真夜中のミスド、12年越しの謝罪。記者人生は巻誠一郎さんとともに
noteで公開させていただいた記事が、前回で10本になった。
いずれも記者時代のエピソード。当時の取材対象にご理解をいただいて、回を重ねられている。
「『空回りし続けな』。中村俊輔選手からの伝言」の回の際には、ご本人からこんなメッセージをもらった。
「この記事、空回りしてんぞ!」
そして、他にもお世話になっている方々がいる。
特にお力添えいただいているのは、バズフィード編集部の千葉雄登さん。それから、LINEニュース企画チームの笹山七海さんだ。
千葉さんは、医療や貧困の問題を中心に、新卒入社直後とは思えない健筆をふるわれている。
笹山さんは、学生時代からハフポスト日本版で編集業務をされ、新卒でLINEに入社された。
おふたりには、noteで公開する前の原稿に「第一読者」として目を通してもらっている。
指摘いただくのは「自分とは違う世代から記事がどう見えているか」だけではない。人脈自慢ととられないか。間延び感はないか。全般的な感想を聞かせていただく。
僕は信頼できる「デスク」だと思って、ご好意に甘えている。
そもそも、noteを始める際に特に背中を押してくださったのが、このおふたりだった。
あらためて感謝するとともに、こうした出会いがあるのは転職したからこそだと、強く感じる。
そして、今のおふたりと同じ20代のころの自分の仕事ぶりを思い返し、ひとり赤面する。
若い僕には、おふたりのようなビジョンも、志もなかった。小さな手柄ほしさに暴走しては、取材対象の皆さんにも迷惑をかけていた。
今回はある取材対象にまつわる「後悔」と、その後の15年以上にわたるお付き合いについて、書かせていただきたいと思う。
自覚もないまま「特別な立場」に
2006年5月15日。僕は日刊スポーツ新聞社の横浜F・マリノス担当記者として「一報」を待っていた。
ジーコ監督による日本代表メンバー発表。会見場では、ドイツワールドカップに出場する選手たちの名前が、次々と読み上げられていた。
僕はマリノスの練習場の近くで、記者仲間の乗用車のカーナビに映し出されたワンセグ放送に見入っていた。
チームからは、中澤佑二選手の名前が早々に挙がった。おそらくもうひとり、久保竜彦選手の名前も呼ばれるだろう。
だが、ジーコ監督はそんな衆目の予想を裏切った。
「ヤナギサワ、タマダ…マキ」
メンバー最後の23人目として読み上げられたのは、久保選手ではなかった。
ジェフユナイテッド市原・千葉の巻誠一郎選手。いわゆる「サプライズ選出」に、会見場に詰めかけた記者からはどよめきが上がった。
その前年。
記者として初めての担当クラブとして、僕はジェフ千葉を取材していた。
巻選手とも顔なじみではあった。
オフに熊本の実家におじゃまして、久々にアイスホッケーをする貴重なシーンを撮影させてもらったことはあった。
(※巻選手は高校2年生までサッカーと並行してアイスホッケーに取り組んでいて、国体にも出場したという珍しい経歴の持ち主である)
だが、それ以上の関係というわけではなかった。
会社からの指示も「絶対に久保竜彦の落選コメントを取れ」だった。非常に難しいミッションでもあったので、すぐに巻選手のことを頭から消し去った。
いったんマリノスのクラブハウスに戻る。すぐに他の記者から距離を取って、電話で各所にリサーチをかける。
久保選手は新幹線で、腰の治療をしていた山形から横浜に向かっているという情報をつかんだ。キャッチするなら、乗り換えの東京駅だ。
それがダメなら、自宅にいくしかないかー。
いずれにしても動き出さねば。こっそりクラブハウスを抜け出そうと思ったところで、広報からメールが届いた。
「久保竜彦の会見をクラブハウスでやります」。
僕と同じように、久保選手に東京駅、あるいは自宅で直撃しようという動きが各所で起きた。それを察知した広報が「それなら会見をした方がいい」と判断した、ということだった。
とにかく、会社に言われるがままに動いていた。
久保選手のコメントを取れと言われたから取った。それだけだったと思う。
つとめて明るく質問に答えていた久保選手が、ワールドカップにどれだけ懸けていたのか。
それを僕がきちんと知るのは12年後。転職先のLINEニュースでインタビュー企画をさせてもらった時を待たねばならない。
いずれにしても、その日は久保選手落選のニュースを紙面化することに追われて終わった。
日付が変わり、16日午前0時30分。デスクへの最終連絡をすると「そういえばお前、巻とは親しいんだよな?」と聞かれた。
