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幼すぎる夢

先日、友人との話の中で昔のことを懐かしく思う機会がありました。


苦悩と愛着の日々。


皆さまは、幼い頃の夢などは覚えていますか?
お花屋さん、ヒーロー、社長…etc.
私の世代ではサッカー選手が1番多かった覚えがあります。


かくいう私は薬剤師でした。それも幼いながらに本望ではない夢。なりたい夢というよりもならねばという強い思いでした。


傍目からしたら崩壊しきった家。それでも当人たちは幸せだった。


母は日中青白い人でした。とても生きているという感じではなく、私は気が気じゃなかった。


しかし、夜の母は別人でした。生き生きと血色よく、表情もコロコロと子供のように振る舞う姿。アルコールの「おかげ」というべきか「せい」だというべきか…


無知な私はそんな母に振り回され、いつしか彼女の元気な姿を望むようになりました。


「まま、お昼も元気でいてほしい。」



「将来は薬剤師になりたい!」
母を治す薬を絶対自分がつくるのだと決めました。


子供というのは哀れなのです。


その当時、薬剤師のことなどちっとも興味がありませんでした。
それでも当時の私には希望になったのでしょう。


幼い私の好きな物は動物や絵でした。好きな動物を鉛筆で紙に描いたり、軽石で地面に描いたり。


それでも、最優先順位が自分のことより母だった私は絵描きという選択肢は微塵もありませんでした。


ある日、普段から私に興味を持たない母は学校で書いたプリントを見つけました。


生活科で書いた「わたしがなりたいもの」というプリント。


そのプリントを一目見た母が私を見ました。


「ねぇ、薬剤師になりたいと??」


正直、怒られるかと思いました。
あまりの放置家庭だったため怒られることもそうそうありませんでしたが…


しかし、その緊張感とは裏腹に母はゆったりした声音で言いました


「だんでなら、なれるかもね。頭いいから。勉強だけはできるしね」


あまりに優しい言い方に戸惑いました。母のために頑張らなければ。
盲目の娘。


そうして私は一層母に依存することになるのです。


小2〜中2までの6年間を夢という幻覚を抱きながら…


しかし、中学2年のとき何度目かの入院をしていたときのこと。


入院時は毎週診察がありました。
大体その週の体調や薬の具合、病棟での暮らしをお話をします。


しかし、母がとても心配な私は同じ病院同じ主治医ということでしょっちゅう母の様子を聞いていました。
(きっとこういうところも原因で入院させられてたのかもしれない)


先生は私を安心させるべく答えてくれます。


「大丈夫、お母さんには元気になるお薬を新しく飲んでもらうことになったの」


その時、そんな曖昧な答えになぜか心底驚きました。


「せ…先生…。元気になる薬あるんですか!?私がつくらなきゃいけないのに…」


中学2年生になっても変わらぬ思い。
先生の言葉に残念なような安心のような、気づけば奥歯が痛くなるほど噛み締めていました。


「ある。大丈夫。私たちに任せなさい」


先生がティッシュ箱を差し出し、涙が流れていることにやっと気づきました。


いくら体や脳が成長してもあの頃の私が心にうずくまっていました。


今思うと、アルコール依存症や鬱に効果的な薬などごまんとあるのにと微笑ましくなります。


ただ共依存の薬はない。ただそれだけ


その日を境に薬剤師になるという執着めいた夢はなくなりました。肩が強ばるほど力を入れていた夢。


考えれば考えるほど首を締めあげられるような思いでした。精神科さまさまなのです。


はて、なら今のダンデさんは何になりたいのって?


そうですね^^*
皮肉にもあの時見向きもしなかった絵と関係のある仕事。デザイナーです。


人のためになる仕事であり、自分がほんとにしたい仕事。


それが大事なのだと気づけたのは共依存が解けた証なのでしょう。


仕事だけではなく、家族とどう向き合うのかも夢の中におり込むことをおすすめします。


自分を守るということは大切な人を守ることに繋がります

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