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理想像

 日曜日の昼下り、窓から差し込む暖かい光を背中に浴びながら、僕は明里と秘密基地を作っていた。いつも体を動かす遊びばかりをしているのに、大人しく秘密基地作りなんて珍しいこともあるものだ。カッターを使うのはまだ危なっかしいから、切るのは僕が手伝うことにしたのだ。
「で、なんで急に秘密基地なの?」
「あたし好きな人ができたの。その人と住むお家が必要でしょ?」
何気ない問いに驚きの答えが飛び出してきた。なんでもない様子で答えた娘はまだ小学2年生で、先月7歳になったばかりだ。ついこの間までパパと結婚するって言ってくれてたのに、もうそんな歳になったのか。成長を寂しく感じたのは初めてだった。
「え、どんな人なの?しょうもない人だったらパパ許さないぞ?」
小2にこんなセリフを言うなんて、我ながら情けない。
「パパと違って痩せててイケメンで面白い人。」
キッチンで洗い物をしている紫穂が堪えきれずに笑うのが聞こえた。あらゆる方向から心にナイフが刺さっていくのを感じる。確かに自分でも最近太った自覚はあった。しかし、他の2つは努力じゃどうにもならないじゃないか、愛娘よ。とりあえず痩せようと柔らかく、腹についた贅肉より柔らかく誓った。
「そっか、うまくいくといいね。」
口では心にもないことを言いながら、頭の中で自分の初恋を思い出す。どうやら僕は女の子に対しての興味があまり強くなかったようで、初めての恋というのも周りと比べて随分遅かった。そのせいもあってか、今でも鮮明にあの言い表しようのない感覚を覚えている。あれは高校2年生、野球部の僕が毎日練習に励んでいた夏休みのことだった。


 練習がやっと終わった。砂と汗まみれでザラザラベタベタの肌は気持ち悪いけど、練習終わりの疲労感は何よりも生きてることを実感できて好きだ。それでも、夏休みの練習がこんなに長いのはお前がいつまでたっても顔出してるからだぞ。と、真っ赤な夕陽に文句をたれずにはいられなかった。筋トレとか走り込みとか無限にメニューがあるせいで夏の練習はとにかく長くて、終わる頃にはいつもヘトヘトだ。今日だって練習時間の半分は野球じゃないことをしてた気がする。野球部なのに。重たい体を引きずりながらグランドを慣らしてストレッチをして、監督のところに集まる。
「明日も9時半から始めるから、たくさん飯を食って早く寝ること。それと星野、夏休みの課題は終わってるだろうな?」
1日の終わりが見えてきてみんなが油断していたところで、隣に座る星野が突然指名された。
「えと、はい。終わってます。半分くらいは。」
なんとも罰が悪そうに星野が答える。これまで彼がロクに提出物を出してないことは、彼のことを知らない人の耳にも入るくらい有名な話だ。41個の坊主頭が並んで座る中で単独指名されたのはそのせいだろう。
「夏休みも残り1週間。お前たち高校生の本分は勉強なんだから、野球を言い訳に課題をやらないなんてことは許されないからな。」
「はい。」
「もし終わらなかったら提出できなかった課題の数×5周外周走らせるから、そのつもりで他の奴も死ぬ気で終わらせるように。以上、解散。」
毎年この時期に言われているであろう決まり文句に付け足された言葉は、今日のどの練習メニューより重かったに違いない。早めに手をつけて全部終わらせていた僕は、誰が外周になるかなとか考えてた。

「頼む米田!課題写させてくれ!このクソ暑いのに何周も走ってたら死んじゃうよ。どーせ全部終わってるんだろ?」
部室で着替えてると、星野が土下座で頼み込んできた。だらしない面がある一方で、こうやって素直に振る舞えるところがお調子者な彼の憎めない雰囲気につながっているのだと思う。貸すのは構わなかったけど、すぐに渡す気にはならなくて少し焦らすことにした。
「どうしようかな、貸しても僕にはいいことないし。」
それを聞いた星野は少し考えた後、立ち上がって悔しそうに自分の鞄から財布を取り出した。待て待て、さすがにお金なんてもらえない。僕がいらないよと断ろうとした瞬間、星野が財布から引っ張り出したのは何かチラシのようなものだった。
「いいか米田、これはマックで使えるありがたいクーポンだ。これと交換で、どうだ?」
唇を噛み締めて何かを堪えるような表情を見て、彼にとってこのクーポンはよっぽど大切なものなのだと感じた。そんなものを遊び半分でもらうことなんてできない。
「冗談だよ。別に何もいらない。課題は貸してやるよ。」
しかし、星野の方も何か思うところがあったのだろう、
「いや、これはほんの気持ちだから。受け取ってくれ。」
そう言って強引に僕の手にクーポン券を握らせた。そこまで言うならまぁいいか。財布にしまってありがとうと言った。
「で、どの課題を貸して欲しいの?」
「何言ってんだ、全部に決まってんだろ?」
着替えながら話を聞いていた人が全員「やっぱりな。」とつっこんだ。みんなあの星野が半分も終わらせていると聞いて不安だったに違いない。つっこみには喜びと安心が詰め込まれているようだった。練習終わりにこうやって部室でみんなとふざけてる時間が一番好きだ。もみくちゃにされる星野を見て思う。来年の今頃はもうこうしてないんだと想像して少し寂しくなった。

