音速メモ:自己肯定感

実に1年11ヶ月くらい?振りに、noteにログインした。

今なら何となく、「誰かに見つけて欲しい」っていう私と、「誰にも知られたく無い」っていう相反する私が、溶け合って混じってくれそうだったから。

素早く開ける電子機器のメモ機能も、殴り書いたりやけに丁寧な字で書いてみる日記も、パソコンで打ち込むpagesも、その他全ての記憶を保管する場所以外で、私自身が考えることを整理したくなったのだ。

よし、じゃあ今さっき湯船に浸かりながら考えていた「自己肯定感」について、整理していこう。(不思議なもので、アイデアはお風呂に入っている時によく思いつく。暖かいお湯って、皮膚の角質と共に思考をも柔らかくしてくれてるのだろうか…)

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率直に、自分自身に自己肯定感があるか問うてみる。

ある、多分それっぽいのある。                       だけども、褒められるのは、実はあんまり好きじゃない。

純粋に嬉しい!って思う時と、そんなことないよって思う時がある。      そして、そう思う差に、私は気付いている。

何で判断しているかは、そこまではっきり分かっていない。恐らくは、知識量とか経験差とか、その他諸々の要素を多分に含む何かで無意識のうちに線引きしてる。共通するのは、私よりも明確に何かに秀でている人。          

そういう人たちに褒められると、何だか認められた気がして嬉しい。

…ちょっと待って、認められる?

初っ端から少し不安の残る思考になっている気がする…

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最近、「やっぱり凄いっすね」みたいな褒められ方をされることがある。そして、そうやって褒められる時、私は嬉しくない。正確に言えば、誰にでもできることだろうという考えが根底にあるからなんだと思う。

3人兄弟で末っ子の私は、要領が特別いい訳でもなければ、何か特別な才能がある訳でもない。頭は兄弟内で一番悪かったし、とにかく自分勝手で、自己中心的。 嘘つきで、お調子者だった。悲しいことに今もなんだけど、昔からよく言われる 言葉が「バカだねぇ」。

そして、私はバカだと思い込み、バカになる。
私よりバカな人はいないと、当たり前に思っていた。

私の家はどちらかというと、内向的。                    家族の結束や絆が強くて、外部には中々靡かないし、寄せ付けすらしない。   そうやって小さな世界で生きてきて、前述した思考が最早普通になっていた。

何で褒められても嬉しくなかったか。それは、私にとって「当たり前」のことだから、だと思う。私が出来ることは、私以外の全員が出来るに決まってる。そう思ってるからなんだ。

…ここまで考えて、結構上の方で書いた「自己肯定感、多分ある」って言葉を取り消したくなってきた…。

当たり前のことが出来るって、褒められてもいいこと?
間違ってるかもしれない日本語訳、凄いねって言ってもらってもいいの?
調べればわかるようなこと答えただけで、笑顔になってもらっちゃっていいの?

その場にいたときは「誰でもできます」なんて、そっけない返事しちゃったけど。
でも今なら。ここまで書いた今なら、素直に、お礼言える。絶対言える。

なかったね、自己肯定感。
数分前はなかったけど、でも今はあるやん。

私の特技は、爆速で思考を改められること!(なんとまぁ都合のいい…)

大切なのは、素直さか。
褒めてくれた人に感謝して、それを無下にしない。
こんなんでも褒めてもらえた!っていう自己肯定感、貯めていこう。

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