非常にめんどくさいオタクと『藍の華』ライブの話

 昨年の今頃はちょうど例の奴が話題になり始めて、田中音楽堂ライブをやるのかやらないのか、そういったことが気になりだした時期だったような気がします。結局田中音楽堂ライブ自体は開催されて、そこで発表があった藍の華全国ツアー、現地でそれを聞いて喜び半分「本当に開催できるのか?」という気持ちが半分の微妙な気持ちになったのは明確に覚えています。それからさほど長くない時間が経ち、中止が発表された時も案の定か、となる部分も少なくなかったですね。

 さて、そんな中で「巻きなおそう、時間を」と掲げて開催された今回のライブ、私は現地に行ける可能性に賭けて結構ギリギリまで配信チケットを買っていなかったのですがこれもまた無観客開催となり、私は遠距離観客(?)としてこのライブを見ることになりました。(でも開催できたこと自体がすごく良かった)
 本当にこれに関しては田中工務店がすごいと素直に褒める部分(褒める部分以外はないです)ですが、AR?を使ったコメントの演出がめちゃくちゃ良かったですね。どうしてもVtuberにステレオタイプな近未来を求めてしまうカビ生えオタクとしては現地にいる人々の感情が言葉の形で浮き上がっているように感じられて感動しました。何よりも自分がライブに当事者として参加している感じがあったのが良かったですね。ああいうの、普通のライブにも取り込めたらすごく良くないですか?私はすごく良いと思います。

 続いて何の話をしましょうか、セットリストの話でもしますか。

 これ藍の華のアルバムの方を通しで聞いた私の初見の時の感想なんですが、これがきっちり当たっていてびっくりしましたね。というか通しで聞けばたぶん誰でもこういう感じになるので、まあ、なんというか、通しで聞いてくれ。これに新曲、カバーが入って、そう、カバー、『夜に駆ける』あったんですよ、これもまたすごく良かった。歌いだした瞬間に口をついて「天才!」と叫んでしまいましたね、現地じゃなくてよかったかもしれん。
 ソロ曲は想像を絶するふざけ方でお出しされてビビりました。新聞紙ってなんやん。

 そして藍の華アルバムの収録曲はリリースから一年が経とうとしてることもあり、そのすべてがもはや新曲とは言えないもののわけで、私もそれぞれの曲を結構な回数聞いているものでだいたい耳慣れてはきているものでした。しかし、それに対して為される語りによる(再)解釈が良かったです。琥珀とか溺れるほど愛した花とか特にそうでしたね。琥珀は1stでもやってた曲ですし。琥珀の身体はなぜ生まれるのかからなぜ続き、終わるのかに語りが完全に変化していて、これはヒメヒナの物語でもありますし、もっと一般的な死生観の話としても読めそうな感じがしますね。溺れるほど愛した花の語りはよくわかってないですが、夢、夢かあといった感じでした。(夢や目標に対してそれを腐す語彙しか持っていなくて絶望しています)
 アダムとマダム、MyDearはパフォーマンス自体が初(たぶん)なもので、やっぱりMyDearはめちゃくちゃ感動するしアダムとマダムはシメサバが酢昆布で盛り上がりましたね。
 新曲も良かったですね、もう良かったしか言葉が出ないんですけどゴゴさんのアンケートで微妙に予告されるあの感じもワクワク感ありました。

 これは完全に余談ですが、今回のライブは1stライブや藍の華アルバムありきの内容、それを踏まえた内容となっていて(だから前日に履修会をする必要があったんですね)、思えば遠くまできたもんだよな(夢景色)、と謎の後方腕組みオタクになりました。

 ところで、このシリーズではVtuber存在について思ったことのお気持ちを表明することが恒例のメインコンテンツなのですが、今日のライブを見ていてなんかそういうのどうでもよくなっちゃったかもしれないな、という感じです。
 今まで私はヒメヒナの曲(特にヒトガタ)のメッセージを『Vtuberは「心」を持つ「人形ではないもの」だ』というところにポイントがあるものだと受取り、それをもとにいろいろと考えてきたわけですが、このメッセージは今となってはあまりにも陳腐に感じられる、そう思いました。実際にこのメッセージが必要だったのはVtuberが完全にお人形扱いされて「Vtuberにはスキャンダルがない、炎上しない」なんてことが言われていた(この言説は当時ですら間違っていた)時代の話であって、今の日常的に炎上し続けているにぎやかVtuber界隈にはこれは必要ない、むしろ当たり前の前提になっているんじゃないでしょうか。(この「炎上するVtuber」は前に歴史の嫌な偶然でそうなった的な言い方をしていた気がしますがこう考えると我々が目指していた一つの当たり前に到達したとも取れますね)

 『Vtuberは「心」を持つ「人形ではないもの」だ』というメッセージをもとにごちゃごちゃ考えた私の一つの結論が『Vtuberはそれを作る作り手の間にのみ存在する』ということなのですが、これを、Vtuber→人間に書き換えても同じことが言えると思ったんですよね。前者は当然のこと(ただヒメヒナは「心」を「誰かの中に存在すること」みたいに言うんですよね、これがまたすごく良い)としてとれる話で、後者は我々の日常に目を向ければなんとなくわかる話じゃないでしょうか。我々は基本的に誰かの間に生まれ、誰かの影響を受けて今を生きています。アバターがあんまりいじれなくても、選べる人生の幅が狭くても、『誰かの間に存在し、自分を含む複数の人間によって作られている』その点はVtuberと変わりありません。(学問で間主観性とか間主体性とか言うやつです、たぶん、知らんけど)
 これを考えた時にVtuberという『人間』から『人間』に対する存在・生死の問いかけ、アイデアとしてヒメヒナを再解釈する可能性がある気がするなということを考えました。(ここではやりません)

 そういえば新衣装かっこよかったですね。ダンスに対して大きく動く衣装は映えるなあ、などのことを思いました。
 あと実はちゃんと声を出せる環境を確保できなくてボイス送り損なったんですよね、ライブで流れたあのボイスの中に自分がいない、というのはやや悔しかったです。

 という、以上でライブ当日の感想でした。


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