「お母さん急に友達と飲みに行くことになっちゃった。夕飯の支度できてないから適当になんか買って食べて。ごめんね。」
母からのLINEに気づいたのは、駅で携帯を開いた時だった。野球部の人たちはみんな僕が乗る電車とは反対の電車で登下校している。だから、僕は駅までみんなと帰るけどそこからは基本1人だった。電車の中で会話するのは周りの目が気になるから少し苦手で、黙って乗ってられる1人の方が気楽だからなんならラッキーだったと思う。さて、夕飯はどうしようか。やってきた電車に乗って考え始めた時に思い出したのが、さっきもらったクーポンだ。ちょうどいいからマックに寄って帰ろう。家の最寄駅の前にはマックがあるけど、そこで何かを買うのは久しぶりだ。小さい頃はハッピーセットが新しくなるたびにそれが欲しくて親に行きたいとせがんだけど、成長するにつれて別に欲しくなくなった。それに加えて、中学生になって部活を始めてからはセットメニュー1つで空腹を満たせなくなってしまったのがネックで、外食の選択肢からマックは消えていったのだった。でも、僕はマックのポテトが大好きだ。小さいのがかりっとあげられてるのも、長いのが少しふやけてシナっとなってるのもどっちもたまらない。考えているとどんどん楽しみになった。明日もう1度星野にお礼を言おう。クーポンのラインナップを見て、今日はとりあえずビッグマックセットに決めた。
 
 自動ドアが開くと、ポテトが揚がったことを伝えるあのチープな音が聞こえた。店内に満ちる匂いだけでお腹が鳴りそうだ。レジ前に立って店員さんが来るのを待ちながら、カウンターのメニュー表を見て次は何を頼もうかなとか考えてウキウキしてた。
「申し訳ありません、お待たせしました。いらっしゃいませ。ご注文は何に致しますか?」
声をかけられて顔を上げた時、僕は驚いた。そこに立っていた女の店員さんは完璧だった。そう表現する以外になんて言ったらいいかわからないくらいあまりにも完璧だった。肩まで下ろした真っ直ぐな黒髪に背筋が伸びた綺麗な立ち姿。そして、彼女が纏う知的で落ち着いた雰囲気。全てが理想とぴったり一致している。僕は動揺が表に出ないようにできるだけ落ち着いて注文しようとした。
「えと、ビッグマックセットを1つ。クーポンでお願いします。」
「わかりました。ドリンクはどうなさいますか?」
全然考えてなかった。頭が真っ白になる。適当に選ぼうとしたけど久しぶりすぎてドリンクメニューが見つからず、背中が湿るのを感じた。
「あ、この中から選べますよ。」
見兼ねた完璧な店員さんが指差して教えてくれた。白くてスラっとした指にまたドキッとしてしまう。それとは対照的に、僕の顔は真っ赤だったと思う。いや、もしかしたら日に焼けて黒いおかげで赤くは見えなかったかもしれない。でも、とにかくすごく恥ずかしかった。
「ありがとうございます。アイスティーでお願いします。」
「わかりました。あ、申し訳ありません。このクーポンの期限は先月までのようです。」
星野!ふざけんな!思いつく限りの罵倒する言葉を奴に投げつけた。知ってて押し付けやがったな。渡す前の奴の行動を思い返してそう思った。もう全部投げ出して逃げ出したい。
「あ、すみません。そしたらクーポンは無しで大丈夫です。」
すると、完璧な店員さんはちょっと悩むような顔をして、チラッと後ろを確認した後、
「今回は特別サービスです。内緒ですよ。」
小声でそう言ってクーポン価格と同じ金額だけ僕から受け取った。優しさが眩しすぎて僕はもはや言葉を発せなかった。店内で食べるか持ち帰るかと言う質問に辛うじて持ち帰りでと答えて袋に入ったビッグマックセットを受け取った。その時胸にある名札を見て、その人が上島という名前だと知った。

