『魂と人格』

 人格者という言葉がある。しかし、果たして「人格」とは何だろうか。個性的という言葉がある。しかし、「個性」とは何だろうか。今、私たちはすでにこのような問いに対して、ある程度、答えることが出来る。人格者になること、個性を磨くことなど、これらは自らに潜在する魂を輝かせることであると言えよう。魂は通常、誰にも見えない場所にある。だからこそ、自分探しをする。しかし、魂と身体は照応関係にあるということを念頭に置けば、私たちは魂に対しての、手がかりを得られるわけである。

 形相という概念がある。鬼の形相と言ったりする。けいそうと読んだり、ぎょうそうと読んだりするが、どちらも意味は通じている。形而下の世界の全ての存在に形はある。その形の相、言い換えれば、形に潜在する意味の現れが、形相である。だから、私たちの身体には形相がある。猫背の人の形相は、前に出ることをしない、後ろ向きである、などと言うことが出来る。これは体癖論でいう、6種の体癖であり、6種の形相である。ただの形ではあるのだが、形と形のないものは、働き合っている。これは物理学では記述不可能であるし、心理学でも記述不可能である。全領域に及ぶ、哲学、神智学だからこそ、この事柄に説明を与えることが出来る。物理学では身体だけに焦点が当たってしまうし、心理学ではただの主観的なものに過ぎない危険性もある。フロイトやユングの精神分析というのも、単に根拠がないと言われかねない。

 さて、私たちに潜在する形相とはどんなものだろうか。『哲学の歴史』で語ったことだが、神の形相とは多相であった。そもそも、精神とは単一なものではない。多様なものである。ならば、私たちの形相も、神の形相と同様に、多相を持つと言わなければならない。

 私たちの心は、時に炎のように情熱的であり、時に澄んだ水のように冷静である。また烈火の如く怒ったり、或いは冷たくなったりする。私たちの魂にも、この世の沢山の元型が宿っているのである。

 しかし、私たちの魂にはどうも傾向がある。ほとんど冷静な人であったり、いつも情熱的であったり。個性的というのも、人格者というのも、私たちの魂の形相を、より一層、具現化した時に言えることである。ここに行為の問題がある。プラトンは徳と人格というものが、密接に関係しているものだと言った。徳を積むというのは、行為の地層を厚くすることである。これをカルマと呼んだりもする。カルマを練ること、これによりカルマに中心にある魂を強くしていくのである。カルマを練るというのは、行為を濃くすることである。私たちは、自らの魂に呼応しつつ行為していかなければならない。そして自らの魂に呼応した行為は、魂の強度を上げる。ここでも、抽象と具象が、相互に働き合っているのである。

 自らの魂に呼応し、それに即した行為をすること、この反復が徳を積むということである。これは自らの意志に従う行為であるとも言える。

 性善説と性悪説という議論があるが、魂に対する哲学をすれば、また少し見えてくるものもある。そもそも、魂というのは元型であり、善くも悪くもない。従って、善くも悪くもなる。ただ行為のみが善悪を決めるのであり、その行為が自らの魂を善くも悪くもするのである。魂が穢れれば、その魂により、行為もまた悪くなりやすくはなるだろう。これがカルマの煩わしいところである。性善説と性悪説というのは、人間が生まれ持って善であるか、悪であるか、という議論であるが、この問いにロゴスで答えるのは甚だ困難である。むしろ、ディレンマを以て答えるのが妥当であろう。というのも、魂というのが、元型という抽象的な存在であるし、それは多様な存在であるのだから。赤ん坊は未だカルマが薄く、したがって人間の魂を以て、性善説や性悪説を吟味する必要があるのだが、内実はディレンマなのである。

 自らの魂に呼応し行為するには、自らの身体の声に耳を澄まし生きることである。身体の声とは何だろうか。力というものがある。私たちには欲求がある。意志がある。私たちには痛みや苦しみがある。いずれも力を持っている。それらは引力を持つ。心身が痛めば、意識はそちらに引き寄せられる。心身が飢えれば、意識はそちらに引き寄せられる。呼応するということは、このような事態である。まず潜在的な世界に力のある種が植わる。私たちはそこに引き寄せられ、自らの意を注ぎ、それを発現する。種に水をやり、光を当てれば、花が咲く。これを精神分析ではカタルシスと呼ぶ。

 しかし、西田が言うように、私たちの欲求には、或る欲求よりも、或る欲求の方が大きいという事柄がある。心身は数多の声を持つ。この数多の呼び声のどれに応えれば良いのだろうか。飢えていること、退屈であること、夢中であること、私たちの意志も多様である。これは経験をするしかない。一般的な経験ではない。『哲学の歴史』で語ったような、直感的な経験である。これを西田は直接経験と呼んだ。自らの潜在的な力、これを経験するのである。オカルトチックになりすぎてしまったので、現実的に考えよう。例えば、やらなければならない宿題がありながら、今にも飢えて死にそうである。この時、何に引力を感じるだろうか?

 しかし、現実は多方面から力が掛かっている。世界には飢餓や貧困に悩まされる人々が居る。その人たちへの引力は感じるだろうか。ここで実存という者が重要になってくる。私たちは確かに世界の内に存在しているのだが、取りも直さず、一つの個でもある。世界に働き、世界に働かれているが、私たちは実存というものを維持しなければならない。もし、私たちの実存が消失すれば、世界に働くことも出来なくなる。そして、実存の周りには、家族が居る。その周りには学校や職場がある。それらの連関を生かしつつ、世界に働かなければ、そこにある生命は良く働かないだろう。

 しかし、ここでも結局、最も重要なのは実存に他ならない。世界も職場も学校も、家族でさえも、実存が殺されるくらいなら、無視して良い。この点、家族を何よりも大切にする、という理念に、私は懐疑的である。家族を何よりも大切にするという理念が絶対的であるなら、家族に虐待される子供に救いはない。その点、家族が第一優先であるという、モルモン教の教義に懐疑的である。教会の教えというのは、非常に融通の効かない教えである。絶対であると思っている者もいる。そして、教会の教えというのも、元々は一つの思想であったはずである。そこには哲学がある。教会の教えと言っても、モルモン教徒は自殺を禁止していたのだが、それを改定している。世の中には死ぬほど辛い思いをしている人が大勢いる。私も自殺は赦されるべきであると思う。こういった、教えに融通を効かせるために、哲学的考察は必須である。私は一概に宗教がいけないとは思わない。宗教は必要であるとも思う。しかし、考えることを止めてはいけない。聖書にあるのは、エクリチュールである。それは神自体ではない。記号である限り、必ず解釈者によって、動きが生まれる。その動きに、現実が対応している必然性はない。神智学は、諸宗教に対してメタ的な観点を持てる学問である。その点、神智学は良いと思う。

 そして、家族とは言え、父も母も兄弟姉妹も、自らの身体と割と違うはずである。違った形相を持つ者が、互いに互いを押し付け合っても、何も有意義なことはない。さらに言えば、自らの形相は、自らの行為に限定されていく。自らの物語が出来ていく。自らの物語は自分しか知らない。自らの物語をこの先もずっと編まねばならない。言葉を食し、意味を呑み込み、そこから糸を紡ぎだし、その糸で、自らの物語を編まなければならない。自らの形相を持つ者、その者にしか似合わない衣というものがある。実存者はその実存を徹底的に守らなければならない。

 しかし、それにしても、私たちは合っている。外れながら合っている。世界と会っている。私たちは時に家族に、時に友人に、時にペットに、時に自然に自らを見る。実存者は実存しながら、実在と確かに連関している。

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