例え話は苦手。「反脆弱性」を読みながら−6
今日も自宅待機。きちんと自粛している。昨日もそうだったし明日も、もちろん自宅待機。望んではいない形で得てしまった休日。
今日はなんとなくダラダラしたいモードになり、筋トレを先延ばしして机の上でうつらうつらしてばかり。まぁいいか。そんな日もあるよね。
さて、ナシーム・ニコラス・タレブ著「反脆弱性」今日から下巻を読み進める。相変わらず難しめ。なるほど、これって経済学の本なわけ ?と先ほど気づいた私にこの本を語る資格はナシ。なので今日も横道に逸れる感想ばかりです。
この本では、例え話を多く使って、「反脆弱性」「反脆さ」という、概念を説明している。
読みながら再確認したけど、私は例え話が好きではない。例え話を聞いていると、伝えたい(であろう)事と例え話に用いている事例が正しく例えになっているかばかりに気を取られてしまって、イライラしてしまう。
この本を読みながらも、例え話を用いて理解を深めやすくしてくれているんだろうけど、「つまり?」と本に突っ込みながら読んでしまう場面多数。
私自身は、レッスンでダンスを教える際、例え話はほぼ用いていない自信がある。だって思い付かないから。伝えたいことを伝えるのに、どの言葉を用いるか、どの動作を用いるか、すごくすごく考えるけど。
例えば(笑)、姿勢を良くしたいときに、「両腕に水の入ったやかんを持っていると想像して・・・水の重さを感じながら頭を上に伸ばして・・・」と言われたら。「うん。それはわかる。けど今はやかんを持っていないでしょ。つまり、どこをどう意識するの?」と言ってしまうのが私である。文字にすると、改めて可愛くない。
こんな横道逸れまくり読書でも、面白い部分は発見できたので、やはりこの本は面白い。なんちって。
「私たちは、何が正しいかよりも何が間違っているかをずっと多く知っている。」
これは、難しい学問についてでなくてもその通りだと思う。人間関係でも仕事でも料理でも、正解はわからないけど、これはやっちゃダメだよねっていうことは実はみんなわかってるもんね。
そして明日につながる物の見方。最新のものばかりでなく、過去から生き残っているものに目を向けるべきでは?と。過去にできたものの全てが良いわけではないけど、昔できたもので、今も残っているものは良いものが多いかもよ、ってことね。おばあちゃんの知恵袋的な。
特にこの状況下では、オンライン全盛になってしまっても仕方ないけど、だからこそ人と触れ合うことの尊さを思い返したり、触れ合って教える社交ダンスのレッスンスタイルの普遍性の意味を考えてみたりしている。