星井美希をVtuberと呼べないオタクの鳴き声
この文章を書いた人間はVtuber関係者ではありませんし、何かを確認して書いたわけではないので以下の内容には偏見や事実誤認等が含まれることがあります。あらかじめご了承ください。
星井美希の配信を見て狂気に陥った人間が書いた文章ですが一部は一週間ぐらいたって熱が冷めてきてから書いたのでそういう感じで読んでください。Vtuberはなんであるか、中の人にまつわる諸トラブルの話です。
・Vtuber中の人問題
以下では、Vtuberと中の人(魂)との関係という観点から考察を行っていきます。結論から言うと、現在のVtuberは単純な「キャラクター」ではないといったことです。
初期においてVtuberとは「対話できるキャラクター」(ちょうど星井美希のように)として捉えられることがありました。こう考えた時の中の人はVtuberとは完全に切り離しが可能であり、演じる中の人、演じられるVtuberという関係が成り立ちます。しかし実際にこう考えた時には既に問題が発生していました。システム的には、中の人が誰かが公開されないようになっていたこと(これはVtuberの初期から問題として指摘されることがありました)、認識的には、当時から「Vtuberにとって、中の人の性格や人格といったものがコンテンツを支える根幹になっている」という認識が広がっていたことです。つまり、Vtuberと中の人を同一視ないしかなりの重なりを持っているとすることが暗黙の了解となっていました。これを前提とすると、Vtuberが「キャラクター」であると言い切ることが問題となって現れてきます。その帰結の一つがアズマリムであり、ゲーム部であったと私は考えています。「キャラクター」であるからには中の人は変更可能であり、むしろそれが必要だと考える企業側と、すでにVtuberと中の人は切り離し不可能だと考える中の人や視聴者の認識的な対立がそこで一つの争点となりました。その結果、ゲーム部の運営会社であるUnlimitedによって生み出されたのがCtuber(CはCharacterのC)という用語であり、これが一つの石碑となってVtuber=キャラクターという認識は後退することになりました。キズナアイの中の人が複数になった際に炎上が起こったのは、こういったことがトラウマになっていて、キズナアイの「キャラクター」としての設定を利用して中の人の交代が行われるのではないかといった疑念が生じたからだと考えられます。
・その後
そういったトラブルでごたついている間にもVtuberの中にもいろいろと変化が起こっていました。具体的にはコンテンツ全体の生放送への傾斜であり、そういった中でのにじさんじとホロライブの伸長です。(にじさんじ配信者はVliverという呼称があり、それに意味はあると私は思いますがとりあえずここでは一緒くたにして扱います)そうした中でVtuberへの認識は「Vtuber=中の人」的なものであり、設定は設定として中の人をコンテンツとして消費するあり方の広がりでした。その変化によって、「中の人」と「キャラクター」という関係は棚上げされ、「人間」と「アバター」の関係(お前らとTwitterのアイコンの関係とほぼ同じもの)がVtuberであると言ってもいいような状態になりました。(リアリティショーみたい、と言われるのはたぶんこの辺(?)(よく知らん))
・星井美希という正解
このツイートを見てほしい、憐れむべきオタクの鳴き声である。
星井美希、オタクと諸企業がめんどくさくしなかった方の正解のVtuberなんだよな。あっちが正史。本来なら頭が上がらん。
— だかぴー (@dakapi_1025) July 11, 2020
ここまでの話を踏まえれば、このツイートの意味するところもいくらか理解していただけるのではないでしょうか。星井美希の配信は、「対話できるキャラクター」として満点でした。星井美希の中の人は誰だ、と問われた時にあなたは特定の声優の名前を挙げることができるでしょうし、星井美希は中の人と異なる存在だ、と主張することができるでしょう。中の人は星井美希を「演じて」いると言うことができるでしょう。すなわち、先日配信していた星井美希は、オタクやベンチャー企業がVtuberの存在の曖昧さに依存しながら、その方向へと向かうことが結果として行われなかった「対話できるキャラクター」の、そうあるべき姿でした。
以上で見たようにVtuberはそうなりませんでした。私は結果としてそうならなかった現在のVtuberが好きですし、そうならなかったことによって生まれたコンテンツもあると思っています、まあ良くも悪くもですが。こういった文脈を踏まえて、「対話できるキャラクター」がVtuberであると素朴に主張することは私にはできませんし、そういった方向でVtuber定義が書き換えられることはあまり望ましいことだとは思いません。それは私にとっては過去に乗り越えた認識への回帰であり、同じことが繰り返されない保証もない中で素朴なVtuber=キャラクター論が広がることには恐怖を感じています。