【媚びない女装戦士、細川和夫】
渋谷は雨。24時半の空気は、コンクリートを舐めたような、無機質な風味。スマートフォンは私に終電を教えなかった。さて、今からどうしようか。
西船橋までタクシーで帰るのは現実的じゃないし、かと言ってこのままじゃいかにも“終電を逃した女”みたいな感じだし、雨も降ってるし、困った。傘を買おうにも、最寄のコンビニまで走る間にびしょ濡れになるだろうし、一度びしょ濡れになったらもう、傘は無くていいやと思うだろうから、とりあえずコンビニに行く意味がないことは見えていた。となると身動きが取れないなあ。私の上を覆いかぶさる高架のおかげで濡れずにいるけど、どうせ覆いかぶさるなら布団みたいに密着してくれたらそのまま夜を空かせるのに、なんて思ったりした。どうやらまだ酔いが覚める気配はなさそうだ。
それにしても今日は飲んだ。そんなに飲むつもりじゃなかったけど。でもよく考えたら、そもそも渋谷で合コンという時点で気付くべきだったのだ。同級生は結婚してる人の方が多い歳。相手方は更に二つ年上と聞いていた。そんな年代の男が合コンの場所を渋谷に設定するという、そんな発想をする奴らな時点で、いろいろ察するべきだったのだ。勤め先(とそこから推定される年収)に翻弄されてはいけないと、この5年くらいで幾度となく学んだはずだった。私は全然成長していない。
ただでさえ、雨の中終電を逃して意気消沈しているのに、自分で自分に不甲斐なさを突きつけて、本当に何をやっているんだろう。ああ、でもこういう時に「クソつまんなかったなあいつら」という言葉遣いにならなかっただけ私も成長したというものか。大学生の頃の私なら確実にそう吐き捨てただろうし、なんならクとソの間にご丁寧にちっちゃい“ツ”まで入れて、罵ってる感たっぷりに「クッソつまらんかったわ!」と方言まで織り交ぜて吐き捨てたことだろう。そう思うと私、「やれやれ、私ったら」みたいなお上品な反省ができるようになってるではないか。確実に大人になっている手応えを感じながらも、そこでまた冷静になって「なんだそれ」と呟いた。いい加減このほろ酔いから覚めたい。
「お姉さん、大丈夫?」
酔っ払ってるっぽい、頬を赤らめた黒縁メガネのおじさんがナンパしてきた。それみたことか、私が逆の立場だったら絶対ナンパするよなこんな奴。おじさんも、年齢の割に若々しい感じではあるが、このいかにもおじさんな感じのメガネがダメだなあ。
「か、彼氏が迎えに来るんで」
目一杯冷たくあしらってみた。おじさんは「んぁあ」みたいな声を出して、遠くに消えていった。ほら、渋谷のこういうところが苦手だ。いつもは何の気無しに放つナンパ避けの「彼氏が〜」も、こんな状況だと繰り出すのにちょっとした精神力が要る。虚しさに蓋をした。ていうか、ナンパするならもっと粘れよ。こっちはなかなかの心のコストを払って「彼氏が〜」とか言ったんやぞ。ちくしょう。
そういえば、まゆこは今頃彼の家に着いてるんだろうか。風呂に入って、あったかい布団にくるまっている頃なんだろうか。
合コンの主催者は会社の先輩ナミさん。大学のサークルの同期の会社の先輩のツテで集めてもらった男性陣だったらしい。一次会で鮮やかに解散となった直後、ナミさんはタクシーとともに夜の闇に消えていった。きっと例の彼氏でもない商社マンのもとへ向かったんだと思う。もはや清々しいとさえ思う。そして、彼氏がいるのに数合わせで半ば強制的に参加させられた(と本人は言ってた)私の同期のまゆこは、反省会と称して焼鳥屋さんに付き合ってくれた。明日彼氏とデートなのと言いつつ、開口一番ににんにくのホイル焼きを頼むあたりがまゆこの憎めないところだ。彼女の好きな食べ物は茄子の浅漬けとマルチョウらしい。背中にファスナーがついてて、ある日急に中から小さいおじさんが出てきても多分私は驚かない。今日の合コンの愚痴に始まり、何事もなかったかのようにオトコの元に消えてったナミさんについては愚痴を通り越してあれくらいじゃなきゃいけないのかもしれないという変な悟りまで開き、そういやナミさん途中からチラチラスマホ気にしてたな、もう会の途中から男と連絡取ってたよねあれ、という記憶探検も挟み、気づいたら“人は歳を取るに連れおじいなのかおばあなのかわからなくなるよね“というよくわからない議論をしていた。