かつて天才だった俺たちへ。似たような形に整えられて見る影もない。
creepy nutsっていうアーティストの曲に「かつて天才だった俺たちへ」ってのがあるんですよね。最近よくこれ聞いている。今日のテーマはこの歌詞からもらいます。
曲だから好き嫌いあると思うんですけど、一回聞いてもらえたらなと。歌詞読むだけでもいいんだけど。この曲聞いた上で今、色んな人と触れている中で思うのって「褒められる」のって大切だなと。
小学生の頃にテレビ番組ツクってたな。
いま、ありがたいことに映像制作のお仕事も頂いているのですが、最初に映像作り始めたの今思い返すと小学校1年生のときなんですよね。当時カメラとかはなかったんですけど、PCにつけるWebカメラみたいなので、友達と妄想ニュース番組みたいなのをツクって動画くっつけて親に見せたりしてたなっていうこと思い出しました。
あの時は友達や親や近所の人に驚いてもらいたくて、ワクワクしながらツクってたなって思います。
そこからずっと動画を作ることに没頭していたみたいなシンデレラストーリー的なのはないんですが、高校生の時とかもクラスのスライドショーツクったりとか、ビデオカメラを回して授業中とか高校生活を撮影してたりしたなー。
べつにそれが色んな人に求められていたわけではないけど、ただなんとなくやっていた。誰にも止められず好きなだけやってました。
そんなことが今、お仕事につながっている。
やめないこと誰かが見てくれていることは偉大だった。
映像を作ることは幸運なことにわかりやすく目に見えるし、今でこそ市場価値が高かったりする。もちろんそんな偶然があったからこそ、映像を作るってことが仕事につながったりとかはしてるんだけど、なんとなくでも続けられることができてよかった。続けていたという感覚よりも、やめるっていう選択をしてこなかったのかな。
映像で何者かになれたわけでも、社会を救ったわけでもないけれど自分の人生につながっていることはすごく満足している。
映像を制作することはわかりやすく目に見えることだけど、制作じゃなかったとしても、続けられることができて、誰か近くにいる人がそれを見続けてくれていることがわかっていればどこかのタイミングで自分のものになったりする。
褒められるとかじゃなくて、あなたがやっているそれを私は知ってますよ的な。これほどまでに心強い力って無いんだよね。
ただ褒めることは無責任かもしれないけども。
力があるわけじゃないのに、ただ褒め続けることはなんというか傲慢になってしまったり、その先を見ようとしなくなったりってのがあるかも知れないから無責任かもしれないんだけど、たとえ社会人になっていたとしても、誰かが見ているというかリアクションする人がい続けたらいいなって思います。
こんなにもたくさんの人がいるのに、リアクション誰にもされないことで「孤独」が産まれたりするんですよね。それがいつしか自分の好き嫌いとかじゃなく用意されたある程度の道を歩くことで安心してしまったりする。悪いことではないかも知れないんだけど、形が整えられただけの存在になってしまうかもと思っているんですよね。
だから僕らは反応し続ける。
だからってわけでもないのかな。でも誰かの発言に対して反応することが大切だと思っている。それはしてあげるとかではなく、自然に反応が生まれる環境があること、それが自分のことや社会のことを本音でしゃべれる環境につながるんじゃないかなって思ってます。
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