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いつの間にか集団に呑み込まれているこわさ


俺は小1から高1の途中くらいまでサッカーをしていて平日はだいたい週2、3回の練習。土日祝日はひたすら試合という生活を続けていた。

長いことやっていたわりにあまりサッカーに対してやる気がある方ではなかった。
とはいえ目の前の試合に負けたくないという気持ちはあったから試合中は真剣にやっていたつもりだったけど、プレイの向上のために何か努力をしたり戦術を研究したりするほどではないという感じ。そんなテンションだから何回か辞めたいなーと思ったりするタイミングがあったのだけど「今までやって来たから」という惰性に引き摺られてなんとなく続けていた。

小学時代はスポーツ少年団に、中学はクラブチームに所属していた。クラブチームはセレクションと言って、チームに入るために選別テストをしてふるいにかけられる。そこで残ったのがチームメンバーになるから全体的にサッカーに対する熱量は学校の部活動等に比べると少し高めだったと思う。
それでも俺みたいにやる気があまりない奴というのは全然いてやる気のある奴とザッと半々くらいの分布だった。

結局、高一の途中でサッカーを辞めたのは体を壊したことが原因だけど、今回の本題はそこじゃなく中学のクラブチーム時代に出場したとある大会での話だ。


中学2年の時だったと思う。例年出場しているランクマッチのような形式のわりとデカめの大会で俺らのチームはあと一敗するとその年は脱落してしまう(厳密にいうと負けるとその年はもう上のランクは目指せないみたいな感じだったはず)という大事な一戦。
45分の前後半合わせて90分間、ゲームは得点し失点し、また得点し失点するみたいなかなりの激戦。ついには延長戦にまで突入し汗だく疲労困憊の中、延長のほんとラスト数分のところで隙を突かれ失点。俺らのチームは惜敗してしまった。

試合終了の笛が鳴った直後だった。

仲間の数人が泣き出したのだ。

泣いてる、と思った。
これまで試合に負けてチームのメンバー数人が泣く場面は見たことがあったし敵チームの涙も見たことがある。真剣にスポーツをやっているとそういうことは起こる。そういうものだ。

しかし今回は何か様子が違う。
チームの数人が泣き出したと思ったら次々に涙が伝染していき、いつの間にか試合に出ていたメンバーの半数が泣いている。すすり泣く音がひっくひっくという嗚咽に変わる。
ベンチメンバーも数人泣き始める。後ろのキーパーも泣いている。
気づけばメンバーのほとんどが泣いていた。
このとき試合に出場している中で泣いていなかったのは俺だけだったと思う。俺はサッカーの試合で泣いたりする事がほとんどなかった。この時も例に漏れず、試合に負けた悔しさは多少なりあったとはいえ激戦を終えた疲労感の方が強く、泣くほどの感情はなかった。のだが、チームメンバーの咽び泣く声を聞いているうちに呼吸がテンポが崩れ、いつの間にか俺もひっくひっくと涙を流していた。

泣いているんどけど泣くほど悔しいわけではない。自分でも何故か分からないまま泣いてしまっているという状態が気味悪く感じた。

試合を終え応援してくれていた保護者の方々にキャプテンが泣きながら挨拶をする。「応援ありがとうございました」という声に続きチーム全員で「ありがとうございました」とお礼をする。見に来てくれた親を前にメンバーの号泣がさらにエスカレートする。
つられて俺もひどく泣く。


なんというか、この”一体感”が怖かった。


もしかしたら集団ヒステリーに近い状態だったのかもしれない。


自分自身の感情はそこにはなく「チーム」という共同体の感情に俺の身体が勝手に機能している感じだった。嗚咽し涙を流しているがそれは試合に負けたチームとしてのリアクションであって個人としては何故泣いているかわからないというのが感覚としてひたすら変で、怖かった。

試合に負けて悔しいことは確かだったし何より疲れていたのでその日は変な感覚だったなーと思っただけだったんだけど後で振り返るとやはりただの珍体験では収まらない気味悪さを感じたし、もっと言うとなんというか“個人の存在”ってこんなにも淡いのかと思った。

