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わたしは小さな国内難民だったとおもう。
移住定住を繰り返すものにとって、「好きなところで暮らせていいねー」「次はいつ来るの?」「もう、戻ってこないの?」は決まり文句と言ってよい。好きで移動している人。そんな基盤がこの質問の根っこにはあるように思われる。
わたしは、若いころ(1999年ー2002年)外国で一人暮らした経験がある。その時には、数えきれない数の人と出会い、関り、差別だって普通に受けた、けれど助けられたことも山ほどあった。でも不思議と足のない映画監督や耳の聞こえない作曲家と作品制作をする中で、同じ言葉や同じ色の肌、どこで生まれ育ったかなんかは、考えたこともなかった。実現したいと一緒に思えた世界をえるために工夫や技術を出し合った仲。そこだけがいつも根底にあった様に思う。
学校を卒業してから、1年の学生ビザ延期期間を使って制作を継続する日々のなか、俳優や音楽家、舞台美術や照明作家なんかとルームシェアしながら、同じバイト先で働き、公演や稽古、急なオーディションや出演が決まったときは、お互いにシフトを埋めあう、そんな日々だった気がする。
ラオス、中国、タイ、インドネシア、米国の南部や内陸から西海岸に集まって学校に所属して夢を追うなり、生活の基盤を得るなり、ビザを取得しながら、出稼ぎに来ている移民もざらにいた。信じる者も肌の色も育った環境も違うけれど、移民の多いこの町の住人同士は、目の前にあるこんもり積まれた苦労の一角をどこか一緒に崩しあって生きている仲だった気がする。決して言葉に出して確認しあったわけではないけれど。
オーナーや上司も移民でビジネスをし始めた家族だったりするから、そういえばいじめや差別で苦労したことはなかった。関わるカスタマーもアジア好きだから嫌味を言われたことは一度もなかった。今思うとあの移民ごちゃまぜチャンプルー状態の国では奇跡的環境だったとおもう。日本に帰国してから、他国に行くことはあったけれど、安住して20年近くが過ぎ、今あの時を思い返すとは、浮かび上がるのは、あの時世話になった人ら元気かなー、と言うのと、移民者をみると、どこかで「踏ん張れ」「なんかあったら家へこい!」「困ってることねーがー?」と話しかけるわけではないのだけれど、心の中でつぶやいてる自分がいる。
そんな時、医療系の国家資格を取ろうと高田馬場へ出向く日々が増え、界隈をウロチョロしていると移民と一緒に舞台芸術を創作するファシリテーター講座に参加することになり、移民者である作家や留学生や移民者と接点を持つようになった。そこで、感じたのは自分の移住定住の願望と移民者の原動力との類似点だった。あちゃー、わたしゃ国内難民だったんだと。。。中身は痛すぎでここでは割愛するが、移民のみんなが日本を頼って海を渡ってきて、医療従事者として、芸術文化に携わってきた者として、出来ることが沢山あることに気が付いた。
移民と国内移住者の知られざる接点、これやな探って行きたいんは。
安心して暴露できる表現の場所やね。そこから出てきたurgentな状況を抽出して吸い上げ、作品化していく、世の中へ発信、見えない人らの可視化へとつなげる。可能ならば、作品作りながら飯を共にして、衣食住の生活支援のみならず、小さな医療:自分だったらクリエイティブ・ヘルスの視点からメンタルヘルスや健康について気にかけてあげられるような人でありたい。さーて、どこから始めようか。むふふふふ。