藤原季節という人
劇団た組の加藤拓也氏が仕掛けた音のない朗読『私の世界のすべてだったお前』という落とし穴に見事にはまり抜けられなくなった。
実は4ヶ月ほど前同じように『his』沼にはまって抜けられなくなり、ほんのわずかでもスキマ時間があれば足が映画館に向かうこと11回、ほぼビョーキ状態で我ながら一時はどうなることかと思ったけれど円盤発売が決まったこととコロナ禍で行きたくても映画館に行かれなくなったことでようやく快方に向かいつつあった…ところに新たな難問発生。
沼はまだ辺りの景色が見えてたけれど落とし穴は真っ暗で出る方法を考えれば考えるほど暗闇でもがかざるを得ない。
そもそも加藤氏がこの騙し絵のような台本の朗読を藤原季節という人に依頼した時点でこの落とし穴はほぼ完成していたと言っていい。加藤氏は藤原季節という人の持つ誠実さ、ひたむきさ、華、意図しないなまめかしさ、妖しさ、熱量…そういった魅力をすべて分かった上でこの台本を朗読させたのだ。
音のない朗読という前代未聞の仕掛けにぴったりの台本を書いた加藤氏の才能はもちろん賞賛に値するが、それに応えた藤原季節という人の才能にも改めて目を見張る思い。
思うにこの台本にはいくつものトラップがある。『僕』という一人称が想像させるもの、ほぼ同時に語られる『僕』の現在と過去、表面のソレではない体の奥のほうの『ぬるい』感覚、『ウソ』なのは僕の見ている世界なのか見えてない部分なのか…それらを全て受け止めた上で彼は静かに朗読をはじめる。
淡々と語ると思っていた彼が表情豊かに儚げにたおやかに語りはじめたのを見て一瞬戸惑いを感じたわけは自分でもよく分かっていなかったのだけれど、上着を脱ぎ、胸に手を当て、セリフに合わせてその手でなぞるしぐさ…のあたりから「これはあかん…朗読じゃなくなってる、季節くんが『僕』になってるよ」と思った瞬間、自分の奥のほうに『僕』の『ぬるさ』がうつってくる感覚が。
この、彼が『僕』になっていく瞬間を目撃した衝撃は映像が消えた今も鮮明で、男性であるはずの彼が性(ジェンダー)を越え(トランス)て『僕』に重なっていき、眼差しが切なく瞳が潤んでやがて官能的な表情に。
「あかん、これは抜けられん」
台本を繰り返し読むたびに彼の唇の動きや切ない眼差しが思い起こされて体の奥のぬるい部分がよみがえる。多分彼はそこまで意図して官能的な表情をしたのではない、『僕』が乗り移ったとでも言えばいいのかもしれない。『私の世界のすべてだったお前』は藤原季節という読み手を得てこそ息づく台本だったのだ。
『お前』という言葉で思い浮かぶのは映画『his』。娘を連れていこうとする妻に向かってつい「お前が…」と言ってしまい非難される渚。あれは親しい相手に対する呼び掛けで、このタイトルの『お前』もそうだと思って読んでいたけれど何度も読むうちにこれは一般的な二人称ではないのではと思うように。
…考えた。
『僕』の中にはもうずいぶん長いこと『お前』がいてそれが『私の世界のすべてだった』ということなのでは?と。ウソだらけのこの世界で『僕』が『お前』を正直に生きることがどんなに難しいことかと。
それを咀嚼して朗読していたからこその涙ではなかったのか。藤原季節という人は乗り移られたかのように乗り移ることのできるしなやかな人なのだ。
暗闇の中落とし穴から抜ける手掛かりのありかがようやく少し手に触れた気がする。
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