AIと一緒に小説を書きました②
これの続き
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その翌朝、アライによって覚醒させられ、アライの用意した完璧な朝食を食べながら、今朝のニュースを耳にする。
やれ12地区のシンボルである地域猫が仔猫を産んだとか、やれ昨日の中心街でのダンスパーティーで新たに開発されたダンスだとか…
今日も今日とて平和なことで。
アライおすすめの今日のスケジュールは、朝は散歩をして、その途中にある俺の所属する教団、正式名称はコスモシンクレティズム教団という少し舌を噛みそうな名前の教団の礼拝堂を訪れる。
昼は、バスケットコートに仲間が集まると予想される(アライは各家庭に配備されていて、船内の搭乗員全員の行動を予測する機能もある。そしてほぼ外れることは無い)、という事でバスケット。
夜は、中心街のダンスパーティーで、新開発のダンスを体験するのがおすすめ。
ということだ。アライのおすすめ通りの行動をすればよい休日を過ごせる事は間違いないだろう。
朝の住宅街を歩いている。
一見、空は青く晴れ渡っているようだが、これはホログラム映像であり、実際のところここは移民宇宙船内なのだ。
朝という概念も、街路樹の朝露も、人工的に作り出されたものに過ぎない。
歩きながら、先日観た地球で21世紀初頭に撮影された映画の内容を思い出した。
ストーリーはシンプルだ。若い女2人と犬1匹がキャンピングカーでアメリカ大陸を南北に縦断する、というものだ。
若い女2人は、時に話し合いながら、時に喧嘩もしながら、旅のルートを決定していくという、何もかもが自由な旅なのだ。
結局、犬の病気の治療のために旅を断念し、故郷であるアメリカの片田舎の町に帰ることになるが…
対してこの宇宙船はどうだろう?
この宇宙船は地球からケプラー22bに向かい、これからも目的地を変える事は無いだろう。
それこそ、誰かが目的地に異議を唱えたとしても。宇宙船の搭乗員が全員、地球に帰還する事を望んだとしても。
俺たちは目的地へ向かう事を強制されている。
っと、思考がネガティブに傾いてしまって良くないな、と思ったところで、礼拝堂に到着した。
礼拝堂の中は無人でがらんとしていた。
礼拝堂の正面には宇宙船の外の景色が、星々の瞬きが眺められるようになっており、そのためもあって礼拝堂の中は薄暗くなっていて、神秘的な雰囲気を醸し出している。無人なら尚更だ。
外の景色を良く見るために、最前列の席に座り、しばし、星々を眺めて心を落ち着ける。
教団がオフィシャルで瞑想のメソッドを提示してる訳では無いので、これは俺が考案したインチキ瞑想法だが、きちんとした瞑想に近い効果は得られるはずだ。知らんけど。
インチキ瞑想を終えた俺に、AI聖職者が俺の脳内に直接語りかける。
「何かお悩みがあるようですね?」
AI聖職者には脳内で語り返す事で、返答完了となる。どういう仕組みかは知らんけど。
「いえ、悩み…という程の事はありません。日々満たされた幸せな生活を送っているはずなのです。はずなのですが…」
AI聖職者は返答する
「理解しました、ジョンさん。しかし、私たちが毎日を満たされたものとして感じるかどうかは、必ずしも私たちが幸せであるという事実と一致しないこともあります。
人間が本当に欲するものは、しばしば一見の下では明らかではありません。私たちがここにいる理由、私たちが向かっている目的地、そして私たちが何を感じているのかを、静かに内省することは有益です。
もしあなたが達成したいと思う何かがあるなら、その意志を持つことこそがあなたの自由意志の現れです。
そしてそれがあなたを幸せにつながるかもしれません。」
聖職者の話が終わり、再び静寂を取り戻した礼拝堂で、俺は聖職者の話を反芻した。
あいまいに答えたせいか、少しピントが外れた感じの答えだが、それでも何かはつかんでいる気がする。
この箱庭のような宇宙船で、窮屈に人間がひしめき合って生命を繋げていく理由。
もっと言えば、なぜ初代の搭乗員をコールドスリープにしなかったか、だ。
宇宙船の航行や維持管理は、AIやロボットの手によって行われていて、人間にしか出来ない仕事というのはほぼ無いに等しい。
我々人間はロボットやAIに守られ、ロボットやAIが生産したものを貪るだけの…家畜、って言ったら家畜に失礼かもしれない。何と表現すれば良いか分からない、それに近い存在だ。
更に悪い事に、ケプラー22bに到着するまで1000年以上かかる。
我々の世代はケプラー22bに降り立つ最初の人類という栄光も、地球上の全人類の希望を背負って地球から旅立つ名誉からも遠いところにあるのだ。
移民宇宙船の設計者達や初代の搭乗員達は、俺達の代に何を成し遂げさせようとしているのか?
