化学療法までの話②

はじめに
 本来は、こちらから記すべきだったと思う。時系列が、明らかに違うからだ。絶対に読者を混乱させると思う。だが、あのときはどうしても先に、がんへの思いを書きたかったのだ。書きたいことを、書きたいときに書くのが、私のnoteの使い方だから、どうかご容赦願いたい。

二人目の妊娠と出産
 そもそも、私の絨毛がんライフへの道のりは、長男を妊娠・出産したことに端を発する。2022年の暮れに妊娠がわかり、そのままつわり期に突入。程度は一人目のとき同様だったけれど(吐かないけど吐きづわり、からの食べづわり)、イヤイヤ期に片足突っ込んだ2歳手前の一人目の育児が本当にしんどくて、夫も私も実家が近いのをいいことに、両親にも義両親にもおんぶに抱っこな日々を過ごした。期間も、一人目は教科書通り5ヶ月に入るとともに落ち着いたのに、二人目は8ヶ月くらいまで落ち着かず、食べ物を美味しく食べられるようになる頃には、お腹が大きくなってあまり食べられないような時期になってしまい、残念だった。
 そして、一番大きな出来事が、「前置胎盤」だった。前置胎盤は、赤ちゃんが産まれる際に通る子宮口を、赤ちゃんに母体栄養を届けるための組織・胎盤が覆ってしまっている状態のこと。前置胎盤のまま正期産を迎えるのは、胎盤が剥がれて大出血を起こす可能性を考えると大変危険で、正期産の時期に入るか否かのタイミングで帝王切開で産むのが一般的だ。ちなみに、子宮口を覆っていないけれど、正常よりも胎盤の位置が子宮口に近い状態を「低置胎盤」といって、対応はほぼ前置胎盤と同じである。
 前置胎盤は、子宮口をどれくらい覆っているかでレベルが変わるのだが、子宮口を全て塞いでしまうのが全前置胎盤、部分的に覆っていると部分前置胎盤、胎盤の端っこが子宮口にかかっているのが辺縁前置胎盤、と認識していれば間違いはないと思う。私は当初、一人目を産んだクリニックで辺縁前置胎盤と診断され、様子を見てもらっていた。部分・辺縁の場合と、低置の場合は、子宮が大きくなるにつれて胎盤も動いて上に上がっていく(子宮口から離れる)ことが多く、正期産を迎える頃には正常な位置に胎盤が落ち着くことがほとんどだと言われているが、私の場合は本当にギリギリでアウトだった。当時、クリニックの担当医は「経膣分娩もチャレンジできなくはないけれど、大出血リスクの対策は絶対にしておかなければならない」と、下から産む選択肢も残そうとしてくださっていた。とてもありがたかったけれど、命にかかわることはできる限り安全な方を取りたかったので、帝王切開を選択した。そのクリニックでは、リスクがあって事前に帝王切開になるとわかっている場合は、市内の基幹病院へ転院することになっているので、紹介状を書いてもらい、総合病院へ転院する運びとなった。
 さて、いざ帝王切開のため入院したのだが、私のサプリ申告漏れによりまさかの手術延期がかかったり、ようやく帝王切開に臨み、この産声を聞けて安心したのも束の間、出血多めで鉄剤処方されたものの、薬が合わず嘔吐したり、出産日の夜に息子が吐血、肺に異常も見つかりNICUに入院したりと、二人目の妊娠・出産は兎にも角にもイレギュラー続きだった。私も息子も、命に別条はなかったので本当に良かったと、そのときはただその一心だった。

大出血からの救急搬送
 お産を終え、実家や義実家の世話になりながら産褥期を過ごし、2週間検診、1ヶ月検診とそれなりに進んできたのだが、一点気になる点があった。悪露が、一向に治まらなかったのだ。
 悪露は、産後胎盤が剥がれて排出された後の傷から出た血や、子宮内のさまざまな不要物が子宮の収縮機能により排出されてきたものをいう。正常なら産後1ヶ月程で止まり、おりものへと切り替わっていくものなのだが、今回はずっと出血が続いていた。1ヶ月検診でも相談したが、延びる人もあるし様子を見ようということになった。そこは、私も納得したので、そのうち止まるやろ、と軽く考えていた、まさに数日後のこと。
 夫の定休日で、子どもたちが昼寝してくれたのでひと息ついたある日の昼過ぎだったと思う。ドロッ、と何か下から出たなという感覚があって、トイレで確認しようと便座に座ったが最後。血の塊がドボドボと出て、その後、鮮血が止まらなくなった。明らかにおかしいと、その当時何の知識もない私にも、何なら夫にもわかるくらいの異常さで、性器出血が起きた。
 そして、トイレから病院へ連絡するも、とにかく来院して採血をの一点張りで、いや動けないんだけど!とやきもき。夫のサポートもあり何とかリビングへ移動したが、そこで今までで最大量の出血が起きてしまい、足元に血溜まりができた。あっこれはあかんやつやと、とにかく病院へ行くため父に車を出してもらえるよう連絡、夫は子どもたちの面倒を見てもらうため諸々段取りを伝えていたが、次第に目が周り、息が切れ、座ってすらいられなくなってしまった。貧血症状が如実に出始めてしまっていた。
 父が来てくれた頃には吐き気もひどく、体を起こすのにも男二人の手を借りねばままならない状態、冷や汗をぼたぼた落としながら、両側を抱えられ父の車に向かって歩き、残り数メートルというところで、私は意識を失ったらしい。後日談では1分ほどだったらしいが、生まれて初めて気絶した。目を開けたまま後ろへ倒れ込み、動かなくなったらしい。気がついたとき、その場にしゃがみ込んでいる私を倒れないように支える父と、救急車要請の電話をしている夫の声を覚えている。そこがどこであるのか、私は何をしているのか、認識するのに数分かかった。その後は、救急車に乗せられ、その時点で最高血圧77、病院へ着いたときには異様に寒く、そこで最高血圧66まで下がり、足を上げて何とか血を頭に回すよう措置が取られた。後で調べて知ったことだが、ヒトは血圧が60を下回ると命に危険が及ぶらしい。あぶねえ!!!!!!!