 家に帰ってビッグマックセットを食べてても、どうしても落ち着かなかった。楽しみだったはずのポテトは別にただのジャガイモだった。とにかく頭の中では上島さんのことばかり考えていた。こんな風に1人の人が頭の大部分を占めるのは初めてのことで、僕はどうしたらいいかわからない。風呂に入っても布団に入っても、気づくと上島さんとのやりとりを思い返してしまう。一目惚れなんて、どうしようもない軽い人達がその場の口説き文句で使うために出来た言葉だと思ってたけど、悔しいことに今の自分を説明する言葉はそれしか思いつかない。17年間宙ぶらりんだった初恋は、たまたま寄ったマックでたまたま出会った上島さんに当然のように奪われたのだった。

 次の日、やっぱり暑い青空の下で僕は上の空のままだった。バットを振っていてもノックを受けていても、ふとした瞬間にぼーっとしてしまいミスを連発した。夏休みが終わればすぐに秋の大会があるっていうのに、こんなんじゃダメだ。必死に集中しようとしても、上島さんを振り払うことはできなかった。午前の練習が終わってベンチで半分溶けながら弁当を食べていると、部長の森野が話しかけてきた。
「どしたの米田。今日なんか元気なくね?」
野球が上手いのはもちろん、森野は本当によく人を見ている。部員の投票で決める部長が満場一致で彼になったのも、それが大きな要因の一つだろう。その上でこうやって細かい気遣いができるんだから、彼が好かれないはずはなかった。森野に彼女がいなかった時期を僕は知らない。
「なんでもないよ。いや、そうでもないな。僕一目惚れしたっぽいんだよ。」
「なんだと?相手誰だよ?」
星野が飛んできてはしゃいだ。うるさい。僕はまだ貴様を許してない。課題は持ってきてあげたけど。星野を軽く睨んだ。気づくと他の部員も面白そうにこっちを見ている。相手は昨日行ったマックの店員だと森野に説明した。
「へー、米田にもそういう感情あったのか。話はいくらでも聞くから秋大までは野球に集中な。」
そう言って、森野は午後の練習メニューを聞きに監督が休んでる教官室の方へ走って行った。どうしたらこんな人になれるんだろう。芸能人だと誰に似てるんだとかはしゃぎ続ける星野を無視して、どんどん離れて小さくなる森野の背中を眺めていた。

 午後の練習も集中できないままあっという間に終わった。1日練習したはずなのに、今日は全然疲れていない。このままじゃだめだ。どうにかしなければと悩みに悩んで思いついたのは、とりあえず今日もマックに行ってみることだけだった。もう一度見たら昨日ほど完璧じゃないかもしれない。きっとそうだ。昨日の僕はどこかおかしかったに決まってる。そう思いながらも、普段よりたくさんの制汗シートで念入りに体を拭いて、坊主頭を水道でよく洗って、手の爪に砂が入っていないか確かめていた。大好きな部室でのダラダラもそこそこに、いつもより早く1人で帰ろうとする。
「お、米田君は噂のマックに行くんですか?」
星野が絡んできた。お前はなんてうるさいやつなんだ。僕は少しイライラした。
「今日はちょっと用事があるんだよ。あんまりうるさいと課題貸さないぞ。」
口ではそう言ったけど課題一式は重たくて、このまま持ち帰りたくなかったから、「それだけは勘弁してくれよぉ。」とまた土下座する星野の背中にドッサリ乗せて部室を出た。

 お馴染みのチープな音に迎え入れられ、1日ぶりのマックに入る。昨日は誰も並んでなかったのに今日は混んでてレジ前は人でいっぱいだった。残念ながら誰がレジ打ちをしているかは見えない。上島さんがいないなら寄る意味もないけど、とりあえず列に加わった。昨日と違って夕飯が用意されてるから、今日は店でナゲットだけ食べて帰ることにする。列が進むと、聞こえてきた声でレジを打ってるのは男の人だと分かった。残念だけどどこかホッとしたような、何とも不思議な気持ちになる。昨日の醜態が嘘みたいにスラスラ注文できた。こんな風にスマートに注文できてたら上島さんも気を使わなくて済んだだろう。何ならこの特徴的な頭のおかげで記憶の片隅に残れたかもしれない。レジの近くのカウンター席を選んで、何のために買ったかも分からないナゲットを食べる。ただの客が店員とプライベートで近付く方法なんてあるんだろうか。もしあったとして、突然近づいてくるようなチャラい人を上島さんはどう思うのだろう。考えていると、だんだん自分が恥ずかしくなってきた。まるでストーカーみたいだな。最悪の答えが頭に浮かんだ時、昨日から何度も頭で再生した声が聞こえた。レジの方を見るとやはり上島さんがいる。期待通りと言うべきか、昨日と寸分変わらずやはり完璧だった。途端に鼓動が早まる。彼女から目が離せない。せっかく丁寧に拭いてきたのにまた背中がジワジワ湿り始める。ここにいたところで何が起きるわけでもない。頭では理解してるはずなのに、どうしても彼女を見ていたかった。このまま店にいると僕の視線に上島さんが気づいてしまうかもしれない。さっき出たばかりの答えを急に思い出して、大急ぎで残りのナゲットを口に放り込んで店を出た。それから数日、僕は今日と同じことを繰り返した。ただ店に行く分にはストーカーだなんて思われないだろう。そう自分に言い聞かせながら僕は毎日マックに寄った。上島さんは必ずいた。正面にレジが見える席に座り、本を読むフリをしながら彼女を眺めるのが僕にとっての最大の楽しみになった。彼女は普段何をしている人なんだろう。外見からすると二十歳くらいだろうから、多分大学生だと思う。メリハリのついた綺麗な字でお手本みたいなノートを作るような人じゃないかな。野球に興味なんてなさそうだ。応援に来てくれたらホームランでもなんでも打つのに。眺めながら色んなことを考えた。考えれば考えるほど、彼女は理想に近づいていった。ただ、彼女が大学の授業を受ける姿は想像できても、僕の隣を歩く姿は想像できなかった。

