行き過ぎた表現規制はBAN祭りを生むが、それでいいのか?
先月の末頃、日赤の献血ポスターが問題になって記事を書いたが、またもやポスターによる表現が問題(?)で、厚労省が「人生会議」のポスターの発送を取りやめる事態になったようだ。
こんなはずじゃなかった
厚労省の「人生会議」のポスターの趣旨として、「こんなはずじゃなかった」とインパクトを込めてACP(アドバンス・ケア・プランニング)の啓発をしようとした意図が見て取れるが、抗議した人はそうは受け取らなかったようだ。
これは先月の「宇崎ちゃん」と同様に、ポスターを見た人の主観でしかないから、個人的には良いと思うが、悪いと思う人を非難するといったことは出来ない。
よって、こういった公共に資するポスター表現に関しては、明文化されていない社会通念よりも、民法に規定がある公序良俗に照らして判断されるべきだと考える。しかしながら、寄せられた抗議やネットの意見はどうも社会通念上の話でしかなく、厚労省はその抗議に屈してしまったと思う。では、厚労省に圧倒的な抗議が寄せられたのか?と言えば、どうもそうではないようだ。
この文春オンラインの記事によれば、厚労省に直接届いている抗議文はたったの2通のみだと言うのだから、驚くのを通り越して呆れる。厚労省はネットで騒がれた程度でポスターを取りやめにし、税金を無駄遣いしたのか?といった、また別な抗議にさらされるのではないだろうか。
ポスターを企画した人も、ポスターに登場した芸人も、当の厚労省も、そして納税者である我々国民も、正に「こんなはずじゃなかった」というところではないのか。
ノイジー・マイノリティは善か悪か?
日本は民主主義国家なので、原則として意見が割れれば多数決によって物事が決まる。余りに当然過ぎるが、マジョリティの意思が優先されるのである。だからといってマイノリティにまったく配慮しないのは、人道の面から出来ない。だから、通常は強者(マジョリティ)が弱者(マイノリティ)に譲る面が出て来る。これも至極当然な話ではある。
ところが、一般に「ノイジー・マイノリティ」と表現する場合、弱者が弱者であることを笠に着て、強者に対して不当に権利や義務を要求する意味合いが強い。今回の場合もそうで、ネットで騒がれたかも知れないが、直接の抗議はたった2件のノイジー・マイノリティでしかなかった。
公費が投入される公共ポスター等の表現に関しては、繰り返すようだが民法に規定がある公序良俗に照らして判断すべきだし、圧倒的な抗議がないのであれば、ノイジー・マイノリティは無視すべきだと考える。それが民主主義であり、法治国家ではないのか?と思うのだが、間違っているだろうか。ノイジー・マイノリティが悪なのではなく、サイレント・マジョリティを無視するような形で、ノイジー・マイノリティに屈するのが悪なのだ。
日本の場合、日本人が優し過ぎるために、あらゆる意味で打たれ弱い。抗議があると「そうか、何か悪かったかな?」と考え、勝手に善処してしまう。近年はまだ良くなったとは思うが、戦後からずっと日本が世界に対して「土下座外交」をして来た点を見ても、内弁慶な体質は変わっていないと思う。そして「オレが責任を取る」と言い切れるリーダーシップが欠如したままだ。これで良いハズはない。
表現規制は新たなBAN祭りを生む
2年ほど前から発生した、YouTubeやTwitterの特定アカウントをBAN(凍結)する「BAN祭り」は、反日のノイジー・マイノリティによるサイレント・マジョリティ(普通の日本人)への攻撃だと考えられる。
「宇崎ちゃん」にしても、今回の「人生会議」にしても、公共ポスターに関してノイジー・マイノリティに屈してしまうと、それが悪しき前例となって表現規制に発展しかねない。そしてヘイトスピーチ規制法のような、ある種の言論規制がBAN祭りを生んだと考えると、同様に表現規制が新たなBAN祭りを生むことになるだろう。
「言論の自由」と「表現の自由」は死守しなければならないが、そのためには公平な判断基準を明確にし、その上でノイジー・マイノリティをバッサリ切り捨てる勇気を持つべきではないだろうか。その前提として、サイレント・マジョリティがただ指をくわえて「何も言わない」現状が改善されていなければならないが。
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