アメリカ(LA)に資格なしで就職を成功させた体験談 1つのキーワード
#アメリカ #就職 #体験談
①アメリカでの就職と働くための方法
②留学生として、そのまま現地で就職
③アメリカに現地法人・支社がある日系企業に就職し、転勤の機会をうかがう
Where there is a will, there is a way = 意志あるところに道は開ける?
①アメリカでの就職と働くための方法
"Success unshared is failure."「共有されない成功は失敗です。」
できるだけ色々な方に、読んでもらえる内容にしたい。な、と考えてみると中々、文章が出てこないことに驚きました。
書き出してしまいたいのに、中々まとまらないので思い出すままに綴って行きます。
2000年代初頭、20代でアメリカに留学した私はそのまま運良く、日系企業に採用され永住権取得まで漕ぎ着けた事は思い返してみるとラッキーだったと言えるのかもしれません。
今回、改めて振り返ってみるとロサンゼルスで知り合った日本からの友人達はほぼ居なくて9割の方が帰国しているんだな〜と思います。
優秀な仲間達と当時話した夢の続き、、、
インターネットデザイン会社でインターンシップで働いていた彼女も、MBA取得してアメリカのオリンピック関係で働いていた友人もみんな、みんなアメリカには居ません。
1割がアメリカ人と結婚だったり、子供の出産をアメリカでしてそのまま住んでいたり、あとは潜り?不法滞在のまま居座っていたり、、、と様々だと思います。
20代で学業、金銭、ビザ、の問題に誰もが翻弄されながら、
30代で少し落ち着いた?と思いきや、、、
次は離婚、薬物、ビザに関する詐欺など、次から次へと問題が発生していましたが、それでも誰もが逞しく生活していたように思います。
こうして書き出し行くと外国で暮らして行くことは、思い他難しいのかもしれません。日本国内で普通に生きて行くことさえ簡単でないのに。振り返ってみると、きっと誰もが懸命に毎日を生きているんだな〜って感慨深くなりますね。
②留学生として、そのまま現地で就職
Before you point your fingers, make sure your hands are clean.
(指を指して人を批判する前に、自分の手が汚れていないか確かめろ。)
2000年代初頭、私は20代でロサンゼルスのcollegeに留学。
取得していた4年ビザは直ぐに期限が来て、ノラリクラリの学生生活とは裏腹に日本食レストランの掛け持ちと、ロサンゼルスでできた地元友達の紹介でクラブのセキュリティーなどをして忙しくバイタリティー溢れた毎日を送っていました。
その甲斐あって、棚上げ状態の学業はおろそかなまま。卒業の目安もつかずこのままだと留学ビザが切れてしまう、、、宙ぶらりん状態に陥ろうしていた正にその時でした。一生懸命は報われる!?
何も大したスキルは無く、ただただ楽しい毎日だったのかも!?しれません。
YouTubeに Twitter、FacebookやInstagramが誕生した頃でもあり、ITバブル真っ只中でした。私は日本人だと言うことで直ぐに日本食レストランの寿司バーに立つことに。とにかく、目の前のお客さんを楽しませる。満足してくれるお客さんは、お酒もチップもジャンジャン弾んでくれる。楽しくない訳がない!
ビジネスの基本を稼がせて貰いながら学ぶ。正に実践に勝るモノは無いと格言通り、様々なことを学びます。
当時から、車の問題、学業とビザの問題、将来の問題など何もかもが不明でしかし未来だけは明るかった。Life is not fair; get used to it.