 そんな調子のまま、あっという間に8月31日を迎えた。練習着に着替えてグランドに出ると、先に来てた人たちのテンションがやけに高い。近くにいた星野に理由を聞くと、無言で午前の練習メニューの前に連れて行かれた。なるほど、これはテンションも上がるはずだ。メニューの最後に、いつもだったら書かれてないグランド整備が書かれている。今日の練習は半日で終わりってことだ。
「監督が急に会議入っちゃったらしくて、お前らどうせ課題終わってないだろうしちょうどいいだろって。」
森野が説明してくれた。1日練習のための弁当を朝から作ってくれた母には申し訳ないけど、これはなかなか嬉しいことだった。自分もテンションが上がるのを感じたけど、「これなら課題もなんとかなるぜ!」と小躍りする星野を見てたら落ち着いた。半日の練習は想像以上に楽で、なんなら物足りなさまで感じた。いつもより汚れてない練習着も消化不良を訴えてるようだ。それでも、体力と時間が余っている状況は今後もそうないと思って、午後はポテトでも食べながらこの前録画したトトロを見てのんびりすることにした。

 久しぶりに乗った昼の電車は、ただ明るいだけじゃなくて雰囲気まで軽いような気がした。朝のような憂鬱も夕方のような疲労感も一切ない、柔らかくて居心地がいい空間だった。シートの真ん中に躊躇なく座れるのも、この時間の特権だろう。いつもこうだったらいいのにと思いながら向かいの窓越しに流れる景色を目で追っていると、次の駅で乗ってきた女の人が僕の正面に座った。最初は大して気に留めてなかったけど、よくよく見ればそれは上島さんだった。すぐに気付けなかったのは、目の前にいる上島さんが完璧じゃなかったからだ。変な服を着ていたとか、座る態度が悪かったとかそういうのじゃない。彼氏を連れていたわけでもない。なのに、目の前でイヤホンをして携帯を操作する彼女からマックにいる時の魅力を全く感じられない。僕は焦った。あんなに好きだったはずなのに、気持ちがとてつもない速さで萎んでいく。電車を降りる頃には、この1週間が嘘みたいに僕は彼女がどうでも良くなっていた。改札を出てこれから完璧になるであろう上島さんの背中を茫然と眺めた後、僕はマックに寄らずにまっすぐ帰った。それ以来、あのマックには行っていない。通りすがりにふと店内を覗けばやっぱり完璧な上島さんが見えることはあったけど、何故か前みたいに惹かれることはなかった。


 正直、あれを恋というのかどうかも今となってはなんとも言えない。ただ、それをきっかけに少しずつ周りの女の子と自分から接するようになったのは事実だ。そう考えると、あの時マックに行かなければ家庭を持つこともなかったかも知れないとも言えて、少し悔しいけど星野には感謝するべきなのかも知れないとも思う。
「よっしゃ、ママもまーぜて。」
洗い物を終えた紫穂が明里のそばに座った。明里が嬉しそうに頷き、すぐにどんな秘密基地にするのか話し合い始める。きっとこれ以上の幸せはない。2人が楽しそうに笑う姿を見て思う。
「何ぼーっとしてんの、早く切ってよー。」
「パパ早くー。」
「ごめんごめん、ちょっと待ってよ。」
なんでもないような家族の一瞬が、こんなにも暖かい。紫穂は決して完璧ではなかったけれど、素直でよく笑う彼女が作る柔らかい雰囲気が僕は好きだったし、そんな彼女に何度も助けられてきた。この幸せな一瞬も、彼女じゃなければ作れないだろう。紫穂がいない今後を僕は想像したくない。いつからだろう、気づいた時には僕の理想は紫穂との生活になっていた。

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