「遺残胎盤」とのたたかい
 この後のことを、はっきりとは覚えていない。確か、外来後に主治医ではない先生に診察してもらったところ、「遺残胎盤」ではないかとのことだった。本来、出産時に全て剥離するはずの胎盤が、一部子宮内に残ってしまっている状態のことだ。胎盤は、母体から胎児に栄養を送るため血流が豊富で、その役目を終えてもなお、そこに胎盤がある限りは血液が集中してしまうらしい。とりあえず、止血を認めるまで1週間入院した。この時は、とくにこれといった処置をしていない。遺残胎盤の多くは子宮に吸収されていくらしく、様子見という選択が取られたからだ。
 結果として、この様子見という選択は良くなかった。私の場合は、残った胎盤が子宮に吸収されないまま2回目の大出血を迎えてしまったのだ。さすがに2回目なので、1回目よりも冷静に対処できた。子たちを任せてタクシーで一人、救急外来へ。そのまま、出血が治まっていないのでと緊急入院。そして、入院翌日に病室でまた大出血を起こし、緊急で手術をした。
 この時したのは「子宮動脈塞栓術(UAE)」という手術で、子宮に通っている太い血管を特殊なスポンジで塞ぎ、一時的に血流を抑制するという内容。右足の付け根の血管から、局所麻酔とカテーテルで行うもので、術後安静も含めて、まあ、もう、これがね、地獄でした。痛みと、右足の絶対固定のまま寝たきり生活を1日。食事も寝たまま、串に刺さったものを食べた。帝王切開の傷の痛みもまあまあきついけれど、あの寝たきり安静の辛さは、手術系の記憶としては過去一と言っていいかもしれない。
 そういえば、前回の救急搬送時におそらくリットル単位で出血したらしく、ヘモグロビン値6.9(正常値12)で重度貧血も同時に患うことになったのだが、鉄剤でどうにか回復しかけた貧血が、また進んでしまった。私は鉄剤との相性が悪く、合う鉄剤や飲み方を見つけるのになかなか苦労した。
 さて、この手術で無事子宮の血流を抑えたのだが、この後どうするかという話になった。さすがにこれ以上様子見はできないということで、提案された案は2つ。残った胎盤を掻き出す手術をするか、子宮を全摘出するか。私は、確実に血が止まるならと全摘を選択しようとしたのだが、あまりに即決する私を主治医が不安に思ったらしく、ちょっと決断までに時間があるから、気が変わったら教えてくださいと保留にされた。挙児希望もないし、生理なくなるしええやーん!くらいのポップな感じで思っていたが、確かに、これまでともに生きてきた臓器を喪うんだもんな…要不要ではなく、もっとちゃんと向き合わねば…と、夫とも真剣に話し合った結果、子宮を温存し、不要物のみ除去する方向で意見を変えた。主治医もそれがいいと思う、と安心した様子だった。
 そんなわけで、「子宮鏡下子宮内遺残物除去術(術名うろ覚え)」という手術を受けて、大出血の根源とオサラバすることができたのだった。この手術は、帝王切開同様に下半身麻酔で、背中の注射は何度やっても怖いし痛い。麻酔科医の先生が帝王切開のときと同じで、安心できたことはよかった。意識があったので、視力が悪すぎてはっきりとは見えなかったものの、子宮内の様子をモニターで見ることができて面白かった。痛みも、麻酔の注射のみで術中術後はほぼなく、以後は快適に過ごせた。

おわりに 所感
 これも、もう完全に結果論なのだが、このとき子宮全摘出を選択していれば、おそらく今の私はここにいないだろう。そう思うと少しだけ、直感を信じ切れなかった自分に悔いは残る。それでも、がんと向き合うことになって知ったことは、これからの人生においてとても大切なことばかりだし、今の私に必要なことだとも思うから、完全に後悔しているというわけでもない。周りにたくさんの心配や迷惑をかけてしまったことだけは、とても申し訳なく思っている。
 ちなみに、時系列は、1回目の大出血が産後1ヶ月、2回目がその2週間後、そして、この後癌が見つかるまでに1ヶ月強。……そう、産後、全く落ち着いて育児できていない。出血してからは、次いつまた出血するかと、安静を心がけながらの日々で上の子と満足に遊べず、二人目に至っては、私が抱いてるより両親や義両親の方が一緒にいるんじゃない?というくらいお世話になっていて、正直、すごく悲しかった。この頃は、一人目の経験を活かして、二人目にはこうしたい、ああしたい、とか、二人目が産まれたから上の子にはこう接したい、とか育児へのこだわりを強くもっていた時期で、親たちとは散々バトルした。今は、こだわりこそあれど、やはり世話になっている手前、諦めなければならないこともあるしと私が軟化したところ、不思議と親たちもこちらの言い分をのんでくれることも増え、お互いに、極力負担や不満のないサポート体制を組んでもらえていると思う。人間、そんなもんなんですよね。わかってるんだけどね…。
 取り留めのない話になってきたので、そろそろ締めようと思う。次は、がんが見つかったときの話になるかと思う。

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