「反脆弱性」を読みながら
さて、今日も外は寒い。あまり出歩くのも気が進まないので最低限の買い物を午前中に済ませてしまった後は、家で過ごそうと思う。
とある方のサポートメール会員になっている。毎日コラムが届き、ちょっとした課題も送られてくる。今週はナシーム・ニコラス・タレブの「反脆弱性」がテーマ。
脆弱性、とは脆いこと。頑健なものは確実を好み、耐久する。反脆弱とは、衝撃を糧にする、ということ。いやいやなんだか難しい。けどなんだか、分かるような気もする。
この状況なんてまさに反脆弱性がないと乗り切れないのではないか。半年前に、コロナ騒ぎで世界規模の大事件が起きるなんて、きっと誰も想像しなかっただろう。想像しなかった、できなかったとしても、起きてしまった。そうしたら、対応するしかない。受け入れて、対応するしかない。
先のことなんてわからない、ってずっと思ってきたけど、私の場合それはただ単に先のことを考えずに場当たり的に過ごしてきただけのような気がするので全くもってカッコつかない。
大学2年生の時に、社交ダンスのプロという存在を知ってすぐさま大学を辞めたくなった時、両親は大反対した。周りの友達が就職活動を始める中、やはりダンスのこと以外考えられず、自分なりには色々考えて人にも相談してダンスの道に踏み切ったけど、考えていたより実際は苦しいことが多かった。ダンスが何より好きなのに、ダンスが大嫌いになることも多かった。それでも辞められない自分を今でも少し持て余している。
ダンス界に限らず、世界は予測不能である。
「理解不能な世界をどう生きるべきか。いやむしろ、絶対に理解できない物事に臆することなく対処するにはどうすればよいか。もっと原理的に言えば、そういう物事にどう対処すべきか。さらに言えば、自分たちの無知に面と向かい合い、人間であることを恥じることなく、人として積極的に堂々と生きるにはどうすれば良いのか」
私は割と変化を受け入れて生きてきたのだと思う。でもそれは受け入れるしかないから受け入れてきただけであって、予測が不可能であるから、自分の生活や仕事、行動などにおいて反脆弱性を備えてきたというわけではない。
反脆弱性の強さとはどこから来るのだろうか。現在読み進めたところまでから考えると、「余白」だろうか。私の人生には今まで全くと言っていいほど「余白」がなかったように思う。「余白」を取り入れることで、反脆弱性らしきものが育つのではなかろうか、という気がしている。 時間的な余白、体力的な余白、気持ちの余白。どれも予測不能な事態が起きてしまった時に、パニックにならずにすみそうだ。
さあ、読み進んだこの先、もっと革新的なアイディアがあるに違いない。まずはコーヒーを入れて。午後はこの本を読むことにしよう。