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韓国戒厳令騒動

お疲れ様です。最近はVtuberのゲーム放送を見ながら動画を作ることが日課のオタミリです。

さて今回紹介をするのは、
12月3日に発令をされた韓国の戒厳令についてです。
かなりの衝撃を受けた事件でしたが、6時間で終わったのもまた衝撃を受けました。
一体尹大統領はどのようなことを考えやったのか?
まあ見事に失敗をしてしまった評価でいいでしょう

しかし今回の事件を受けて、かつての5.16クーデターのように言う人もいますが、これはクーデターではありません
クーデターは下の者が上をひっくり返すことですからね
今回は上の者が下ろを粛清しようとしたので、それとは本質が違います

あえて言うのならば、かつて起きた光州事件に似ている気がします
ですので本日は光州事件について振り返ってみましょう

光州事件とは?

韓国最大規模の争乱

まずこの事件は現在韓国では民主化運動としてとらえていますが、一部保守派によると、北シンパが起こした暴動ととらえています
まあこの運動を主導した人物の一人が現在北朝鮮にいたりと、中々怪しいところもありますが、
今日はその話題は語らずに、この時に何が起きたのかを語っていきます

事件の発端

朴正煕暗殺事件

この事件の前に、韓国の大統領である朴正煕大統領が部下によって暗殺されます
実行犯はKCIAの長官である金載圭
彼の犯行動機についてははっきりとは分かっていませんが、暗殺後の行動を見ていると権力奪取を目指していたのは確かでしょうね
つまりはクーデターです
しかしその計画はうまくはいきませんでした・・・

権力奪取に向け動いた将軍

この騒動に気づいた国軍保安司令官だった全斗煥少将はこの事態を受けて実行犯の金載圭を逮捕
その後彼は権力を奪取するために「粛軍クーデター」を実施
これにより彼が最高権力者となります
このとき彼はまだ大統領ではなかったのですが、実質はこの国の支配者となりました。

ソウルの春

民主化を求める国民運動

しかし朴正煕大統領暗殺を韓国国民が知ると、
独裁者が死んだことによって民主主義を望む声が増え、各地で大規模な運動が起きます
「独裁政治から民主化に!」
このようなスローガンで起きた運動ですが、これを軍部は良しとしません
1980年の5月17日に戒厳令が布告をされて、一切の抗議活動は禁止されましたが、しかしこの運動が全く止みそうにはありませんでした

特に光州市に置いて、大規模な運動が発生をしたのです

光州事件発生

鎮圧に乗り出す空挺部隊

戒厳令布告の翌日、18日に多くの市民がこの戒厳令に抗議するために集結
軍部はこの規模を見て警察では鎮圧困難と判断をし、空挺部隊の投入を決定します
しかし軍を投入したと言っても、当初彼らの暴徒鎮圧方法は警棒で叩いて鎮圧する方法でした
ですがその方法では鎮圧は困難と判断をし、
ついに銃の使用許可が下り市民に対して発砲をします
しかしこれで終わらずに、暴動はさらに拡大
さらに大規模な抗議に切り替わることとなりました

ほぼ内戦に突入

武装をする抗議者たち

その後抗議者グループは武器庫を襲撃して、武器を奪取
これを用いて軍側と交戦をします
かなり激しい銃撃戦になり、この時点で死者が54名、負傷者が500名以上になります
これを受け鎮圧側の軍は一時市内から撤退
ですが市を包囲して、抗議者グループに圧力をかけます

この時点で、この事件の評価ですが2つに分かれることになりました
「この運動を主導しているのは共産主義シンパである」
「彼らは純粋に民主化を求めている闘志」
どちらが真実かは分かりませんが、現在の韓国では後者の考えが主流になっていると思いますね

包囲をされて圧力をかけられる抗議グループ
ここで話し合いになりますが、結局妥結に至らることはなく、この後も銃撃戦を展開します

決着

連行される抗議者たち

戦いは止むことなありませんでしたが、ここにきて抗議グループ内部でも意見が分かれます
「闘争派と協商派」
最終的には多くの抗議者武器を捨て投降をしますが、しかし一部の闘争派は戦闘の継続を決意
ここで最後の戦いが発生をします
軍部は鎮圧命令を出し、闘争派に最後の攻撃をし、最終的には鎮圧をされこの運動は終了となりました

最終的な犠牲者は軍部発表で144名
しかし実際にはさらに多かったとの予想もされています


それからしばらくして・・・

僕たちはずっと友達

時がたち韓国が完全な民主化をされると、この光州事件についての調査が始まり
「あれは民主化運動であった」
との結論に至ります
その結果当時の責任者であった全斗煥と盧泰愚両名は逮捕されます
(後に恩赦)
そして現在でもこの運動は民主化の象徴として、映画にもなったりしていますね
この全斗煥はいつも悪役ですよ

最後に・・・

大人しく解散する軍隊

以上が光州事件についてですが、
やはり戒厳令を敷くということはこのような覚悟が必要になります
「どんな死傷者が出ようとも、どんな批判が出ようとも、これは必ずやり遂げる」
このような覚悟がなければ成功はしません
伊大統領にはどんな覚悟があったのでしょうか・・・

なお余談ですが、
尹大統領は光州事件時には学生であり、学生の中でこの光州事件の模擬裁判をしたみたいです
彼は検察役で参加をし、全斗煥に死刑判決を言い渡します
それがバレてしばらく逃げる生活を送ったみたいですよ

この時まさか自分が後に戒厳令を布告するとは夢にも思わなかったでしょうね・・・歴史とは実に面白い!!


以上が今回の解説になります
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