「日本の社会運動はなぜ老人ばかりなのか」を受けた私的メモ


 上記の記事を拝読して他人の視点からのこう思うという勝手な雑感を。そのため、論旨は明確ではなく、また勝手な思い付きなどがある。引用された檜田さんにはあるいは通知が行くことで怪文書を見せられて迷惑かもしれないが、言論の自由ということでお許しいただきたい。

 「まず、私は人々が政治的になるためには自分が社会の構成員であるという意識が不可欠だと思うということを前提に置きたい」

 この置かれた前提は妥当なように思う。個々人がある社会で政治的になるためには、その社会の構成員であるという意識がなければ、その社会に関与するための契機がないために、参加しようとしないだろう。むろん、これは一般的な場合を述べているのであって、例外的な個人は存在する。
 「自分の生活をはじめとした経済的な問題だけでなく、正義や公正の問題を自分事として認識するためには社会的ネットワークのなかに自分がいなければならない。そうでない人にとって、ニュースから流れてくる出来事は別の世界のものになってしまう。だから、日本の若者が冷淡になってしまったのではなく社会・経済の構造的問題によって人々の意識が変えられた結果だという話が私の回答になる。一文にまとめるなら『新自由主義によって中間団体や地域共同体が破壊されたことによって人々と社会の接点が失われアトム化してしまったから』ということだ」
 
 上記の私の言っていることをきれいにまとめている。ここで読んでいると、おそらく年齢ごとにこの新自由主義による中間団体や地域共同体が破壊されたこと(以下片方だけを取り上げても両方の意で解されたい)に対する影響が違うのだろう。つまり、中間団体の破壊によっても高齢者は既にそれらの団体に所属し、活動したことのある経験があるために、破壊されても高齢者が所属するような団体は存続し、あるいは高齢者はすでに今までの生活から社会との接点を持っており、アトム化を(部分的にであれ)避けることができているのかもしれない(しかし、高齢男性層に対するステロタイプ、賃金奴隷として定年まで働き、社会へのつながりがなく、定年後は家でテレビでも見て、配偶者にうっとおしがられるというイメージも自分の中にあるが、もともと二極化していたのかもしれない、あるいはこのステロタイプ事態の欺瞞性、通時的に社会参加の率等の観点から検討する必要があるかもしれないが、こことは直接関係はない)。人々の意識変容に経験の違いからくる世代ごとの差があるのだろう。若者は当初からそういった中間団体への参加経験がないために、とりわけ影響を受けやすいというのは直感的に理解しやすい話である。アトム化の男女差というのは気になるところである。というのも、上記のステロタイプ的信念を強化してしまう現象として見かけるのが、ボランティアグループというのだろうか、各種の集まりに参加するときに、女性を多く見かけるので(しかし、これは女性が一種のケア労働に動員されているからではないか?地域の運動会での豚汁づくり、主に女性がなぜ作る?)。いわゆる日本的労働モデルで地域の活動に女性が参加してきたという歴史的経緯もあるかもしれない。
 また長時間労働という原因。高齢者になればある程度の時間が得られるということもあるだろう。一例として平日8:30-17:30を労働に費やしていたらなかなか日中の活動には参加しにくい。ここには労働時間短縮ということが一種の社会運動に対する槓桿になることが示されている。

時間あってこそ人間は発達するのである。勝手にできる自由な時間のない人間、睡眠・食事・などによる単なる生理的な中断は別として全生涯を資本家のための労働によって奪われる人間は、牛馬よりも哀れなものである。(82頁)

カール・マルクス『賃金・価格および利潤』長谷部文雄訳 岩波書店 昭和10年

 そのため、現状の社会運動を発展させるためには、労働者に対する労働時間短縮運動を発展させる必要がある。同時に、高齢者の主たる生活費である(国民・厚生等)年金を充実させる運動がまた求められている。というのも、まずもって生活するのに低い水準であって、そのため年金を受給しながら労働しなければならないという痛ましい現状があるからである。これを実利的な言葉でも訴えることができるかもしれない。労働市場における労働力の需要を一定と仮定すれば、労働時間短縮でも、年金の充実でも、どちらも明らかに労働力の供給を下げることから、現役労働者の労賃を「理論上」は引き上げる意味を持つだろう。「理論上」は、というのはおそらく実際は労働強化や機械化などの「合理化」が資本の側からなされるため、かなりの程度労賃の上昇は妨げられるだろうからである。また、産業予備軍の存在。
機械化については以下の通り。

