見出し画像

ヒトシハアジアノパピヨン

幼少の頃、松本人志氏の著書である『遺書』ならびに『松本』に触れたこと、また、氏が出演するテレビ番組『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』を初めて視聴した際に脳内に炸裂するかのごとき衝撃を受けたことは、今なお鮮烈な記憶として私の意識に刻み込まれております。この感覚は、以後、私の心中に深く定着し続け、現在に至るまでその存在を維持してきたものと自認しておりましたが、昨日あるいは本日、ついに消滅した可能性が高いと推測するに至った次第でございます。

松本人志氏にかかる一連の性加害疑惑に関しては、当該氏の側からの訴訟取り下げおよび相手方への謝罪という形で暫定的に幕引きが図られたものと理解しております。しかしながら、かつての私であれば、このような状況の下、テレビにて再びダウンタウンの娯楽的内容を享受することが可能となったことに歓喜し、安堵の意を抱いていたであろうと推察されるものの、現時点における私の心情は到底そのような状況には至り得ず、むしろ視聴に対して躊躇を覚える次第であります。

このため、上記の複雑な感情の発生要因を文字に表現し、これをもって自己の内面を整理し、明瞭化することが望ましいと考えるに至った所存であります。

1.なぜ松本人志氏は「かっこいい」のか

松本人志氏が有するカリスマ性の核心を成すものは、端的に言えば「反逆性」にあり、いわば「パンク精神」を体現するものに他なりません。この「反逆性」とは、すなわち社会の既成概念を超越し、タブーとされる言動をも辞さず発すること、さらにその「言ってはならないこと」を躊躇なく公然と述べる態度を意味します。かつて、ビートたけし氏が象徴したように、松本人志氏もまた、視聴者が日常的に安住する「平和なお茶の間」に敢えて「毒」を注入するかの如き振る舞いにより、独特の地位を築いてきたと言えるでしょう。

また、氏が発する支離滅裂にも見える数々の発言は、あたかも「当然」の如く語られることで、その背後にある緻密かつ高速に回転する思考力と、ある種の大胆不敵さを感じさせます。これらの要素が結びつき、松本人志氏を一個の存在として表象する上で決して無視し得ない要因として機能しているのです。

このような「反逆性」や「挑戦的な態度」は、かつてイギリスの若者たちが抱えた閉塞感に対して行使されたパンクロックのように、日本社会においても時折求められる「破壊的創造」として、特に笑いの分野において表出します。日本の笑い文化には、時代の閉塞状況に抗するかの如く出現する「反骨の芸人」が存在し、松本人志氏もまたその系譜を引く者であり、日本の笑い文化における「反逆の象徴」として位置づけられるものであると考えられるのではないでしょうか。

2.パンクがやってはいけなかったこと

パンクである松本人志がやってはいけなかったこと、それは「ダサい」事に他なりません。

避けるべき「ダサさ」とは、単に外見やスタイルの問題にとどまらず、内面的な反骨精神の衰退を指すものであります。この「ダサさ」とは、反骨の精神が形式的なものへと堕し、自己の核心である独自性や挑戦的な姿勢が失われることに起因し、その結果、パンクスとしての本質的な価値が損なわれることとなります。

パンクという概念の核心には、他者の価値観や社会的常識に屈することなく、自己の信念に基づき独立した態度を貫くことが求められます。そのため、パンクスターが「ダサくなる」ことは、自己の反骨精神を放棄し、安易な妥協を選択したり、社会的期待に迎合する姿勢を取ることを意味します。このような行為は、パンクスターとしてのアイデンティティを損ない、結果的にその存在価値を失わせる事態を招くこととなります。

さらに、最も重要なのは、自己の理念に対して忠実であり続けることであり、外部からの圧力や誘惑に屈することなく、自己の信念を守り抜く姿勢が求められます。もし、自己の信念に反する行動を取るならば、それは単なる自己否定にとどまらず、「ダサさ」を体現することとなり、その結果として松本人志氏の偶像的な存在が危うくなります。

したがって、パンクスである松本人志氏がその本質を保ち続けるためには、自己に対する誠実さを欠かしてはならず、自己の理念や反骨精神に対して一貫して誠実であることが不可欠であります。これにより、スターとしての真髄を維持し、社会的妥協に屈することなく、自己を貫き通すことが、その存在を守るための最も重要な要件であるといえます。

しかし、彼は今回の性被害疑惑において、簡潔に言えば「体制」側に転落してしまったと言えるでしょう。

3.サヨナラの代わりに

面白いことが正しく面白くないものは間違っている。人々を笑わせることができれば、その結果として幸福が得られるとし、逆にそのような成果が得られなければ不幸せであるとする考え方を、私はこれまでの人生において信念として持ち続けてきました。この信念の基盤には、先に述べた通り、ダウンタウンの松本人志氏が創造した一種の法則性が存在しているのだと思われます。その法則において、唯一の前提条件があったとすれば、それは松本人志氏が常に「かっこよくあり続けること」であったと言えるでしょう。

さて、もし「面白いことが正しく面白くないものは間違っている」という前提が成り立つのであれば、私は今、松本人志氏が創り上げた面白さの枠組みから外れ、あるいはそれを超えてしまった松本人志氏自身に対して、どのような表情で、あるいはどのような感情で笑うべきなのでしょうか。決して「二度と見たくない」だとか「嫌いだ」といった感情を抱くつもりはありませんが、私の中において、あなたという存在は、恐らく今日をもって終わりを迎えたのかもしれません。今まで数多くの笑いを提供していただき、心から感謝しています。どうか今後もお元気でお過ごしください。