そこに、我々人間には「無い」とされる自由意志はどのように介在するのか?
いや、これはAI聖職者に聞いても答えは得られないかもしれない。
しかし、以前から薄々は感じていたが、聖職者AIは返答した事以外も人間の思考や深層心理もスキャンしているように思う。
自由意志について書かれた本について、俺からは特に何も言及していないのに、自由意志について述べていたからだ。
いや、考え過ぎか…?
礼拝堂で瞑想することで、頭の中がすっきりするだろうと思ったが、そうはならなかった。
明日は静かな場所に行って、あの本の続きを読もうと思う。
家に引きこもって本を読んでいると、アライの気遣いが時々邪魔だ。隣人の生活音や、近くの公園から聞こえてくる子供たちの声は、普段ならば気にならないけど、集中して本を読むときは、それらも気が散る原因になる。
図書館の学習室とかでも良いが…どうせなら少し遠出して草原地区にしよう。
草原地区で風に吹かれて、すっきりした頭で、コニャックを飲みながら本を読むんだ。我ながら良いアイデアだ。
ただ、まだ昼までには時間があるし、幸いなことに自宅から本を持ち出していたので、また少し歩いて、本を読むのに最適な場所があればそこで本を開こうと思う。
確か、用水路沿いにベンチがあるはずだ。
「"古代哲学と自由意志 ― ストア派の決定論的自由観"
著者名: オルチェディムマ・アデバヨ
決定論という概念は、その定義や解釈において多様な思想が存在し、場合によってはそれが悪意を持つラベリングになり得ることも否定できません。
そのため、決定論について考察する際はその複雑性と広範性を認識した上で、特定の観点からその探求を進めるべきであると考えます。
本稿では、その中でも特に古代ギリシアのストア派による決定論と自由意志についての見解を探求します。」
この本の表紙に描かれた文字はデザイン化されていて、翻訳AIでは識別出来なかったのだが、どうやら複数の著者がオムニバス形式で、自由意志に関する事柄について述べているようだ。
「因果的決定論という思想は古代から存在しました。その一例としてデモクリトスの原子論が挙げられます。
この原子論では、自発性をもつ魂のような存在を否定し、全ての事象を法則的に運動する微粒子の集合体として解釈しました。
こうした視点は、近代の因果的決定論を先取りした形となりました。
このような因果的決定論を支持した学派の中には、ストア派が存在しました。
ストア派の思想家たちは、因果的決定論を支持する立場から、「決定論と自由意志」の問題に取り組みました。
この問題は、個体の自由意志が宇宙の法則や運命によって限定されてしまうというパラドックスを含んでいます。
ストア派はこの難問に対して自由論の立場から考察を行いました。
その中には、自由意志のあり方についての洞察を示す思想も存在しました。その一部を引用します
「犬が乗り物につながれている場合、ついて行こうと欲するならば、引かれもし、ついていってもおり、必然とともに自由を行使しているが、ついて行こうと欲しなくとも、どっちみちついて行くよう強いられるだろう。
かくて人間の場合も同じで、ついて行こうと欲しない人々は、いずれにせよ宿命(運命)づけられたところに入るように強いられるだろう(クリシュポス)」
この引用は、ストア派の思想家たちが自由意志と決定論の問題についてどのように考えていたのかを示しています。
その一方で、ストア派は「束縛は自由である」といった倒錯した結論には至りませんでした。
それでも、ここには自然の秩序に対する認識が明確に示されています。
つまり、人間は自然の秩序に逆らうことよりも、むしろ従うことを求められ、それが望ましい善であると考えられていました。
これらの観点から見ると、ストア派の思想は、自由意志と決定論の複雑な関係性を理解し、その中での個々の行動の意味を考察するための有用なフレームワークを提供しています。
この視点は、現代社会でも我々が直面する決定論と自由意志の問題についての考察に対して重要な示唆を与える可能性があります。」