彼等(引用者注:イギリスの借地農業者すなわち地主から土地を借りて農業生産を営む人々)は、十一年間にあらゆる種類の機械を導入し、より科学的な方法を採用し、耕地の一部を牧場に転化し、農場の大きさしたがってまた生産の規模を増大し、これらおよびその他の方法で労働の生産力を増すことにより労働に対する需要を減少し、もって農業人口を再び相対的に過剰ならしめた。これこそは、古い開けた諸国で賃金の騰貴に対する資本の反動が早かれ遅かれ行われる一般的な方法である。リカードが正しく注意しているように、機械は絶えず労働と競争しているのであって、往々にしては労働の価格が一定の高度に達した場合に限って採用されうるのであるが、しかし機械の応用は、労働の生産諸力を増加させるための多くの一つに他ならない。(90頁)

カール・マルクス『賃金・価格および利潤』

機械化についての個人的経験の例:介護労働者
介護労働の問題の一つ、ケアそのもの以外の書類仕事。通常の労働時間中では直接介助するケア労働に従事するために、必然的に残業によって書類仕事、つまりケアに当たって、被介護者の状態を記録する必要があるのだが、それを処理する必要がある。現在は電子化されてタブレット等で記録できる「らしい」のだが、サービス残業が横行している私の職場では、隠れて記録を行っているために、残業代ということで労働力の価格を高騰させるという資本の側にコストを強いることがないために、電子化が導入されることはない。
 次に
 「もちろん、日本はほかの社会同様に強固な地域共同体を有していた(決してそれを肯定したいわけではないが)。さらに、高度経済成長期に都市化が進んだなかでも共同体は構築された。たとえば小熊英二の『日本社会のしくみ』では、お金を貯めて個人商店をもつ=一国一城の主になることが憧れとされ、日本は自営業主が非常に多い社会であったことが言われている。そうした自営業主はその町のコミュニティを作っていくうえで中心的な役割を果たしてきた。しかし、80年代以降は大規模商業施設の進出や国外製造業との競争によって自営業主の数は大きく減少し、代わりに非正規雇用の数がぐんぐんと増えていった。人々はその地域の人脈網のなかで働く人間から、日本のどこでも置き換え可能な賃金労働者になることを強いられた。こうして地域を基盤とした人々のつながりは失われた」
 
 地域共同体の歴史的経緯、五人組、隣組。
確かに行田では今でも(比較的)強固な地域共同体はみられる。都市部では何班という形で組織されるが、行田の某所では独自の名前を持つ。その地域はやはり行事への参加率は高い傾向にあるようだ。また、高齢者ほど参加率も高い傾向(あまりに高齢になると、身体面から参加率は低くなるが)。
 自営業者への憧れ:ご注文はうさぎですか? にみられる自営業者へのあこがれ?
主要登場人物の職業
ココア:アルバイト、学生労働者
ココアの母、姉:パン屋、自営業者
チノ、タカヒロ:カフェ・バー、自営業者
千夜、祖母、父親:茶屋、自営業者
シャロ:アルバイト、学生労働者
リゼ:アルバイト、学生労働者
シャロの両親:陶器職人、自営業者
千夜の母親:バイヤー、労働者?
リゼの父親:軍人、公務員?
青山ブルーマウンテン:小説家、自営業者(という分類でいいのか?)

この中で、リゼは父親のもとで生活費のためではない労働。
シャロは部分的に仕送りが親からきている。
作品の構成上、親の世代は自営業者が多い:自営業者だと時間の融通が利くため、描写がしやすい。
主人公たち高校生・中学生あたりは親の庇護のもとアルバイトをやっている。主な家計稼得者ではない。ココア・チノ・リゼにしても労働に相当程度の裁量が与えられている→賃労働ほど労働時間・形態に締め付けが強くない。
他の「きらら」作品との比較もしてみる必要性

 ともかく、自営業者の労働時間の柔軟性は都市部での地域共同体を構成するうえで重要な要素である。農村部では中農がそれにあたる。
 いずれにしても、都市部は大資本による自営業者の駆逐、農村部では資本主義的農業経営・外国の農産物の流入による離農によって安定した地域の共同体の担い手が減少していったということである。行田の例でみてみよう。

行田での農業人口の減少(R5統計ぎょうだ より)


令和2年は大幅に統計の対象が変更しているので、参考値

 統計が開始してから年々ほぼすべての数値で減少している傾向にあるのが見える。また、農業就業人口に注目すると、近年になって女性と男性の人数が逆転しているのが見える。

では、商業のほうはどうか。

 商業では、上記からわかるように、卸売り、小売りの合計で全盛期の半減以下になっている。内訳をみると、両方とも減少しているが、卸売りのほうは減少の幅が小さく、主に小売業のほうで商店数の減少が著しい。これを見ると、大まかに言って、農家も、自営業者も減少していき、賃労働者が増えているように見える。

