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事故から10年めの記憶

 4月16日は、大型旅客船セウォル号が沈没した事故から10年になる日だった。
韓国では各地で事故で犠牲になったそれぞれを思い起こす「記憶式」が開かれていて、その様子がニュースで何度も何度も、繰り返し映し出された。
 
事故のニュースは日本で見た。それまで住んでいたソウルから夫の転勤で東京に移り住んだばかりの頃だった。
 韓国にいる友人に連絡をとると、「やりきれない」と言ったまま、言葉は続かなかった。ニュースで見た映像はどれも信じられないものだった。
 
 事故から9日め、雑誌の取材で家族対策本部が設置された珍島の彭木港に入った。事故が起きたのは、彭木港から南西へ85km、観梅島沖の、島々に囲まれた韓国で2番目に潮の流れが速いといわれた場所だった。
 そのときのメモを繰ると、彭木港の空気がよみがえってくる。
 
 ソウルからKTX(新幹線)で木浦まで行き、そこからはタクシーで1時間ほど南に下った。港に着くと、僧侶の読経する声が聞こえてきた。カトリックやプロテスタント、仏教などの宗教団体や自治体が炊き出しをしている白いテントが連なっていて、その先、港の中央に家族対策本部が設置されていた。対策本部のテントの外には掲示板があり、捜索状況、死亡者数、行方不明者数が記された薄っぺらい紙が貼ってあった。
 
 家族たちはそこから車で30分ほど離れた体育館で寝泊まりしていた。体育館の入り口から見渡すと、ところどころ、布団や毛布が畳まれて小さな山になっているところがあった。通りすがりの人に訊くと、「遺体が引き揚げられて、確認した家族たちが帰って行った跡なんです」という。ボランティアでやって来た人だった。
 しばらく体育館の入り口で中を呆然と見ていた。中まで入ってく勇気がなかった。ようやく気を取り直して入り口近くに座っていた男性に声をかけると、乗務員の父親だった。
日本から来たというと、ぽつりぽつりと話をしてくれた。我先にと海に飛び込んで逃げ出した船長や航海士の様子が大きく報じられた頃で、乗務員は非難の対象になっていた。男性は、「乗務員はみな悪者になっているから、言い出せなくてね」、そんなことを息を吐き出すように言った。
 男性―ここでは李さんとしようー、李さんの息子さんはセウォル号にその半年前に就職し、団体客の管理やイベントを担当していたそうで、絶対に子供や乗客を助けたに違いないと信じていると話していた。軍隊も学校も終わって、ようやく就職して、安心していたのに‥、そう言いながら、こんなことをこぼした。
「事故の前の晩にね、息子からお金を振り込んでくれと妻の携帯にメッセージがあったんです。大金ではなかったのですが、いつもなら何に使うのかあれこれ問い詰めるのが、不思議と何か必要なんだろうなあって理由も訊かずに妻に振り込んでやれと言ったんです。今考えると、あれは三途の川を渡る六文銭だったのかもしれない‥。あれこれ問い詰めて振り込んでいなかったら、ずっと後悔するところだった」
  
 李さんの息子さんは、その後、国から「国家義士者」に認定された。最後まで乗客の救助に奔走していたと生き残った生徒が証言したのだ。
 
 セウォル号沈没事故で犠牲になったのは304人。そのなかで、修学旅行で済州島に向かっていた高校生が250人もいた。ソウル郊外にある安山市の檀園高校の二学年の生徒たちだった。
 
 珍島の彭木港を後にし、檀園高校を訪ねると、正門に続く坂道の下には、ジュースやお菓子、ピザ、ラーメンなどがでこぼこの土の上にずらりと並べられていた。それを見たとたん、ああ、まだこういう食べ物が好きな高校生だったのだ、そんな思いがこみ上げてきて、胸が締めつけられた。
 なぜ、助けられなかったのだろうか。
 
 事故から5年経った2019年、5周忌の記憶式に参加した檀園高校の生存者のひとりは失った友人らに向けて手紙を読み上げた。その中でこんな一文があった。
「あなたたちへの懐かしさは少しの罪悪感とも似ています」
 彼女は当時、救急救命士の道に進んでいたが、その後どうしているだろうか。
 
 李さんはその後、海に近い仁川に移り住んだ。
それぞれの巡り来る春が苦しいものだけではないことを。そんなことを思いながら、「追悼式」ではない、「記憶式」のニュースを見ていた。

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