もう十分に酔っ払っていた。気の置けない友人とわいわい話しながら少々汚いくらいの店で飲むお酒が一番うまい、なんて思っていると、まゆこのケータイに着信が来た。まゆこの彼氏が迎えに来るとのことだった。もうすぐ日付が変わりそうな頃、私たちは焼き鳥屋を出た。すぐ見えるところに、ウィンカーを点滅させたタクシーが止まっていて、そばで爽やかな長身の男性が立ってこちらに手を振っている。嬉しそうに駆け寄っていくまゆこを見送り、私も西船橋への帰路に着いた。
帰路に着いたはずだった。駅へ向かう足取りとは裏腹に、私の親指は今からこの辺りで飲める人を探した。いや、誤魔化さずに言うと、飲んでくれる男を探した。だって三連休の初っ端の土曜日の夜だ。このまま帰るのもなんか悔しい。いつもは全然要らない時に、都合よく連絡してくるくせに、こういう時には既読すらつかない。どこぞで知り合ったあいつとかあいつとかにとって私は結局、ただの女Aでしかないのだ。それを思い知らされるようだった。気づいたら雨も降り出していて、駅のそばの高架の下で足は止まり、既読が点くのを待っていた。既読が点くより早く、駅のシャッターが閉まった。そこで終電が無くなったらしいことに気づいた。私がメッセージを送ったあいつとかあいつは、今頃、女Bとか女Cとかと一緒にいるのだろう。別に全然いいけど、なんか腹が立つ。
「お姉さん、今から俺らと飲まない?」
絶対ついて行っちゃいけない系のガタイの良い男が二人話かけてきた。なんとも頭の悪そうなツーブロックをして、もう眉毛はほぼ無いといっていいくらい細い。『男の眉毛の細さとヤバさは比例するからね』とまゆこが言ってたのを思い出し、余計に怯えて、
「飲まねい」
と言った。「飲まねえよ」と言いかけた。危ない。
「でも俺らはお姉さんと飲みたいよ?」
ああ、私は意思疎通を諦めた。このビジュアルで日本語が通じないタイプのニイちゃんは本当にダメだ。走って逃げようかな。
「ごめんなさい。彼氏が来るんで。」
「え、じゃあ彼氏が来るまで飲もうよ。お姉さん一人じゃ危なく無い?」
怖い怖い。この状況がもうすでに危ないだろ。さっきの「ナンパするならもっと粘れよ」を聞かれてたのかと思うくらい、とにかくしつこい。なんなら肩に腕を回されてるし、ここまできたら普通に怖い。ダメだ、誰かに電話掛けてみよう。まゆこ出てくれるかな。慌ててカバンに突っ込んだ手でスマホを取り出す。スマートフォンは静かに息を引き取っていた。孤独感と恐怖が加速する。
「カラオケの気分だな、俺は」
「いいねえ。すぐそこのカラ館でいい?」
もうこいつら二人で会話し始めてる、私が何かの道具に見えているのか。私の意思を介在させる気が全くない、その感じもひっくるめて、とにかくもう冷静ではいられなかった。
「待ちなさい」
背後から低い声がした。
たぶん、たぶんなんだけど、性別は男のおばさんがそこに立っていた。もう一度言う、性別は男のおばさんがそこに立っていた。
「なにあれ。」
「きも。」
首から上は完全におじさんなのだ。やけにキューティクルのキレイなセミロングの髪は一目にカツラとわかる。しかし首から下、ジャケットから覗かせた、紺のトップスは代官山でランチをするマダムのそれ。白のパンツからスラリと出たくるぶしは完全に女のくるぶしで、もう正直何がなんのこっちゃかわからない。センター試験の国語を解いているときの様な、意味がわかりそうでわからない、そんな複雑な感情になった。そのおじさ、おばさんの方を振り返って、細眉毛×2は嘲りながら言った。
「なんだよお前」
「細川です」
名乗るんかい。
細川さんと名乗るおじさ、おばさんは一歩ずつこちらに近づく。
「嫌がってるでしょうその子。離してあげなさい」
「なんなのおっさん。関係なくない?」
「きもいんだよ。どっかいけや。」
「・・・ふぅ」
細川さんのため息のようなものが聞こえるか聞こえないかくらいのタイミングで、細川さんは細眉毛ズに向かって駆け出した。その数秒後には、細眉毛ズの片方は脇腹を抑え地面に膝をつき、片方は「痛い痛い痛い」と声を上げ、細川さんはうちはサスケのような体勢とって、2人をとっちめていた。
