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第49回 憂国忌に寄せて

週明け25日、三島由紀夫の追悼集会である第49回追悼の集い『憂国忌』が開催される。
私はひょんなことからご縁をいただき、三島由紀夫研究会に所属しているが、今まで月イチで開催される勉強会にもロクロク参加出来ず、会員として誠に申し訳が立たない次第だ。
ともあれ、ご興味がある方は、ぜひ参加していただきたい。

三島由紀夫氏追悼 第四十九回 追悼の集い『憂国忌』
日時  十一月二十五日 (月) 午後六時 (午後五時開場)
場所  星陵会館大ホール (千代田区永田町二-十六-二)
資料代 お一人 二千円

私が24歳ぐらいの頃だったと思うが、元陸自だったOBの方から当時の週刊サンケイ付録のソノシートを戴き、初めて「三島由紀夫最後の絶叫」を知った。
当時も今もレコードプレーヤーを持っておらず、友人のオーディオマニア宅で聞き、(その彼はカセットテープデッキを持っていなかったので)私が持っているパソコン用のデータレコーダPC-DR330でカセットに録音した。
今思えばかなり無茶だが、ソノシートは何度かの引っ越しにまぎれてしまったし、そのカセットテープもどこかに紛失してしまった。絶対に捨てていないのでどこかにまだあるとは思うが、久しぶりにYouTubeで「三島由紀夫最後の絶叫」を聞いた。

私は24歳当時、「三島由紀夫最後の絶叫」が理解出来なかった。
すでにかなり三島由紀夫の作品は読んでいたが、楯の会の結成と「最後の絶叫」に至るプロセスが、サッパリ理解出来なかった
そもそも、当時ですらもう10年も太宰治に熱を上げ続けていたのに、太宰治が戦後すぐに「パンドラの匣」で「天皇陛下万歳!」と書いた意味すら理解していなかった。

「天皇陛下万歳! この叫びだ。昨日までは古かった。しかし、今日に於いては最も新しい自由思想だ。十年前の自由と、今日の自由とその内容が違うとはこの事だ。それはもはや、神秘主義ではない。人間の本然の愛だ。今日の真の自由思想家は、この叫びのもとに死すべきだ。アメリカは自由の国だと聞いている。必ずや、日本のこの自由の叫びを認めてくれるに違いない。わしがいま病気で無かったらなあ、いまこそ二重橋の前に立って、天皇陛下万歳! を叫びたい。」
出展:太宰治「パンドラの匣」(初出:「河北新報」昭和20年10月22日より掲載)

パンドラの匣」の翌年、太宰治は「苦悩の年鑑」で心情を吐露している。

指導者は全部、無学であった。常識のレベルにさえ達していなかった。
×
しかし彼等は脅迫した。天皇の名を騙って脅迫した。私は天皇を好きである。大好きである。しかし、一夜ひそかにその天皇を、おうらみ申した事さえあった。
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日本は無条件降伏をした。私はただ、恥ずかしかった。ものも言えないくらいに恥ずかしかった。
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天皇の悪口を言うものが激増して来た。しかし、そうなって見ると私は、これまでどんなに深く天皇を愛して来たのかを知った。私は、保守派を友人たちに宣言した。
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十歳の民主派、二十歳の共産派、三十歳の純粋派、四十歳の保守派。そうして、やはり歴史は繰り返すのであろうか。私は、歴史は繰り返してはならぬものだと思っている。
出展:太宰治「苦悩の年鑑」(初出:「新文芸」昭和21年3月)

どんなに太宰治の文学を愛好していようが、その「真意」は作者以外には分からない。しかし、私はどんなにウカツな読者だったろうか、と思う。
三島由紀夫の太宰治嫌いは有名だが(そして三島が晩年に吐露しているが)、三島は太宰を意識していたし、そして自分に「似ている」危険性を感じたのだった。実は、三島ほど太宰を評価した作家は居なかった、というパラドクスでもあるが、でなければ私も三島をこれほどまでに読まなかったと思う。

そこから作者が蘇らなければ何の為に文学があるか

今年は太宰治の生誕110年であるが、この先太宰治はいくらでも日本の読者の前に蘇るだろう。そして三島由紀夫もその文学と行動によって、これから先もいくらでも同じように日本の読者の前に蘇るだろう。
文学を理解しようとした場合、私のような愚鈍で浅学非才だとエラく時間がかかる。私は太宰が亡くなった年齢よりも馬齢を重ねているが、未だに太宰文学が生涯のテーマとなっている。太宰ほど熱心な読者ではない三島に関して、その文学を理解し得るのか?と考えると、絶望するほどだ。
それでも、やはり知りたいのだ。三島由紀夫を。三島が命を賭して守ろうとした日本を。

私はクリエーターではなく栗イーターですが、サポートをいただければ書籍代や保守系勉強会(セミナー)の参加費に充て、さらに勉強して得られた知見を記事としてフィードバックします。