鬼束ちひろ 『HYSTERIA』 レビュー
鬼束ちひろ 『HYSTERIA』 ★★★☆☆
オススメトラック
1. 「憂鬱な太陽 退屈な月」
3. 「焼ける川」☆
4. 「Dawn of my faith」
『HYSTERIA』 概要
”このアルバムはショッキングピンクだな”
2020年、鬼束ちひろはデビュー20周年を迎えた。そして11月25日、記念のアルバムとなる『HYSTERIA』がリリースされた。前作『シンドローム』から約3年空いてのリリースだった。
「HYSTERIA」とは病的な極度の興奮のこと。目の前が真っ白になるという表現があるが、むしろ鬼束ちひろの中では「目の前がショッキングピンクになる(※)」アルバムだったのではないか。たしかに、カラフルな楽曲が多い。モノクロのイメージの楽曲が多い鬼束ちひろだが、『HYSTERIA』収録の曲はカラフルだ。少なくともモノトーンのイメージは、ない。
楽曲は、すべてデビューアルバム『インソムニア』の頃に書かれたもの。アレンジを加えられた状態で、全10曲収録されている。
当時のままの箇所もあるが、歌詞については大幅な変更が加えれている。本人曰く「メッセージ性が強すぎて、今の私とは全然違う」からだ。
アルバム全体を通して「バンドサウンドが多いな」と感じた。カラフルに感じた原因かもしれない。
ドラムは吉田雄介(tricotのドラム)が叩いているのね。どうやらプロデューサーの兼松衆と「中学からの腐れ縁(※)」らしい。
最近、ライブアルバムの最高峰とも言える『Tiny Screams』ばかり聞いてたから、余計に印象に残っている。
鬼束ちひろ自身の声にも若干の変化が感じられる。『シンドローム』の頃よりも、こぶしの効いたパワフルな印象だ。どちらかというと『剣と楓』の頃のイメージが強いかもしれない。
『インソムニア』の頃に作られた楽曲だからとはいえ、さすがに『インソムニア』の完成度は超えられない。『インソムニア』をはじめとする、初期三部作はやはり別格。
とはいえ、「焼ける川」は一つの極みに達しているだろう。『インソムニア』の頃にすでに出来上がっていた楽曲だが、当時の鬼束ちひろでは、今回ほどの極みに達せていないように感じる。まさに、今の鬼束ちひろにしか表現できないトラックだ。
トラックごとのレビュー
1. 憂鬱な太陽 退屈な月 ★★★★☆
『HYSTERIA』のオープニングを飾るダークでミステリアスなロックナンバーで、9月に先行配信されていた。
暗い雰囲気を帯びつつも、キャッチーな歌メロがうまく混ざり合った鬼束ちひろらしいトラック。ストリングスの使いかたも心地よく、決して歌やバンドサウンドを邪魔せずに引き立たせている。
「八月」や「灼熱」など、夏をイメージさせる歌詞が目立つが、決して明るいニュアンスではない。夏の暑さによって、精神が犯されていくような暗い雰囲気を帯びている。
「鬼束ちひろ」のアルバムのオープニングトラックにふさわしい一曲。必聴。
2. フェアリーテイル ★★☆☆☆
グルービーでカントリーでジャジーなサウンドが印象的。いわゆる"ノレる"トラック。
ピアノの演出がにくい。ピアノが気持ちいい。実はこの曲だけ、鬼束ちひろを含めて、全員ピアノを引き立たせる立ち位置にいるのではないだろうか。
3. 焼ける川 ★★★★★
現在の鬼束ちひろの到達点とも言えるトラックで、『HYSTERIA』の核。
入り口は暗く狭い中、楽曲が進むにつれて、ゆっくりと深く底へ沈んでいく。イントロまでは二次元だった景色が、後半から三次元に移行していることに驚かされる。ストリングスのアレンジがドラマチックさを演出している所為かもしれない。先行リリースで聞いている人が多いと思うが、3曲目に「焼ける川」を置いたことにこそ、鬼束ちひろの天才性が垣間見えた。
