夏休みが終わる児童・生徒に贈る言葉
間もなく夏休みが終わる児童・生徒は、ぼちぼち学校が始まり、2学期となる。この時期は一番児童・生徒の自殺が多いそうだ。たまたま普段観ないテレビを見たら、ニュースキャスターが空疎かつ無意味に「誰かに相談して云々」「頑張りましょう」とか無責任にほざいてたので、ちょっとカチンと来たのである。そりゃ、相談できる人がいりゃ苦労はせんだろ?
ともあれ、自殺の理由は色々と考えられるが、学校で「死ぬほど」ツライ目に遭っていたのが夏休みでひと息ついて「救われた」と思っていたのに、2学期が始まると1学期の「悪夢」が再来するからだろう。
両親を含め、どいつもコイツも大人は揃いも揃って「偽善者」なので、もっともらしい大人の言うことなんかイチイチ聞く必要はない。自分の命は自分で守るか、どうにも守れないなら自裁すればいい。
とは言え、人生に対してまだ幼い少年少女に「自裁」は勧められないので、太宰治真理教の私が、余計なお世話的に太宰治の「言葉」を贈ろうと思う。
学問とは、虚栄の別名である
小学生でも最近は中学受験をする児童が多いと聞く。別にそれを否定も肯定もしないが、もし中学受験をするのなら、自分が進学したい中学に入学出来るよう、最大限の努力をするべきだ。
もし、自分が本心から中学受験をしたくなかったり、しかもそれが親の意向だったり、それが苦痛で毎日がツライのであれば、私はこの言葉を贈る。
論理は、所謂(しょせん)、論理への愛である。生きている人間への愛では無い。
金と女。論理は、はにかみ、そそくさと歩み去る。
歴史、哲学、教育、宗教、法律、政治、経済、社会、そんな学問なんかより、ひとりの処女の微笑が尊いというファウスト博士の勇敢なる実証。
学問とは、虚栄の別名である。人間が人間でなくなろうとする努力である。
太宰治『斜陽』(直治の日記「夕顔日誌」の一節)より
「なあんだ」と思えば、それで良い。いくら高学歴でも、世の中には愚かでアタマの悪いバカな大人は掃いて捨てるほどいる。そうならないように努力して欲しい。
学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいい
しかし、学問をすることを疎かにしてはイケナイ。本当の意味での「学問」は大学に入ってからするもので、高校卒業まではその「準備期間」でしかない。学校の勉強がイヤなら、代わりにマンガではない読書をすることだ。
もし仮に中学生活がツライとか、高校生活がツラくてかなわん!と言うのなら、自裁する前に学校なんか行かずにサボッてしまえ!死ぬことを考えるぐらいなら、学校をサボるぐらい実に簡単なことだ。
別に中学をロクに行かなくても高校には誰でも進学可能だし、仮に高校を中退したって、別に死ぬワケじゃない。
私は登校拒否児なみに中学はサボリまくったし、高校は普通の県立高校に進学したが、2年次で中退した。それでも自力で努力して、仕事をしながらちゃんと4年制大学を卒業している。
その上で、私はこの言葉を贈りたいと思う。
日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。(中略)学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ!
太宰治『正義と微笑』より
ハッキリ言って、高校ぐらいまでの勉強なんて、実社会ではほとんど意味をなさない。高校生ならバイトの経験ぐらいあるかも知れないが、バイト先で学校の勉強が役に立つケースはほとんどないだろう(私の経験上、まったくなかった)。そんなのは社会に出て正社員になっても同じだ。
だが、学校で勉強する各教科は、豊かな知識を与え、考える力を養ってくれる。私なんかはロクに中学に行かないで自宅のパソコンでプログラムばかりを作ってたし、本ばかり読んでいた。だから、というワケではないが、国語の偏差値だけは飛び抜けて良かった。数学はハッキリ言って今でも苦手だが、「数学的なモノの考え方」(論理的思考)はプログラミングで養った。なので内申点は最悪だったが、普通に県立高校に入学出来たのである。
ぜひ、自分なりの勉強方法で「勉強の訓練の底に一つかみの砂金」が残るようにし、その砂金を大事にして欲しいと思う。
人間は、お互い何も相手をわからない
勉強で悩んでいないとすれば、恐らくは人間関係で悩むのだろうと思う。
こんな言葉は、お気に召すだろうか?