親しいと言えるかな…。一瞬ためらったが「はい」と答えた。
すると「そうか。じゃ、次は巻だな」と指示された。翌日から、横浜F・マリノスとジェフ千葉の現場を掛け持ちすることになった。
「あっ、塩畑さん!」
「時の人」が向こうから声をかけてきた。
ジェフ千葉の練習場には、驚くほど多くの報道陣が詰めかけていた。巻選手を追うため、都心から100キロの姉崎公園に足を運んでいた。
巻選手はその中に紛れていた僕を見つけて、あいさつをしてきた。
どぎまぎしながら「お、おめでとう」と何とか言葉を返す。そんな仲だったかな…?自分が一番信じられなかった。
その前年、ジェフ千葉はナビスコ杯で初のタイトルを獲得した。だが年間を通して、練習から取材していた新聞記者は、僕くらいのものだった。
それはひとえに、日刊スポーツ新聞社の方針のおかげ。自分で主張して勝ち取った権利ではなかった。
いずれにしても、結果として僕は「フィーバー以前から追い続けてきた記者」という立ち位置を得ることになった。
ただただ、幸運というほかない。
おいしい状況。自己満足の果てに
ワールドカップが終わった。
ジーコジャパンは1次リーグ3試合で1勝もできず敗退した。
だが巻選手は、大会前と変わらずに注目されていくことになる。
ジーコさんの後任として、ジェフ千葉のオシム監督が日本代表監督に就任したからだ。
身体を張って味方側にボールを残す。前線を広く走り回る。
オシムさんが求めるフォワードの象徴として、クラブ時代からの教え子である巻選手は脚光を浴びた。「サプライズ」ではなく、代表の中心になった。
ただ、このころから、彼は報道陣に多くを語らなくなった。
オシムジャパンには、巻選手以外にも多くの選手が招集されることになった。それが一部で「縁故採用」「千葉ジャパン」と報じられた。
巻選手はいつも、自分に対する批判は素直に受け入れていた。
だが同僚に対する批判、そして何よりオシム監督に対する批判であるこうした報道には、怒りをあらわにした。せめて、どんなサッカーになるかを見てからにするべきではないのか、と。
練習後も。試合後も。
彼は厳しい表情のまま、取材エリアを足早に通過するようになった。
だが、そんな中でも、僕は巻選手を取材することができた。
以前から取材してくれているこの人だけは違う、と思ってくれていたのだろうか。
だが、はっきり言って、僕はそうした信頼に足るような経験や気概を持った記者ではなかった。
後に、多くのアスリートの皆さんから学ばせていただき、動機づけもできた。少しはマシな記者にはなったと思う。だがこの時は違った。
単純にこう思っていた。
「おいしい状況だ」と。
取材エリアの隅で、僕はこそこそと、それでいて他の報道陣に見えるように、巻選手のコメントを「独占」した。
それを「僕だけが聞けました」と言って会社にアピールしては、大きな扱いの記事として書かせてもらう。
会社も評価してくれた。
自分は今、いい取材ができている。そんな満足感に、僕はどっぷりと肩までつかっていた。
だが、言うまでもなく、それは自己満足に過ぎなかった。
ある時期から、会社からの反応が悪くなった。「また巻を書くの?」「他紙は違う選手で書いてきているのに?」
とくに、後者は切実だった。
ジェフの選手たちと距離を置く媒体が増えた。
サプライズ選出以来、報じられ続けることで高まっていた巻選手のメディア的な価値が、一気に下がってしまった。
会社の同僚からも、露骨に言われるようになった。「巻のどこがええねん。オレにも分かるように説明せえよ」
反論しても「そんなんお前の思い込みやんか」と取り合ってもらえない。
なぜだ。なぜこうなった。みんな分かりもしないくせに…。
大先輩の教え。いまさらの後悔
「理解されていない」と感じるようになり、周囲との軋轢が増えた。社内のサッカー担当記者の中でも浮いていたように思う。
僕は担当クラブを外され、内勤を命じられた末に、2010年にゴルフ担当に配置換えされた。要は、外された。
ただ、それは転機にもなった。
異動直前。僕は担当していた中村俊輔選手から、それまでの価値観をひっくり返されるような一言をもらった。
すべてをリセットするつもりでやろう。入社以来、初めてそう思った。
なぜ、自分は取材をするのか。本当の意味で、自分にしかできないこととは何なのか。
そんなことについて、遅ればせながら真剣に考えるようになった。もう33歳になっていた。恥ずかしい限りだが、考えないよりはマシだとも思えた。
そんな中で、大阪を拠点にするゴルフ担当記者の先輩から、あるエピソードを聞いた。
