山口新聞 東流西流 #1「分からない、の探求」
2021年5月13日から毎週一回7週間山口新聞の「東流西流」というコラムを書かせてもらった。何を書いても良いという条件であったが、せっかくならば7回の連続したコラムに出来たら、ということで、「アートは難しいと言われる理由」について考えてみることにした。毎回540文字に収めるのに難儀したけれど、ローカル紙と言えども、普段届かない人へも届く可能性があるのでなるべくシンプルに一つのメッセージが伝わるよう心がけた。今思えばもう少しお楽しみ要素を入れれば良かったな、という反省はある。
山口新聞の担当の方から了承をもらい、こちらのノートへ転載していくことにする。まずは#1より。
#1 分からない、の探求
新たに連載を担当することになった会田大也(あいだだいや)です。山口情報芸術センターの開館直後から教育普及を担当した後、現在は学芸普及のディレクターをしています。職業柄、アートの目の前で人が何かを考えたり感じたりすることについて関心があります。
「アートは分かりにくい」と言われて久しいですが、こうした常識が生まれた背景は何でしょうか?また、そんな前提を超えアートを楽しむためにはどんな方法があるのでしょうか。本連載ではそうしたテーマを扱っていこうと思います。
まずそもそも「分かる」とは何か?について。元は「何かと何かを分ける、区別する」という語源です。海と川、森と里、トカゲとヤモリ…等、自然の中では区別するべきことが多数あります。転じて「対象のことを知っている、理解している」という意味になりました。逆に初めて見るものについては知識がない、分からないとなります。
コミュニケーションには形式と内容がありますが、内容はさておき絵画、彫刻、俳句など、知っている形式の表現であれば、何とか取りつく島がありそうです。
問題は、内容のみならず形式も含めて初めて対峙するような作品と出会った時です。全く初めて目にするような事態と向き合う時、人は創造性を問われるのです。次回はこの続きから。