嫌なことから逃げて良いのか考察
前回の投稿で
応援してくれる人だけを見て
自分にとって『批判』と感じる意見は
敢えてスルーしたと書いたけど
その点において
ずっとモヤりが続いているので
考察したい
今回は
コンサートまでの期間
自分が『嫌だな』と感じることに
時間とエネルギーを費やして
向き合う事をしなかった
その結果
私は自分のご機嫌な気分を保つことができて
ずっとご機嫌なエネルギーのまま
コンサート本番までを
走り切ることができ
結果的に
/
スルーして良かった
\
と思った
でも
今までの私だったら
その自分にとって
『厳しい』意見に対して
『きちんと』向き合って
そこの解決を何よりも最優先にしていたと思う
#問題は解決せねばならない
#みたいな
そして
疲弊しきって
本来やるべきことに
ポジティブなエネルギーを
注ぎきれなかったと思う
私にとって解決困難な問題(課題?)の多くには
『感情的』な部分が多く含まれていて
そもそも『劇場』をずっと開いていた私にとって
その『感情』は何よりも重要視すべきことだったのだけど
最近の私が思うのは
感情に重きを置き過ぎて
感情に振り回され続けると
本来やるべきことに到達できなくなる
今回も『嫌だな』と感じたのは
自分自身の
・分かって欲しい
・理解して欲しい
・応援して欲しい
という
相手を特別視し過ぎてしまっている故の
強すぎる感情で
先方からは
・言葉の意味をきちんと捉えていない
・言っていることが伝わらない
・素直に言葉のままに受け取らない
・扱いにくい
などのご指摘をいただいた
意思疎通のために
『言葉』は基本的なツールではあるけど
完璧でないし
絶対でもない
・そう言うつもりじゃない
・そういう意味じゃない
・真意を理解していない
・そんなこと言ってない
・ああ言ってたこう言ってた
そういうやり取りの中で
『真実』を見つけることは困難だし
時とともに変化する感情において
『真実』や『正解』はないと思う
そもそも
その時どんな感情だったかなんて
正確に記憶してないし笑
真実も正解もない世界を
ずっとずっと
そうじゃない
こうなんです
と時間とエネルギーを費やして
さらに不確実な言葉を
どんどん重ね続けていくことに
私はすっかり嫌気がさしてしまい
そこのフェーズをまるっと放棄した
この放棄したことに対して
ずっと自分の中で
『罪悪感』というかザワツキが残っている
罪悪感というのは
一般的に『こうするべき』と
考えられている事を
例え犯してでも自分がやりたいと
感じているから起きる感情なわけで
とどのつまり
私は
/
ぐちゃぐちゃ文句つける人は苦手
\
いやいや
そもそも
自分自身が相手に対して
いちゃもんをつけていたわけで笑
・理解してくれない
・応援してくれない
とかね
ここまで書いて思うのは
やはり
/
人は自分の鏡にしか過ぎない
\
理解されない
応援してもらえない
と思っているから
そういう人が目の前に現れて
そういう現実を引き起こすわけで
/
私は応援される人間
\
という許可出しを自分に
本気1,000%で出来ていれば
敢えて
自分のことを応援してくれない人に対して
わざわざ
・応援して欲しい!
・理解して欲しい!
とかお願いする必要なかった笑笑
・困難に向き合わなければならない
・批判的な意見に耳を傾けなければならない
そうじゃないと
・ダメ人間になる
・裸の王様になってしまう
そう思ってたけど
思い込みかもね笑
最終的に
みんなが笑顔で
喜びに溢れた結果を
導きだせれば
ゴールをそこにきちんと設定
できているのなら
・苦手な人
・嫌なこと
を回避するルートを通っても
良いんじゃないんでしょうかねぇ……
皆さん
どー思います?