ティラミスが必要な夜には
夏になると食欲がなくなるのは、まあよくあることだとして
心が空っぽになったような、何も考えられない夜は初めてだった。
帰り道にあるコンビニで翌朝のパンを買おうとしたとき、何も欲しいと思えなかった。
代わりに、目に入ったケーキコーナーの新商品のティラミスを買って帰った。
プラスチックの小さなカップに入ったティラミス。カロリーのでかでかと書かれた蓋をはがして、透明なスプーンを差しこんだ。
無抵抗にプラスチックのスプーンを受け入れて口の中で消え、たっぷりとしたマスカルポーネチーズがやさしくて、完璧だった。
税込み320円、慈愛の塊みたいなデザートを食べすすめながら昔、父の作ってくれたティラミスの味を思い出した。
父のティラミスは、マスカルポーネチーズとコーヒーの味がぎゅっと詰まっていて、自己が主張が強くて口の中に残る感じが、たいへん良い。
コーヒーがたっぷり染み込んだ、ぐじゅっとしたスポンジと、クリームなんかと一緒にしないで、と言わんばかりのチーズ的主張の強いマスカルポーネチーズ。もの凄く香るコーヒーと、むっちりと包み込むようなチーズの、舌に残る重さが、たまらなく好きだった。
むかし、今よりずっとカロリーに鈍感で幸せだったころ、夕食後に家族みんなで囲んだコーヒーとティラミスに、カロリーは存在しなかった。
今のわたしにつきまとうカロリーの呪縛は、ひとりで暮らし初めてから始まったような気がする。一人暮らしをする上で、お菓子を買う金銭的な余裕とカロリーを許せる心の余裕をもつことは、わたしには結構難しいことだった。
デザートや嗜好品を買うと金銭的に、金銭面を優先させすぎると心がすさむので、なかなか大変なバランスを取って生きていたのだが、最近は忙しすぎて心の余裕がなくて、胃袋のキャパもわからないくらい疲れていた。
何かにどうしようもなく縋りたかった。
だから懐かしいあの味を求めた。偶然とも言えるけれど、たぶん無意識的に求めていた。
ティラミスはイタリア語で、「私を引き上げて」という意味らしい。
ティラミスの甘くて歯ごたえのない、無条件に受け入れてくれるやさしさが、どん底にいる自分をひきあげてくれるような感じだろうか。
そうだとすれば、ティラミスはきっと、他人に無条件に助けて欲しいと思うほどに心が疲れてしまった人が行き着く先なのかもしれない。
ティラミスは何も否定しない、必要以上に干渉してこないし、いつだって優しい。それはある意味無関心だとも言えるくらいに。しかし上品な甘さと濃厚な優しさは、万人に好かれ、すべてを受け入れてくれるように思える。
スイーツの理想型だ、と思った。
人間はそんなティラミスの優しさに無意識に惹かれてしまうのかも。
今どん底にいるわたしを、ティラミスだけが引き上げてくれる。
わたしにもそんな風に輝いて見えていたのかもしれない。
実際、わたしの思い出の味とは違ったけれど、ねっとりとしたマスカルポーネチーズはわたしに優しかった。
しかしかえって、あれほど身近で、当たり前にあったものが今ここにないという事実が、よけいにわたしをノスタルジックな気持ちにさせた。
わたしが食べたかったのは、どこのティラミスでもなく、あの日あの場で、あのタイミングで食べたティラミスだったんだな。
思い出のティラミスは、手作りの優しさ、当時の思い出と家族との暮らし、ぜんぶが懐かしくて、もう戻らない寂しさもあってか、こんなに孤独な心にはより魅力的に映った。
たぶん、人に囲まれる暮らしへの郷愁と、ティラミスへのイメージが一緒くたにされすぎていたのかも。
次は、この孤独を耐えたご褒美として、ティラミスを自身に与えたい。
孤独や辛さのシンボルじゃなくて、単なるデザートとして。
お祝いのためにティラミスを買う選択肢と、心の余裕が出来れば、本当の意味でひとりで暮らせるはずだから。
だからわたしはコンビニでティラミスを買う。
思い出だけにこだわらず、これからの生活のために。