ああ、人間は、お互い何も相手をわからない、まるっきり間違って見ていながら、無二の親友のつもりでいて、一生、それに気附かず、相手が死ねば、泣いて弔詞なんかを読んでいるのではないでしょうか。
太宰治『人間失格』(第三の手記)より
もうひとつ、同じ『人間失格』の「第三の手記」から引用してみよう。
世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、(中略)
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)
太宰治『人間失格』(第三の手記)より
個人的な意見で大変申し訳ないが、親兄弟姉妹であっても、人間同士が「分かり合える」なんてのは幻想でしかない。むしろ「分かり合えない」から人は少しでも分かり合えるように努力をする、と言えるだろう。
また、「世間」というのもひとつの幻想でしかない。他人や大人が「世間ガー!」と言い出したら、話をマトモに聞く必要はない。言ってるオマイが「世間だろw」ぐらいでいいのである。さも「世間」というワードで自分の言い分を一般化したいだけで、その実、説教もしくは単に文句を言いたいだけでしかない。よって、聞くだけ時間の無駄である。
大人とは、裏切られた青年の姿である
最後にちょっとだけ、大人サイドの言い分にも耳を傾けて欲しいと思う。
大人も色々と大変なのだが、若い人に贈りたい言葉でもある。
大人というものは侘しいものだ。愛し合っていても、用心して、他人行儀を守らなければならぬ。なぜ、用心深くしなければならぬのだろう。その答は、なんでもない。見事に裏切られて、赤恥をかいた事が多すぎたからである。人は、あてにならない、という発見は、青年の大人に移行する第一課である。大人とは、裏切られた青年の姿である。
太宰治『津軽』(一 巡礼)より
人は必ず一度は他人に裏切られる。それを経験して大人になる、とも言える。しかし、「裏切られるのがイヤ」だから、他人を信用しないという法はない。
例えば、恋はいつか必ず破れる。だからと言って「恋愛するな」とは言えない。もっと言えば、人間はいつか必ず死ぬ。だからと言って「生きるな」とは、やはり言えない。裏切られるのが分かっていて他人を信用する方が、遥かに良いだろう。疑心暗鬼になるのは、精神衛生上よろしくない。
そもそも裏切るの裏切らないの等、傷つかない人間は存在しないのだし、どんなに心に深い傷を負ったとしても、確実に誰でも時間になれば朝を迎える。晴れているのか曇っているのか、それとも雨なのか?は知らん。ひとつ言えるのは、唯一朝を迎えないのは死体だけだ。死体は二度と目を覚ますことがないのだから。
よって、他人に裏切られたぐらいで死ぬのは、実にバカバカしい。とは言え、「やまない雨はない」なんて慰められても仕方がない。わざと雨に濡れるのは酔狂な変態がすることである。傘をさすか雨宿りするのが普通であり、進んでツライ雨に打たれる必要はない。逃げだの何だの言われようが、ツライのなら雨を回避すべきだ。それで「裏切られた」などと言われることがあれば、堂々と裏切ってやれ。
おわりに
自分の人生の主人公は自分なのだから、他人がどう言おうが他人にどう思われようが、意に介さないのが人生の秘訣だと思う。それに「成功の秘訣」は、「成功するまでやること」でしかない。成功の対義語は失敗ではなく、「何もしないこと」であるから。
色々と偉そうにゴタクを並べたが、最後の最後に言い訳をしておくので、ぜひお許しいただきたい。
皆は、私を、先生、と呼んだ。私はまじめにそれを受けた。私には、誇るべき何もない。学問もない。才能もない。肉体よごれて、心もまずしい。けれども、苦悩だけは、その青年たちに、先生、と言われて、だまってそれを受けていいくらいの、苦悩は、経て来た。たったそれだけ。藁一すじの自負である。けれども、私は、この自負だけは、はっきり持っていたいと思っている。
太宰治『富嶽百景』より
まぁ、誰も私のことを「先生」などとは呼ばないんだけどね。(;´Д`)
※2019/09/15追記
大学について学ぶとはどういうことか、私なりにまとめてnoteの記事にしてみた。ちょっと長いが、読んでいただければ、と思う。