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気づいてしまった「雪かき」という政策

ここでは、札幌市の雪かきの歴史を振り返ってみたい。そもそも、昔は今のように除雪車や排せつトラックなんてなかったはずである。どうやって街を管理していたのだろうか?

ここに札幌市建設局土木部雪対策室計画課が発行している『さっぽろ雪の絵本』というリーフレットがある。「みんなの声でつづる、雪対策ストーリー」と副題がある。札幌市が40年間耳を傾け続けてきた雪対策の内容と、これからの40年間すら語ろうとしてくるリアルな物語。

 このリーフレットを参照すると、札幌市への市民からの要望に「雪に関わること」がトップに躍り出るようになったのは、「市の除雪対策、整備が良くなったから」という皮肉な理由がありそうだ。

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 今から40年前、ということは昭和58年ころだ。札幌はすでに札幌オリンピックを成功させ、幹線道路が整備され400台の除雪車と各区に除雪ステーションが整備され昭和53年には生活道路の除雪も開始。

 近年話題に上がる「オリンピックの負の遺産」問題だが、少なくとも札幌市の雪かき行政は、オリンピックの正の遺産として引き継がれ、高いレベルの除雪サービスが一気に札幌市を200万人都市にまで引き上げたのだ。

 では、オリンピック前の札幌はどうだったのだろう?

北海道開発局札幌建設部のHPを参照すると以下のような流れになるようだ。

冬の北海道は雪のために経済活動が停滞することを是としていたようだ。馬橇で道路に積もった雪を圧雪し道をつけ、かんじきで歩いたり、スキーで通学していた。

その様子が一変したのは戦後。1946年、アメリカ進駐軍施設の除雪指令を受けた札幌市は進駐軍から機械を借りて初めて機械除雪に取り組んだ。その様子を見た市民の冬の交通に対する認識が変化していき、「除雪」という作業に予算を付けたのだ。

このころから、一部公官庁、輸送業者、工場経営者などが自発的に除雪に取り組むようになったそうだ。「雪が積もっていても除雪すればいい」…この気づきは大きな意識変革だっただろう。

その後1953年に初のトラック積み込み排雪、1958年ロータリー除雪車による排雪を導入し、1961年には市民参加型の「雪割り旬間」が展開され、ここでまたもや「なるほど、雪割りすれば溶けるのも早い」と認識が変化したのか、市民が自発的に行うようになったそうだ。

北海道民、札幌市民の意識は「雪だからしょうがない」から「みんなで対策!みんなで解決!」へとドラスティックに転換したことが伺える。予算がつくことで冬の間仕事が無かった建設業界に追い風が吹き、町が冬の間も活動し始める契機となったのだ。

以降、「雪対策」は札幌市民の大きな関心ごと、というステージを駆け上がり、40年間スポットを浴びることになったのだ。「雪対策」はそのまま、札幌発展の軌跡でもあるのだ。

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