切れたスカートとわたしの気持ち
小学一年生の時、わたしはスカートの裾を切った。
とくに深い意味は無かったけれど、あたらしいハサミをどこかで試したかったのかもしれない。ばれないように、1cmにも満たない小さな切れ込みを入れて、自分だけが知っている内緒ごとをつくったつもりだった。
「スカート、どうしたの?」
お母さんが次の日聞いてきた。
「自分で切った」
「ほんとうは?」
「自分で切った」
わたしは本当のことを言っているのに、違うことを言わなきゃ、話が終わらなさそうだったから、
「男の子がスカートめくってきて嫌だったから、むしゃくしゃして切った」
はんぶん本当、半分こじつけの説明をしたら、母はもうそれ以上聞いてこなかった。
「スカート切っちゃったの?どうしたの?先生に言ってごらん?」
隣のクラスのベテランの先生が聞いてきた。
「なんでもないです」
「ほんとうは?」
先生は目の奥をじっと見て、もう1度聞いてきた。
わたしは母に言ったことを、もう一度繰り返した。
クラスの男の子が、
「スカートめくってごめんね」
その日の放課後、先生と一緒に謝ってきた。
ほんとうは彼以外にも、同じことをしていた子もいるのに、わたしが名指ししちゃったからだ。ごめんね。
わたしがここで許さないと、話が長くなってしまう。
はやくかえりたいのに。
そっちのほうが面倒だ、と諦めたわたしは言った。
「いいよ、もうしないでね」
えらいね、って先生は褒めてくれたけど、納得はできなかった。
それでその話は終わった。
今にして思えば、大人達はわたしを心配してくれてたんだと思う。
しかし、これではわたしの気持ちが無視されている、とも思った。
スカートが切れている、という事実だけが取り上げられて、わたしの言ったことは、いじめられっこが自身をかばうための言い訳みたく聞こえたのだろう。
実際、スカートめくりが嫌だったのは本当だし、それを期に終わったのは良かった。先生がきちんとみんなに伝えてくれたんだなと思う。
でも、
あのころのわたしは、自分が言ったことよりも、大人が納得する理由の方が大切なんだ、と思った。
自分の思いを伝えて理解して貰うことは、難しくて面倒なことで、それらしい嘘をつくほうが簡単で楽なことだって気づいてしまった。
だからすごく悲しかった。
時間を取られてまで嘘をついて、不利益を被るのはわたしなのが、すごく無意味だと思った。
大人として正しいことを、二人はしてくれたんだと、今なら分かる。
けれど、それはわたしがして欲しかったものじゃなかった。
しかし、それを伝える能力がなかったわたしも悪かったと、今なら思う。
だからこそ、今は気持ちを言葉になおすことが、どれだけ大切なことかわかる。
自分の気持ちは自分にしか分からないし、伝えようとしたところで、全ては伝えられない。
それはどうしようもない事実だし、この努力はやめちゃだめだ、と今は強く思う。