりの姿を見て動き出す喜多ちゃん・・・というのは「星座になれたら」の歌詞の風景(初ライブ後の打ち上げ時のひとりと虹夏の会話シーン)の少し後の話で、それが文化祭ライブ編(劇場総集編の後編)と考えるのが妥当だと思います。
ただ、今回の解釈が正しいのであれば、ある意味で(お互いが気付かないうちに)ひとりは喜多ちゃんに最高のタイミングで応援歌を送ったことになります。
ひとり自身の一歩踏み出す決意を描いた歌詞を、「私も変わりたい」と願い、歌う喜多ちゃん。喜多ちゃんを歌った曲ではないけど、喜多ちゃんの背中をそっと押している曲という意味で、やっぱり「ぼ喜多」でもあるのだと思いました。
この歌の奥底にあるもの
思い描いていた理想と現実のギャップを突き付けられ、それでもバンドで成功するという新たな夢に向かって不安を感じながらも一歩踏み出すことを決意したひとり。
ひとりの内面的な成長はこの作品が描くテーマでもあり、それはつまり「星座になれたら」はぼっち・ざ・ろっく!という作品(特に原作第一巻、初ライブまで)が凝縮されているといっても過言ではないと思います。
ひとりの覚悟、そこに至るまでの葛藤、そして人間的な成長を感じることができるからこそ、僕はこの曲に惹かれるのだと思います。
最後に
長々と自分なりの解釈を書いてみました。
いろいろと考えた結果、「ぼ虹」と「ぼ喜多」の要素の両方を持ち合わせており、さらにその根底にはもう少し大きなテーマがあるという、一風変わった解釈になりました。
この解釈を正しいとするなら、何よりも作詞に込められた内容の濃さにとても驚かされます。あまりにもエモさが凝縮されていると思うし、作品との親和性が高すぎる。
なるべく解釈の根拠となる要素を書いたつもりですが、もちろん同意できない方もいらっしゃると思いますし、僕の解釈が唯一絶対だと主張するつもりは全くありません。
最後まで読んでくれた方、本当にありがとうございました!