DIR EN GREYの『UROBOROS』で「VINUSHKA」が2曲目に位置しているのと似ているかもしれない。『HYSTERIA』はまさにこの曲から幕を開けるのだろう。この曲を通り越したから、景色が広がるのだろう。しかし、そして残念ながら、「焼ける川」で幕は閉じる。始まりであり、核であり、クライマックスなのだ。
「焼ける川」を聞いた時、宇多田ヒカルの『Fantôme』のファイナルトラック「桜流し」と同じ景色が広がったのを感じた。「桜流し」は最後に位置するため、幕にふさわしいトラックなのだが、『Fantôme』の核ではない。「焼ける川」は『HYSTERIA』そのものなのだ。そこには感動も涙もない。ただ茫然とひろがる景色に、ひとりぼっち取り残されているのを享受するだけだ。
「貴方」と「私」が多い中、「焼ける川」は「僕」と「君」を用いられている。「向こう岸」にいる「君」は鬼束ちひろなのか、それとも死なのか、愛なのか、自分なのか。
4. Dawn of my faith ★★★★☆
『インソムニア』収録の「call」に雰囲気は似ている。タイトルの意味は「信仰の始まり」「信仰の夜明け」。
暗い中、一本だけ灯るろうそくのような暖かさを帯びているトラック。「焼ける川」で使い切った体力をそっと回復させてくれるような優しさを感じられる。
歌詞を見る感じ、おそらく鬼束ちひろからファンに向けられた曲だろう。「一緒に待つの たしかな夜明けを」という歌詞に、我々は背中を押されるわけでもなく、励まされるわけでもない。ただそこに鬼束ちひろがいてくれるという安心感だけが心にそっと灯るのだ。
5. swallow the ocean ★★☆☆☆
ピアノと鬼束ちひろの声がメインで構成された楽曲。こういう音数の少ない曲での鬼束ちひろの声は、神聖さがえげつないというか、もはや神聖さ=鬼束ちひろという感じ。
6. 蒼い春 ★★★☆☆
「焼ける川」から3曲続いた暗い雰囲気を、明るい雰囲気にもっていくアップテンポなトラック。ギターには君島大空が参加している。
鬼束ちひろ自身も気に入っているようだが、ギターが主役の曲。楽曲を引っ張ったり、支えたりしている。
歌詞については、例の如く鬼束ちひろに"降りてきている"。難解なのだけれど、「けっして分からないからこそ良い」ということを、鬼束ちひろが代弁してくれている気がする。
7. ネオンテトラの麻疹たち ★★★☆☆
サンシャイン水族館で、鬼束ちひろ自身が実際に見たネオンテトラが、恋が伝染する様子に見えたことから歌詞ができたらしい。
ポップな雰囲気で進んでいく中、歌詞は依然として悲しくてメランコリックな雰囲気を纏っているのが良い。アコギがいい味を出している。
8. UNCRIMINAL ★☆☆☆☆
ピアノと鬼束ちひろの声だけで魅せていくトラック。ホログラムの誘惑。
9. End of the world ★★☆☆☆
2019年に配信されたシングル。ベスト『REQUIEM AND SILENCE』にも収録されている。
歌詞は、「Dawn of my faith」同様、ファンに対して書かれたもの。「ふたりでなら きっといける」という言葉だけで救われる。
10. Boys Don’t Cry ★★★☆☆
「ジュエルとか好きだったからそういうイメージで(※)」作曲されたカントリー調の明るいラストトラック。いい意味で繊細な男の子に向けられた歌詞になっている。
だれにも見られずにひとりで泣いている男の子がイメージできる。鬼束ちひろは、そんな男の子のプライドを尊重して、そっと寄り添っている。
人前で泣いてはいけない、でも今は、泣かせてくれという繊細な男の子の心理を丁寧に描写していて、鬼束ちひろは本当は男の子なのではないかと疑ってしまう。
※引用した最高のインタビュー記事