バレエの歴史:クワトロチェント
クワトロチェントとは、イタリア語のQuattrocento、「400の」の意。芸術史上では、1400年代の時代概念であり、ルネサンスの初期から盛期にかけての時代である。
ルネサンスの中心地となったのは、言うまでもなく、イスラム・地中海貿易で繁栄したイタリア、特に毛織物と金融業で栄えたフィレンツェである。
インテルメディオ (幕間劇)
フィレンツェにおいてメディチ家の支配を確立したコジモはプラトンの思想に心酔し、人文主義者マルシリオ・フィチーノにプラトン全集の翻訳を行わせたことで、ルネサンスの芸術・文化にネオプラトニズムの影響を大きく与えた。(当時はプラトンの思想とネオプラトニズムを区別されていなかったが、フィチーノの哲学はプラトンよりも、プロティノスのネオプラトニズムに近いといわれ、ルネサンスのプラトン思想はネオプラトニズムと呼ばれるべきだと言われている。)
そしてコジモの孫、ロレンツォの代には、ネオプラトニズムを反映した、すなわち「詩、音楽、舞踊の調和」を目指したインテルメディオ(幕間劇)の制作が、人文主義者たちの手で試みられるようになった。
インテルメディオは賓客をもてなすための催しであり、当然ながら古典作品からテーマを採られ、特にその場にふさわしい物を選ばれた。台本(詩)や音楽、装置や演出、出演する踊り手や役者、演奏者など、内容そのものが重要であるのは無論のものの、より現実的には、その趣旨は第一に主賓をもてなすことにあり、ひいては主催者の権威を高めるところにも大きいな意義があった。
こうした背景に、語りを交えた音楽劇《オルフィオの物語》が上演された。その際、終幕を舞踊で締め括る形が取られ、以後インテルメディオ の大団円に舞踊を置くことが形式化にする。ちなみにこの作品の脚本は、当主ロレンツォに詩作を教えた、偉大なる詩人のアンジェロ・ポリツィアーノがたっだ2日間で書き上げたものである。
ドメニコ・ダ・ピアチェンツァ
一方、フェラーラのエステ家に仕える振付家であり、教育家、理論家であるドメニコ・ダ・ピアチェンツァが西欧史上初めての舞踊理論書を著した。『舞踊振付教本』という本において、ドメニコは北イタリアのダンス様式を伝え、主に拍子やテンポの異なる、下記の4つのダンスについて述べている。
・バッサ・ダンツァ:跳躍を含まないゆっくりとしたダンス
※バッサは「低い」、ダンツァは「ダンス」の意。これに対して跳躍を含む軽快なダンスは「アルタ(高い)・ダンツァ」と呼ばれる。
・クルデルナリア:バッサ・ダンツァより急速な踊り
・サルタレッロ:さらに急速な跳躍の踊り
・ピヴァ:軽快な3拍子
特にバッサ・ダンツァは中世の時代から宮廷で踊られていた踊りであり、ドメニコの著書にも「舞踊の女王」として特別な位置に置かれた。
15世紀の宮廷舞踊には、この4つのダンスを連結して一曲にまとめる場合が多く、それがバッロ/パロ(「踊り」の意)と呼ばれており、中にはマイムや演劇的な要素の見られる作品も含まれていた。
※フェラーラで活躍していたことで、ドメニコ・ダ・フェラーラという名前もある。
グリエルモ・エブレオ
グリエルモはドメニコの弟子の一人であり、メディチ家、ナポリ家、スフォルツァ家に仕え、著作の『舞踊芸術実践論』のなかでBallettoという語が初めて用いられている。
グリエルモは優れたダンサーとしても称賛されており、著作は同時代の舞踊教師たちに大きな影響を与えた。
より踊り手に求められる条件として、彼は記憶力、音楽性、身体性、精神性、多様性、空間把握(スペースに応じてステップや図形などの適切な配分ができること)などをあげられている。
ダンスに対しては単なる身体運動に留まらず精神性を求められるのもネオプラトニズムの影響が窺える。インテルメディオに挿入された舞踊はこうした理念に基づいて作られ、踊られていたのである。
※エブレオは1463年〜65年にキリスト教信者になり、キリスト教徒としてジョバンニ・アンブロシオという名前もある。別人として書かれている文献もありますが、同一人物である。
レオナルド・ダ・ヴィンチ
15世紀のインテルメディオには、レオナルド・ダ・ヴィンチやサンドロ・ボッティチェリといった巨匠たちも関わりを持っていた。特にレオナルドはミラノのスフォルツァ家において《楽園》《ダナエ》の2演目に直接に関わったことが知られている。