無事是貴人の境地を求め
詩人の坂村真民先生の「限りあるいのちを持て」を紹介します。
限りある
いのちを持ちて
限りなき
いのちのひとを
恋いたてまつる
いきとし生けるもの
いつの日か終わりあり
されど
終わりなきひといますなれば
一日のうれしかりけり
一生のたのしかりけり
命は不完全な時、魂は未完成であります。
魂が不完全な時、命も完成しないのです。
大いなるものの有難さに気付き、それらに抱かれていたことを。
あの人に自分が生かされていたこと、多くに生かされていた自分。
そんないのちの灯に気付き、感謝できるからこそ魂は太くなっていくのです。
自分だけが良ければいい。なんて浅ましい考えではいつまでも魂は未完成のままであります。
すべてに意味はあるのです、そして、全ては無意味に帰るのです。
初めは意味があっても、後にそれは無意味のものになってはいませんか。
それを意味あるものとして消化して、次に生かし、もう無意味とできるのは自分だけです。
悟りだけではなく、意味や出来事は忘れなくてはいけません。
完成した魂を携え、命が燃えるまで人生を生き尽くす。それが大切です。
そのように生きるためにも、まずは自分の命や魂を完成させなければいけません。
臨済禅師は「求心やむ処、即ち無事」と申しました。
外に向かって求め回ることをやめて、足りていることを知れたなら、即時に無事、大安心なのです。そして、大自在の働きが出てくるのです。
外に求め回ることをやめ、一切のはからいの心を捨てて、何もしないという無為こそ無事安心を知る法であるということなのです。
自分が自分として生き尽くす尊さを知り、自分が今を無事に生きている有り難さに気付き、自分が多くに生かされていることに感謝しなければいけません。
また、人生が満足と分かったから、現成受用をできるようになるのです。
何を言われてもその通り!と言えるのです。
私はこのように思います。
生きているのはおかげさまがあるから。
生きているという真実は何よりも価値のあること、そして生かされていることに気付き、私を生かしてくれている、この世に、人に感謝を伝えて報いてこそ、貴人であると。
外に求め回りはしないが、外に出て一人一人の和顔と無事を願い、感謝報いる。
私を生かしてくれるあの人の恩に報い、自分なりにお返しをして、ありがとう。と真心から伝える。
それが無事是貴人の本来の姿ではないでしょうか。
私だけ良ければ善とするのではなく、和顔と愛語、無事安心な心を人にも伝え回ってこそ真の貴人であります。そして、感謝に行じてこそ立派な人と成れるのです。
人生の満足とは有難味の中で生きている自分に気付けるから感じられるのです。
人生を実りあるものに導き、人生を生き尽くせるのも自分自身です。
そして、その答えは案外身近なところに隠されているものです。
自分がこの世の主人公、この世は我が家と真の意味においてのわかることはすごいことなのです。
また、心一つ、身が一つ無事なることほど有難いものはありません。
お釈迦様は「己こそ己のよる辺」と申しました。
しかし、その本当の己も忘れてしまう必要があるのです。
そうしなければ、人は人で無くなってしまいます。
独りよがりほど空虚なものはございません。
中身がないものを有難がり、持ち続けるほど悲しいものはありません。
中身があると思い込んで外を立派に着飾ってもそれは一過性のものでしかないのです。
内にいる本当の自分を信じられてこそ、分かってこその実りです。
何かに依存してそれでもって自信を持つ源泉にするなどもってのほかです。
何かを先に磨き自信にするのではなく、同時に外も内もともに磨いてこそバランスのとれた本物の立派な人といえます。
その人が立場を持っているから人が集まるのではありません。
その人の生き方や真心を慕い、自然とその人に人が集まってくるだけなのであります。
自分だけの成長や幸せを願い「自分がこの世の中心!他はどうでもいい」となっている者に人は集いません。
皆が主人公であります。しかし、私たちは一人では生きていけません。
常に多くのものや人に生かされているのです。
どんな物語も自分だけで作れるはずもありません。
私も主人公だが、貴方も主人公である。
と思える心と敬う心を失わないことが大切なのであります。
そして、自分の物語を引き立ててくれるすべてに感謝できなければいけないのです。
また、自分の行いに責任をもち全うすることも大切であります。
その時、その時の感情に左右されて本当の自分を失わないようにしなければいけません。
人の想いを表面でとらえてはいけません。一つの出来事があったからと今までの自分が消えてしまうわけではありません。みなとの歴史が消えてしまうわけではありません。
何でそうなったのか。をよく考えること。それが大切です。
そして、一つ一つ思い出してください。
どれほど自分が受け取っていたのかを。どれほどお返しできていたかを。
新約聖書にある「与えよ、さらば与えられん」という言葉もあります。
与えることで魂は一歩一歩と高まり、昇華するのです。
自分ばかりが受け取り、相手に与えることができないと魂も命もやせ細ります。
あるお侍さんと禅僧のお話を略してします。
ある侍が極楽地獄について説明してみるようにと、禅僧に挑みました。
それに対してこの禅僧は蔑むようにこのように答えました。
「お前はまったくの愚か者だ。中身のない糞だ。お前のような者に時間を無駄にすることはできぬ!」
それを言われた侍は激怒して、鞘から刀を抜くとこう怒鳴りました。
「無礼者!死にたいか!」
すると禅僧は穏やかに答えました。
「それが地獄です」
侍は自分を捉えた激しい怒りの指摘のなかに、真実を見て驚いた。気持ちが静まって刀を鞘に納めると、侍はお辞儀をして、新たな洞察に対する礼を言いました。
そして、それこそが「輝き、極楽です」と禅僧は言いました。
この禅僧は何を言いたかったのでしょうか。
蔑むような激しい感情を侍にぶつけたと思ったら、穏やかになりました。
なんでこのようなことをしたのか考えてください。
自分の感情に左右されるほどくだらないものはありません。
また、自分の感情を上手く押し殺しているつもりでも見抜かれるものです。
心理学的にも一つの言葉に過剰反応することや一過性の感情に左右されるのはくだらないことであるといわれています。
感情に左右されないようにするということがすごく大事なところであり、感情を上手く制御することによってどんないいことが起こるかというと、行動の中の反応ができるようになるようです。
内に秘める「吹毛剣」は恐ろしいものです。
これは良いことばかりではなく、時にそれで相手を傷つけたりしてしまいます。
そして、この剣で人を傷つけていることを自覚しないからよりたちが悪いのです。
気をつけましょう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?