 ただし、人口減少ということを加味すると、もっとも行田の人口が多かったのは平成12年である。

そのため、農業の統計のほうは平成12年、商業のほうは平成11年のほうを見ると、割合がわかる。
 農業のほうは一貫して減少しており、明らかに農業就業人口の割合が減少しているのが見える。この点では農業の崩壊というのは自明のように思える。
 では商業はどうか。これもまた、農業ほど明確な減少ではないが、全体では微減している。卸売のほうでは、統計上2番目に商店が多いが、小売りのほうでは減少の傾向に入っている。

 以上のように見ると、少なくとも行田では、安定した社会階層とみなされそうな農民・自営業者は減少していることが見える。正確に測っていないが、おそらくしっかりと数字をとれば、最新の年度でも農民・自営業者の対人口比は減少しているのではないか。余裕があるときに検証してみたい。

 さて、このような農民・自営業者の減少と賃労働者の増加によって、まず第一に各種地域共同体の活動に参加できる時間が減少する。前述したように、自営業や農業とは異なり、賃労働では労働者は資本の指揮下にあり、活動の自由度は減るからである。次に、賃労働者となることで地域共同体へ参画する効用が減少することである。地域の商店を営んでいる場合、地域共同体へ関わって顔を売ることは重要だろう。新たな顧客を獲得することにもつながるし、以前からの顧客のつなぎ止めにも必要である。また、これは実際に私が聞いた例である。地域の店があった。そこで行事などあると食事会や飲み会をやっていたのだが、ある行事の際に対して食べたり飲んだりしないのに、騒ぎやがる、と愚痴をどこかにこぼした。それが、地域の人の耳に入って、以後その店はその地域で使われることはなくなった。
 地域に属した小さい店ではこういったことがあり、地域にかかわってよい顔をしないと食い扶持が怪しいが、労働者となれば、労働力を投下すればとにかく賃金が手に入る。地域の人的資源に依存する割合が減るわけである。そうすると、(引用部で「決してそれを肯定したいわけではないが」とあるような)強固な地域共同体、それは往々にしてジェンダー不平等であり、抑圧的であるような共同体であるが、に個々人が参加する効用は著しく減少するといえる。
 農民についても同じである。農村の集まりに参加しなければ、機械化が進行する以前ならなおさら、農村を挙げての田植えやおそらく、最も重要な水管理から排除されれば飢えに直轄するだろう。

 「資本主義を追求し続けているアメリカがよい社会だとは決して思わないが、それでも最悪の社会でないのは強固な宗教コミュニティが資本主義の矛盾を緩和する互助組織として機能しているからだろう。しかし、そうした基盤を欠く日本社会において、新自由主義は文字通り社会を破壊するものだと彼と話していて思った。というか、彼の視点からすれば、私たちの社会はすでに「壊れている」のかもしれない」
 
 ここはとても興味深く、有名なパットナムの「孤独なボウリング 米国コミュニティの崩壊と再生」なんかで示されているイメージでは、アメリカもまたコミュニティの崩壊が見られそうだが、宗教コミュニティが現在も役割を果たしているのだろうかと思った。あるいはデュルケムの『自殺論』を読むべきかもしれない。

「私たち一人一人ががんばって、いまのパレスチナ問題などについて伝えていくことが必要だという話をいつもしてい(る)が、それで(だ)けではじり貧であるとも思っている。あらゆる政治運動は地域共同体や中間団体の再建と同時に行われなければならない。そういうわけで、私は学生行動連絡会を立ち上げ、パレスチナ連帯運動や学生自治再建運動を(もちろん新自由主義を終わらせることも)一体のものとしてやっていこうといろいろ試してみている。

 私の考え方が悲観的過ぎるように感じる人もいるかもしれないが、私がこれまでの活動で学んだことは、人になにかの社会運動について話して参加してもらうためにはその社会運動の重要性や意義を説くだけでは絶対にうまくいかないということだった。まず、社会や政治について話すことのできるコミュニティを作る。そこでひとりひとりの問題意識を聞き出し、そのひとが考えていることを社会の問題と接続する。そういうことなしに、社会運動を支える強固な基盤を作ることはできないと思う」