細眉毛ズの片方は、地面に膝をついた姿勢を立て直す勢いそのままに、細川さんに向かって裏拳を繰り出した。が、細川さんの軽快な身のこなしの前にはそれも虚しく、繰り出した裏拳が細川さんの顎先を通り過ぎたあと、その手首を掴まれ、軽やかに関節を決められていた。もうちょっと続けてほしいくらい清々しい一連の技だった。
「まだやるの?」
奇妙な女装おじさんがやけにかっこよく見える。
「んだよ。チッ」
というザコキャラのお手本のような捨て台詞を最後に、細眉毛ズは雨の渋谷に消えていった。
「あの、ありがとうございました」
「いいのよ。なんてことないわ。」
最後の裏拳をかわした時にずれ落ちたカツラを拾い上げながら、細川さんは静かに言った。
「あなた、スキだらけよ」
「へ?」
「声をかけてくれと言わんばかりの佇まいだったわ。図らずも終電逃しちゃった感じがムンムンしてた。その割に誰かにかまってほしい顔をしてたし、そりゃ変な男に捕まるのも無理ないわね」
細川さんは急にすごい喋った。
「す、すいません」
「謝ることはないわ。そういう経験を繰り返して、女はディフェンスを磨けばいいの」
「はい」
なんで私はこんな首から上はおじさん・首から下はおばさんな生き物に、深夜の渋谷の路上で説教をされているのだろう。
「防御は最大の攻撃よ」
「はい?」
「いかにも守りの堅そうな女っているでしょ。そういう子に向かって「それじゃあ男が寄り付かないよ」という女もいるけどね、違うのよ。」
半人半獣が、電子タバコを燻らせ遠くを見つめながら、何か語り出した。
「ゴールキーパーの居ないゴールに向かってしかシュートを打たないフォワードじゃダメなのよ。いかにも強固なディフェンスを前に、なんとしても切り崩そうと頭と体を賭して戦う男はいい男ね。」
「は、はぁ」
「 守りが固いってことは、そういうちゃんとした男気のあるメンズを篩いにかけるという意味では効果的なのよ。余計な男に時間も金も割かなくてよくなるしね。防御こそが最大の攻撃なのよ。」
「・・・なるほど」
「バカみたいに体型の出る服を着て、オトコの視線を集めて、承認欲求を満たして満足してるバカみたいな女がいるでしょう。そういう奴に限ってSNSでモテるアピールを散々するけどね、ああいうのは最終的にバカな男ばかり身の回りに集まっちゃうのよ。無駄だと思わない?」
頭の中をナミさんが通り過ぎて行った。
「思います。」
「やだ、私ったら、初対面の女の子に講釈垂れちゃったわ。歳を取ると、説教くさくなって嫌ね。でも私はね、そうやって媚びないようにして生きてるのよ。」
「すごくいいと思います。」
この男と女のちょうど中間に居る、初めて見る生き物が説く教えに私はすっかり飲み込まれていた。両方の視点を持ってるのかもしれない、だからか、言うこと一つ一つに妙な説得力がある。この歳になると、こうして生き方を説いてくれる大人はどんどん居なくなってくる。そう思うと、細川さんが途端に頼もしく、そしてありがたく思えてきた。
「じゃあ、行くわね」
細川さんは携帯灰皿に電子たばこの吸殻をしまいながら向こうを向いた。
「すいません!」
思わず声が出た。
「あなた、何者なんですか」
「 “媚びない女装戦士、細川和夫” 」
低い声で言った。
「困ったときは連絡なさい。あなた、迷ってる顔をしてるわ」
“女装バー”と書かれた、飲み屋の名刺にメールアドレスを殴り書きで教えてくれた。「k_hosokawa.kobinaikobinai@josobar.co.jp」と書いていた。
ケー・ホソカワの後の“コビナイコビナイ”がやけにツボにハマってしまい、にやけが止まらなかった。
「あなた、笑うととても可愛いわ。大事になさい。じゃあね」
そういって、カバンから取り出した黒縁メガネをかけた細川さんは、どこかで見覚えがある気がした。
雨が大人しくなった渋谷の空気は、ほうれん草のお浸しの香りがした。
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