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人間の優しさ
1983年1月 今から42年前に書いた文章 お正月だから公開してみました。
若い女性に「結婚する人はどんな人がいい」と聞くと多くの女性が「優しい人が好い」と答えるようだ。90%以上の人がそう答える。私もそれには賛成の手を上げる。では、その「優しい」と言うものの中身はいったいどういうことであるのかと深く考えたくなる。
「優しさ」には大雑把に言うと二つあると考えている。一つは自分よりも弱い立場にある人に直接的にその弱さを自分の力で包み込む、援助するというあり方、行動を起こす優しさである。もう一つは極めて間接的にその人を支え、その人が自分の力で立ち上がっていくように支えるという優しさである。私は一つ目を「保護する優しさ」と呼び、二つ目を「自立させる優しさ」と呼んでみたい。
では「保護する優しさ」とはどういうことか。例えば、目の前で溝に足を落とし、自分の力で立ち上がれれない。足には傷を負って血まで流している。この時「さあ、この腕につかまりなさい。」と手を差し伸べて、その人の半分よりももっと力を出して、その人を危険な状況から救うという行為である。
次に「自立させる優しさ」とはどういうものであるか。
ここに一人の健康的な女性がいる。その女性は川を目の前にしていて対岸に行きたいのである。美しい靴を履いている。その靴も濡らしたくない。足も濡らしたくない。しかし対岸に訳あって、いく必要がある。どうしようかとぐずぐずしている。そこへあなたは出くわした。さてあなたはどう手を差し伸べるのか。
単純に答えを用意する。
一つ目は、その女性を負ぶって足も靴も濡らさずに対岸へと送る。自分は足を濡らして。二つ目は、靴を脱がせて。彼女の手をしっかりと握り、一緒に自分も足を濡らして、共に対岸に渡る。
三つ目は、励ましながらその女性自身が自らの力で自らの足で渡り切れるように時には前に立ち、時には横に並び、時には後になり、自分と共にいつ何時、彼女が足を滑らせ倒れそうになっても支えられるように緊張しながら対岸に行く。状況によっては、この三つはどれも大切な行動であり優しさの在り方である。
人間と言うものは、最終的には一人で生きていかねばならないし、また、そういう存在だと考える。だからこそ協力し合い、お互いに仲間を求め助け合って、支えあって生きていこうとするのであろう。よほどの理由がない限り、独りで生きていこうとはしないものである。運命的に人間の存在そのものが独りであるからだろう。その弱さ、怖さを知っているからこそ仲間を求め、自分の理解者を求めるのかもしれない。
だとするならば優しさとは「保護する優しさ」の重要性と同時に「自立させる優しさ」も重要性を持ってくる。血を流している人に対して「自分でやりなさい」と言うべきではない。まず血を止めるために手を直接的に差し伸べるのは当然の行動である。しかしその次ぎ来ることは、その人自身の力で血を止める方法と知恵を持てるようにしなければならないだろう。なぜなら長い人生の中で、いつもいつも血を止めてくれる人がいるとは限らないからであり、今は血を流す境遇であっても、血を止めてあげなければならない立場になることが、必ずあるものだからである。
「自立させる優しさ」は「保護する優しさ」に比べて実に厳しく思いやりにかける行動に映る時があるものだ。時には意地悪のようにさえ見えることがある。「保護する優しさ」は、実に直接的で素晴らしい行為に見えるし、事実それは大切なことでもある。
しかし、その優しさのみであってはいけないということも事実である。
「保護する優しさ」と「自立させる優しさ」の両方が人間の優しさとして存在するということをいつも見つめていきたいものである。