 断固としてこれらの試みを支援したいし、自らも立ち上がっていきたい。
ただ、注意したいのは、地域共同体や中間団体の再建というのは質的変異を伴う必要がある。あるいはもう少し日常的言語でいえば、ハラスメントなどの構造的抑圧をもたらさない団体に変えて、再建する必要がある。これは私の所属する団体に対する自己批判・相互批判も含んでいる。
 しかし、ここでさらに悲観的な見方をしてしまう。それは、地域共同体や中間団体の(現代的)再建は果たしてうまくいくのだろうか。
 なぜか?それは上記のように、地域共同体ではそれを担う経済的基盤が失われて賃労働者となっている。もしくは、労働組合は正規労働者同士の連帯を壊された。付け加えて言えば、労働組合は、すべてではないにしても、一種の商品になっているということがある(この点の示唆を与えてくださった方に感謝)。つまり、地域単位で多種多様な労働者が組織される地域ユニオンなどでは、自らが職場で働いているときに労働問題が起きると、その地域のユニオンに加入する。そして自らの問題が解決されると、脱退する。労働組合というのは、自分の問題を解決するための商品であり、組合費はそのための費用である、というわけだ。自らの問題が解決すれば後は野となれ山となれ、大洪水よわが亡き後に来たれだ。また、そこまでではなくとも、非正規労働者ではその低賃金からして組合費のコストが高いことで参加できないということが言える。
 どちらの例にしても、団体に加入・参加するための時間的コストと経済的コストを引き受けられる構造が破壊されていては、いざ再建しようとしても団体は思弁の曇り空の中にとどまる。労働組合はそういったコストを引き受けられる構造を再建する力を持っていたが、その労働組合がすでに壊されている。そういった堂々巡りになっているように思う。 はっきり言えば、大半の人は参加しない。こういった運動を少数の熱心な人々、今の労働組合の専従なんかはそういう人がいるが、そういった人々に負担をもたらしてしまうやり方は早晩機能不全を起こすように思う。というか起こしていると思う。
 ところで、今思い出すのは大学生の時に、1年の政治分析の議論である。それは、端的に言えば投票する意味は個人にはない、ということである。
つまりあなたの一票は意味がない、ということだ(政党の人間がこんな時《記述時は2024年10月26日、明日10月27日が衆議院選挙投開票日である》にこんなこと記述すべきではないとは思うが)。自身の属する小選挙区の結果を見てほしい。ほとんどの例である程度の差がついているだろう。そう、別にあなたが行こうが行くまいが選挙結果はほぼ変わらないのである。投票コストもただではない(交通費、交通・投票にかかる時間など)ので、行かないで家でのんびりするか、あるいは遊びに行くか、家事をするか。何かをしたほうが効用が高いのである。もっとも、たまに1票差で変わったりする選挙区もないではないが、それは一般的な例とはいいがたいだろう。少しまとまった言い方をすれば、投票から得られる便益は多くの場合、そのコストを下回る。そう考えると、むしろ半分も投票に行くことは驚異的であるといえるかもしれない。あるいは効用の最大化を目指す経済的合理的個人という近代経済学のモデルが現実に拡張される際の不適切さか。補足的であるが、この議論は県議会や知事選よりも市議会や市長選のほうが投票率が高いことを説明するように思う。なぜなら、相対的に1票の重みは県議会よりも市議会のほうが重いからだ。不思議なことに、国政選挙はそこまで関係がなく、割合高いのである。国政選挙ということで宣伝の影響もあると思われる。
 ここまで選挙の個人にとっての無意味さを述べてきたが、本当に言いたいことは、地域共同体や中間団体への参画、これは明らかにコストがかかる。その一方で入らないデメリットというのが今ではあまりない。労働組合の賃上げ要求で非組合員を排除するというのはあまり聞かない(し、実際にやると非組合員からの評判を悪くしてオルグをしにくくするので、しないし、していないだろう。ただ、正確には労働組合には労働協約という、非組合員には適用されないものはある)。自治会活動も、寡聞にして自治会未加入だからごみ捨てその他をさせないという例は聞かない。それだったら、参加しないで、得られるメリットを享受したほうがいいのは合理的といえる。
 そのため、上記の「私がこれまでの活動で学んだことは、人になにかの社会運動について話して参加してもらうためにはその社会運動の重要性や意義を説くだけでは絶対にうまくいかないということだった」というのは、理解できる話である(あまりにも経済主義的見方かもしれないが)。

 しかし、こういうからと言ってむろん筆者を批判したいのではなく、そういった問題を解決するためにいろんな試みはむしろなされるべきであるし、社会運動を支えられる強固な基盤の建設のために可能なことはすべきであると思う。私としても得られた経験を提供したいし、ほかの人からの経験を聞きたい。そうして、より豊かな団体の再建、社会運動の建設へ党派を超えて一緒に協力できる部分はしていきたい。私もまずは「社会や政治について話すことのできるコミュニティを作る。そこでひとりひとりの問題意識を聞き出し、そのひとが考えていることを社会の問題と接続」していきたいものである。


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