採用面接を通じた小説新人賞への気づき
烏滸がましいことに、
新卒採用面接の面接官を、今週やってました。
正直辛かったです。
来る学生、来る学生、皆んな一生懸命で、
上手く立ち回る子も、
緊張しちゃう子も、
空回りしちゃってる子も、
みんな真っ直ぐな熱意があって、
叶うのなら全員次の選考にあげたい気持ちでした。
しかし勝負の世界、
合否はつけなくてはなりません。
簡単なチェック項目、
上のポチか下のポチ、
どちらかをクリックするかで
目の前の人間の人生の分岐、その判断を下す
そんな体験をしてきました
人を不採用にする
正直気持ちの良いものではありませんでした
しかし、
先程「辛かった」とボヤいた本質はそこではありません
人の合否を決める、
それは真に辛かった事象の副産物みたいなもので
地続きではあるものの震源ではなく
一生懸命戦う学生たち全員の熱意に共感しつつも
学生ごとの明確に優劣が見えてしまう現実こそが
この感情の根源でした。
それはなんとも残酷で、
優劣を判断している自分が何とも卑しく思い
何故こんな想いをしなくてはならないんだ、と
気が滅入りました
皆んな頑張ってるじゃないか
お前は何様なんだと己を非難する自分
一生懸命学生と向き合い
この学生が勝ち上がるべきだと、
明確な勝敗の線を引いてしまう自分
双方己の中にあり、壮絶な綱引きが行われる
そんな日々でした
と、愚痴はここまでにして
こんな一週間を経て気づいたこと、
それがタイトルで書いたことです
僕はこの一週間学生たちと向き合ってきた
そしてその勝敗を決めてきた
これってそのまま、
新人賞の小説と、選考委員の関係と置き換えられるではないか
そんな気づきでした。
つまり一週間かけて培ってきた
勝ち上がる学生と、
選考を終えてしまう学生の判断軸が
自分の書く小説に明確に落ちてくるのではないかと思ったのです。
僕の小説は、いうなれば、
選考を終えてしまった学生達に位置します。
一生懸命さは伝わるけど
他に勝ち上がる何かが足りない、
印象が薄い
明確な強みがない
成長の可能性に乏しい…等
面接の○×を付ける際に感じていたネガティブな要素が、
そのまま自分の小説にブーメランになって帰ってきました。
面接で落ちる小説の要素がそこなのであれば
勝ち上がる小説は、その逆じゃないか!と
ここまで書いてなんですけど、まだ言語化できてませんね…情けない
僭越ながら、初めて真剣に、選ぶ立場になり
初めての気づき
まだとっかかりって感じですが、
この感覚は時間と共に僕の中で、
大きくなり、定着していき、
成長へと繋がる。
そんな確信があります。