私が美少女でなくてよかった

 ああそうだ、私は美少女になりたかったんだ。

 ずっと昔からそうだった。この気持ちを自覚したのは中学1年の時だから、思えばもう人生の半分は美少女になりたがって過ごしていることになる。将来の夢を聞かれたときに「美少女」と答えるべきだったんだ。今の私の延長にあるものが夢でなければならないなんてルールはなかったのに、私の「将来の夢」はいつだって頭脳労働者で、美少女になりたいと叫ぶ機会を私はいつだって掴めずにいたんだ。
 美少女になりたければ方法はいくらでもある、なんて言う人もいるだろう。美容の技術もメタバースもその進化を止めることなく人類の中にあることを知らない私ではないのだ。だがそんなものが人を美少女にするだろうか。私にはどうしてもそうは思えないのだ。思えば美少女というのは属性よりも上位だ、言ってしまえば美少女というのは存在であると、そう主張もできるだろう。美少女で美しい、美少女でかわいい、美少女で妹、美少女で男、美少女でオタク、美少女で引きこもり、美少女でブサイク、これぐらいなら全部美少女だろう。美少女とは他の属性を超えた場所にあり、美少女の存在はまず美少女であることから始まる。それはつまり人間が人間であることとぴったり同じなのかもしれない。
 だから、本当の意味での美少女はこの世に存在しないかもしれない。美少女というのは美少女であるだけで存在が許され、その許される領域を存在に応じていくらでも拡大できるのだ。美少女がいることで世界はその部分を世界から美少女に割譲しなければならないような、そんな美少女こそが真の美少女なのではないかと思う。そういった意味においては美少女はいないのだ、千年に一度の美少女と呼ばれる人やアメリカの大統領だって、世界の中に埋め込まれるように存在せざるを得ない、その根源的な不自由さ、存在の翼に対する拘束は美少女ではない。

 ああ、思えば私は許されたいのだ。世界の中に自分がいることを、世界が私を部分としてではなく、私という美少女が世界に対してただそれのみで存在するような、それは簡単な言葉でいうと許されているということで、世界はその時私に対して対等なのだと思う。
 だからどんな人だって美少女にはなれないし、私だって美少女になるべきではないのだ。実際のところ、存在するということはその人が美少女か否かにかかわらずあることだし、そこには許すも許さないもない。たいていの人は世界の中に埋め込まれながら、押し合いへし合いしながら、自分の存在を確保しているとそう思う。

 ああ、私が美少女でなくてよかった。美少女ではないからこそ美少女の夢を見て、美少女になりたいなんてのんきなことを言って、美少女ではない自分を嘆いて安心することだってできるのだ。
 ああ、私が美少女でなくてよかった。美少女ではない人間として、世界の中で存在を主張している人間として生きる日々に、万歳をしよう。万歳をした両手で高らかに白旗を振り上げよう。

 でも私は美少女になりたいのだ。だから私は、美少女になりたい人間として存在することを、美少女を知らない人たちに伝えていかなくてはならない。ああ、美少女ではない私、美少女ではないこの世界のすべての人。

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