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修論のプライスレス 博論日記#6
今まさに書こうとしている事柄のプランを先に述べておく。まず1月6日(月)から1月10日(金)までに起こったいくつかの出来事を並べていく。その後、それらについての所感を述べる。あくまで即興的に。
1月6日(月)
朝の便で新千歳を立ち成田へ。その後、駒場へゼミに向かう。この日の東京には、いやな冬の雨が降っていた。2025年の稼働初日の駒場キャンパスは、いつもより「しん」としていた。この日のゼミで扱われたのは、ルネ・シャールの詩「朝の人々の赤み」« Rougeur des Matinaux »だ。断章形式の散文詩。朝の太陽が照す世界、明けた夜、戦争の傷跡、痕跡、空と大地の間に立つ詩人。文学と倫理。神なき世界。未来に向かう詩人の歩み。そして夜が、明日が来る……この回帰を、この終わりなき反復を、希望と見るか責苦と見るかは難しいところだ。
いずれにせよ、シャールのこの難解な詩をめぐって年始の駒場の教室で、複数の人間たちが集まり、ああでもないこうでもない、と読み語り、語り読んでいるということ自体にふと我にかえる。みな、テクストに対して、文学に対して真摯だ。滑稽なほどに。
1月7日(火)
昼から駒場。授業でフェティ・ベンスラマを訳読し、直後、読書会でT氏と一緒にブランショのマラルメ論を再読し議論。夜、友人のO氏の修士論文の締切が明日なので、最終的な校正段階に入る。誰に頼まれたわけでもないのに、約10万字の原稿を一気に読んで、誤字や文章表現など細かいところを中心に、気になったところにコメントを入れていく。ほとばしるような論文の勢いと熱。研究(対象)への深い愛。単なる研究の生産性や新規性といった枠をはみ出た、個人的な使命感。結局、日付が変わってからO氏に送付する。
1月8日(水)
夜、表参道のイタリアン「カフェ ラ・ボエム」でO氏の修士論文提出のお祝い会。いつものY氏、S氏と私の4人。(私の学会誌デビューもみんな喜んでくれて、祝ってくれた。)O氏は17時の締切ギリギリまで校正作業をしていたらしい。死力を尽くしてベストを出したのだろう。大いに飲み食い、大いに語り合い、いい時間だった。その後、興奮冷めやらぬ4人は渋谷まで歩いた。有り余る幸福感の発散、蕩尽といったところか。ハッピー・アワーの延長。たしかに4人の目に見えない重心があった。
1月9日(木)
この日も朝から大学でやや疲れて、午後デスクで深い昼寝をしていたところ、T氏に起こされた。今年は読書会の数を増やしてもっと積極的に読んでいきたい、とのこと。もちろん私も二つ返事でOK。君のその意思は僕の意思に重なっている。もっとやっていこう。ペースと量を上げよう。
1月10日(金)
すでに年末からだったが、今週は特にSNSのタイムラインに「修士論文提出」関連の投稿が本当に多い。
朝、仏語作文の試験を受ける。ネイティヴの先生に、以前添削をお願いした論文が通りましたと報告する。その後、「コマニ食堂」でお昼ご飯を食べる。午後はカリブ海関係の本や、アミナダブの草稿資料などに目を通す。
そして、19時。國分功一郎と重田園江を招いた、駒場の自治会主催の集会に急遽出席する。論題は大学の「自治」。東大の学費値上げ問題、当局の抑圧的な管理、学生の抵抗、政治的な対話などなど。
東大の外からも多くの人が集まった。みな自分の意思で。大学の「自治」を真剣に考えている人々。会場となった教室には切実で真摯な熱気があった。だが同時に自由で開かれた対話の空間があった。笑いがあった。誰もが言いたいことを言える、そんな心地よさがあった。それはなぜかと言えば、一つには、この集会が有志の場で、誰も義務や強制によって来たわけではないからだろう。金曜の夜にわざわざ駒場に集まって、カンパまでして、「自治」について討論する人々。なかなか得られない、真の対話の空間。ユートピア。
(2017年に私が京都大学に入学したときは、キャンパスに空いているスペースが皆無なほど「タテ看」が林立していたが、2021年に卒業したときには「タテ看」は殲滅させられていた、そしてコロナ禍での生権力と管理行政が支配していた。そして駒場に来たら、そこには「タテ看」があった。かつての京大ほどではないけれど。)
さて、列挙は以上だ。
まとめに入ろう。
数日前(今週)、SNSで見たひとつの投稿が記憶に残っている(保存はしていないが)。たしかその人は企業で働きながら(あるいは企業で働いた経験をもってから)社会科学系か自然科学系の修士論文を執筆している(あるいはした)とのことで、彼の主張はこうだった──「企業では数百字の文章を書くのにも賃金が発生するのに、修論は何万字、何十万字書いてもゼロだ」と。
頭の片隅にこの主張が残っていた状態で、この1週間を振り返ったとき、自分が(そして他者が)、かなり「金にならないこと」に力を注いでいること、それに充実感を感じていることに気がついた。
何かに取り憑かれたかのように、だがあくまで自由に、誰に頼まれたわけでもないのに、もちろんその努力に対価を支払ってくれる人もなく──誰かに頼まれたわけではないのだから当たり前だが……──ただ、おのれの内なる「信」と「理」だけにしたがって、持てるエネルギーを惜しみなく発散するように、誠実に、愚かに、虚心に……
この感覚は何なのか。簡単に言えば、(即時的・直接的には)一銭にもならない修士論文に命をかけるという生き様だ。それを美しいと思う感性だ。自分もそう生きたいと望む美学だ。
「修士論文」だけではない。テクストを読むことだって、読書会をすることだって、集会に参加することだって、友人たちと酒を酌み交わすことだって、意味もなく夜道を遠回りして帰ることだって、そうだ。
言い換えれば、これは「手段」と「目的」が一致している、ということを意味しているだろう。「疎外」のない瞬間。
ここで私は経済的な問題を完全に不問に付している(無賃金労働や困窮といった問題はもちろん別途真剣に取り扱われるべきだ)。
私は論証も何もかもすっ飛ばしてこう言い切ってしまいたいのだが、誰かに対価を支払われるような修論など所詮、その領収書に書かれた「〇〇円」の価値をもつものに過ぎないのだ。そんなものは修論ではない。より正確に言えば、私はそんな修論に興味はない。
私はあくまでも研究者だからもっと踏み込んで社会に楯突いて言えば、他の人間のあらゆる営みもそうだ。修論だけではない、マネタイズされるもの、換金されるもの、行動はどこまで行っても「〇〇円」であるに過ぎない。あくまで私は、“そうではない”過剰な部分──熱、狂気、不条理、愚かさ、笑い、不在──にしか興味がない。
子供の頃、クレジットカードのCMで繰り返し耳にした「プライスレス」という、おぞましい言葉があった。ここではあえて、つまり社会の拝金主義を逆撫でしようとする明確な悪戯心をもってこう言おう、「修論はプライスレスである」と。
こんな気持ちになってしまうのは、今、フランス領カリブの悪夢を──民族の誇りも政治的イニシアティヴも何もかも根こそぎにされた、生産なき消費の、創造なき交換の悪夢を──勉強しているから、なのだろうか。