俺が俺であるっていう当たり前の状態から気づく間もなく集団の一部になっている感じを経験すると途端に自分という存在への印象も薄まる。俺ってこんなに個人として確からしくないんだと思ってしまう。同時に集団の引力というか個人を取り込むパワーの強さに驚く。
個人が集団に呑み込まれる時のあっけなさというか。


それから、これ以降ほんとに俺って俺の感覚、俺の価値観、俺の感情を司ってるのか...と疑うようになった。

もともと人は他人から影響を受けて形成されていることはわかっていたが、体験したことや見たモノ聞いたモノに対してリアクションをするときは個人的なセンスの範疇だと認識していた。

親や教師や友人などから様々な影響を受けて造られた自我でもって様々な事象に対して感じたり思考したりしているのだと思っていた。し、実際そういう場合がほとんどだと思う。

でもそうじゃない場合があるということ、それが体感的にわかってしまったのが怖いというわけだ。
何かを思ったり感じたりすることというのは人として生きる上で最重要な営みであって、逆にそれを集団にコントロールされている状態なんて真に生きているとは言えないとさえ思ってしまう。

自分の中から発生したリアクションだと思っていたものが実は集団に由来するものだったという現象はそれくらい気味悪い体験だった。
それでも救いなのはこの状況において俺は「別に泣きたいほどの感情があるわけではないのに泣いてしまっている」という違和感を自覚出来たということ。

もちろん無自覚な場合は自分でも気づいていないのだからそんな状況は認識出来ないけど、自覚出来る場合もあるというのがわかったのはでかい。

自分自身を見失うことが恐ろしいという感覚はみんなある程度あると思う。俺が強すぎるのかもしれないけど、そういう感覚が少しでもあるなら日常の中で今思ったこと、感じたことはほんとに自分から発生したものなのか?という疑問を持つことが集団に無自覚に呑み込まれることから回避するための唯一の対応策だと俺は思う。



例えとして俺が好きな漫画や映画の分野の話でいうと、これらの大衆エンタメには「ネットミーム」というインターネット上で作品の一部分が切り取られ印象的な場面として様々な文脈で引用されたり、セリフを少し弄ってネタの素材にされたりする文化がある。
取り上げられるシーンはわりと地味なひとコマだったりするんだけどそういう場面だったとしても「この作品はあのシーンが有名だよね」「あのシーンが面白いよね」という話題としてネットミームになっているシーンがあげられることがある。こういう時「ほんとにアンタがその作品を通じて感じたことなの?」と思ってしまう。個人として作品を鑑賞しているんじゃなくてネットミームや有名なシーンを確かめてなぞるように、社会的な目線と照らし合わせるように鑑賞しているんじゃないかと。


ネットミームを含んだオタク的な会話もそれはそれで楽しいし俺も好きなんだけど、ネットミームになったシーンというのが無自覚にその作品の印象そのものになっていると何か残念な気がするし、なによりそのリアクションは集団(ここでいうとネット社会)に呑み込まれてないか?と考えてしまう。

ミームを知らない状態の“個人”として作品を見た時に果たして話題になっているシーンはほんとに印象的に感じるのか。

実際そうかもしれないし、案外そんなことないという場合もあると思う。

作品を鑑賞する時は個人として向き合うのが俺は良いと思う。別にそうじゃなくても良いんだけど俺みたいにある程度個人としては在りたいという人はそうした方が良いはず。

ネットミームの話については具体例を出すとすごく長くなっちゃいそうだからまた別で書こうかな。


とにかく日常で生じる事象に対して無自覚に集団の一部としてリアクションしている場合があり、そういうのをいちいち自覚していく事が俺には必要で、同じ類いの人がいると思う。


話の終着点がぼんやりしてしまったがとにかくそういう類の皆さんがいましたら、個人と集団の境界をしっかり認識できるように日々気をつけましょうね。

という話でした。


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