日本食レストランのオーナーからアメリカ永住権申請の話を受け、取得迄最短でも4〜5年掛かる。そんな内容だったと思います。その一縷の望みを選択することに。
しかし僅か数ヶ月余りで、私はその日本食レストランを辞める事態に陥ったのでした。同じ職場の中南米出身の同僚達と、私を含めた日系の方達の間で軋轢が生じてしまい留学生状態の私が解雇と言う形で収集する運びに、、、
既にアメリカ永住権申請は開始していた為、余程の問題が発生しない限り問題ないとのオーナーとの話し合いもあり不幸中の幸い?と言う形で退社。その後、collegeに戻り数ヶ月を卒業の為に集中してみましたが卒業資格取得には至らず休学手続きを取り一応終了。
そのまま、アメリカ人や日本人の友達と遊学と称してアメリカ国内や中南米などに旅をして、2010年目前に日本に帰国したのでした。
その後、私は2013年にどうにか無事にアメリカ永住権を取得できました。
③アメリカに現地法人・支社がある日系企業に就職し、転勤しながらそれでも、、、
“It’s all about who you know in the field”
つまり、 “仕事では人脈や人間関係が大切”というニュアンスですが、それが一番最短でもっとも効果的だと思います。
上記のようにアメリカ国内で既に存続している会社に繋がり、如何に会社にプラスになるよう従事するか。
特にビザの問題はやはり、取得する迄に大きな壁となります。
10年以上、ロサンゼルスの美容業界で働いてきた友人から教えて貰ったビザに関する問題は深刻だと言えます。
彼女は、ロサンゼルスで美容に関するライセンスを幾つか取得してプロとして10年以上働きEビザをキープしていました。
ハリウッドの美容サロンから、永住権申請して4年が過ぎていました。
しかし、永住権の進展は無くコロナ禍で店舗自体が潰れてしまいそのまま永住権取得自体が消えてしまったとの内容でした。
日本食やお寿司職人のスキル申請であればもう少し早く良い結果になっていたのでは、、、と移民専門の弁護士からの回答でした。
このように、文化的背景が色濃く影響するスキルがビザや永住権取得には最優先されるのだと改めて知りました。
まとめ
アメリカに限らず海外に留学や就職したいと夢見る方は多いのではないでしょうか?流暢な外国語を話し、様々な国の方々と交流してビジネスや学びを得る。私も、そんな立派な人に憧れて20代で日本を飛び出した一人でした。海外に就職となると、多角的問題があり思いの外、高い障壁に感じるかもしれません。
これからは嫌でも出稼ぎに日本を出なけれならない時代が来るかもしれません。これから留学や海外就職について探しいたり、悩んでいる方々のきっかけや助けになれば嬉しいです。
今後はx(旧Twitter)などからも、ロサンゼルスのローカル情報などを発信して行きたいと思います。
ここまで読んで頂きありがとうございました。
これからも、よろしくお願い致します。
A Billionaire's Secret to Success
Businessman John Paul DeJoria is known for becoming a self-made billionaire, but his road to success was not a smooth one. He would eventually co-found one of the most iconic brands of the 1980s and shift the way consumers think about beauty products and corporate responsibility. But first, he needed to find his way in business. DeJoria, who grew up in poverty, learned his earliest lessons about business success as a child. At the age of nine, in an effort to help support his family, he sold Christmas cards and newspapers. Poverty forced DeJoria and his brother into foster care for part of his childhood, but DeJoria remained optimistic and looked for ways to change his situation for the better.
In an effort to pay for college, DeJoria sold encyclopedias door-to-door. He later said that this job provided him valuable experience with rejection. It was during this time that he learned to stay positive and keep trying when people told him, "No." DeJoria carried these lessons of perseverance and zeal into his future business endeavors, helping him to eventually find success.
In 1980, DeJoria teamed up with his friend Paul Mitchell, a hair stylist who made his own hair care products. DeJoria saw how much customers valued Mitchell's products, so DeJoria suggested they build a company together. DeJoria, who had already spent several years working in management and sales for large hair care brands, felt confident that his skills, combined with Mitchell's products, could make a large impact on the industry. The two friends pooled their resources, and DeJoria borrowed some money from his mother. The result was $700—enough to buy supplies and start their business.
The friends' company, John Paul Mitchell Systems, sold Paul Mitchell products to professionals working at hair salons. DeJoria used his sales skills to go from salon to salon, convincing hair care experts to use Paul Mitchell products on their customers' hair. People quickly fell in love with the products, and after a few years, the company was making millions of dollars annually.
From the beginning, DeJoria and Mitchell wanted their company to reflect their values. They never tested their salon products on animals because they perceived animal testing as a cruel practice. John Paul Mitchell Systems was the first beauty care company to take a public stand against the practice of animal testing, paving the way for other brands to seek out more ethical alternatives. In addition, as John Paul Mitchell Systems grew, DeJoria and Mitchell made a commitment to use recycled materials in their product packaging. Not only did this have economic benefits, but this decision cemented the company's reputation as an industry leader in environmental awareness.
After many years of hard work leading John Paul Mitchell Systems and managing other companies he owned, DeJoria became very wealthy. Still grounded by the same commitment to progress and optimism that helped launch him into business, DeJoria became a notable philanthropist. He began giving money to environmental organizations and other causes that were close to his heart. In 2011, DeJoria signed "The Giving Pledge," promising to give away at least half his money to charitable causes. In the years since then, DeJoria has donated many millions of dollars, giving rise to his personal motto, "Success unshared is failure."