あのイチロー選手と、日刊スポーツの大先輩のやりとり。僕はハッとさせられると同時に、深く後悔することになった。
高原寿夫さん。イチロー選手が、プロ3年目にして大ブレイクした1994年から、ずっと取材を続けている記者として知られている。
僕がゴルフ担当の先輩に聞いたのは、そんな高原さんが"国民的スター"に意見を言ったという話だ。
メジャーに移籍したイチロー選手が、年末年始に帰国した時のこと。自主トレをしている現場で、囲み取材が始まった。
報道陣の中に、初めて現場に来る記者がいた。
思い切って質問をしたが、少し的を外してしまって、まともに答えてもらえなかったという。
高原さんはイチロー選手を、このような趣旨の言葉で諭したそうだ。
「彼女も仕事として、一生懸命やっている。最初は不慣れ、というのは仕方がないことだ。何より、彼女の向こう側にも、記事を読むたくさんのファンがいる」
だから、何とか答えてやってほしいー。そう願ったのだという。
プロは自分の仕事に誇りを持っている。
その領域についての質問で「これは違う」と感じれば、強いストレスを感じる。そうしたものだと思う。
それくらいのこだわりがあってこその一流選手、という気がする。多くのアスリートに接してきた上での確信でもある。
ただ一方で、プロアスリートはファンあっての存在だとも思う。
できるだけ競技に専念しつつ、それでいて社会から離れた存在にならないように。広い支持を得られるように。
そのつなぎ役こそが、記者の仕事ではないだろうか。
“高原さんの言葉“で救われたのは、何もその記者の方だけではない。
きちんとした取材対応に基づく記事によって、ファンも救われた。そして、真意を伝えるチャンネルが保たれたという意味では、イチロー選手にとってもプラスだったのではないか。
取材対象の価値、そして記事の価値が高まる。ファンが喜ぶ。
三方よし。これこそ、あるべき取材現場の形。そう感じた。
それに比べて…とすぐ思った。巻選手の取材現場のことだ。
僕が「独占」したばかりに、ファンの皆さんが選択できる記事の数を大幅に減らしてしまった。巻選手の価値も毀損した。彼と報道陣との関係も壊してしまった。
誰にとってもプラスにならなかった。業界の宝だった巻選手をそういう状況にしてしまったという意味で、サッカーにとっても良くなかった。
取り返しのつかないことをした。頭を抱えたくなった。
空回りする贖罪。遅ればせながらの謝罪
その直後。担当していた男子ゴルフの取材現場。
池田勇太選手がケガのため、ツアー戦の初日スタート直前に棄権する、ということがあった。
彼は早朝6時に会場を訪れ、手続きを済ませると、広報スタッフにケガの状況についてのコメントを託して去ろうとした。
僕はたまたま、その場に居合わせた。
「いやいや。勇太プロはスター選手なんだから、取材を受けてから帰りなって」
「なんだよ。せっかくコメント預けてきたのに。どうしてもって言うなら、お前の取材だけは今ここで受けるから。それでいいだろ」
「それじゃダメだよ!記者はそれぞれ聞きたいことがある。みんなの取材を受けないと!」
申し訳なさすぎる。
「自分だけで独占してはいけない」と思うあまり、たまたま目の前に現れた相手に、必要以上に強く当たってしまった。
彼は懐が深い。後に「お前の言ってくれたことは、正しいっちゃ正しいよ」と笑ってくれた。こちらが詫びなくてはいけない筋合いだったと思う。
周囲からどう見えていたかはわからない。
ただ僕は「とにかくあの失敗を繰り返さないように」と念じ続けていた。
そして2015年。サッカー担当に戻った。
2016年4月。熊本地震が起きた。
当時、巻選手は地元クラブのロアッソ熊本でプレーしていた。すぐに復興支援の活動にフル回転しだした。
罪滅ぼしになるとは思わない。でも、できることは、何でもしたい。
僕はそう思った。最初は電話取材。そして現地に足を運んで。彼の活動を記事にさせてもらった。
かえって邪魔になったこともあったかもしれない。でも、僕にはこれしかできない。
日刊スポーツを退職し、LINEニュースに移った後も、取材をさせてもらった。
2018年4月16日。
震災から3年の節目も、僕は彼への密着を続けていた。
その日の復興支援活動が終わって、夜になっていた。
1日を振り返る話を聞きたいと願うと、巻選手は熊本市内中心部のドーナツ店を場所として選んだ。
周りは女子高生ばかり。
その中で、100円のコーヒーを飲みながら話を聞いた。
なんとなく、ここかなと思った。
僕は12年前のことを詫びることにした。
「あの時、他の記者の取材も受けるように勧められなくて、本当にごめん」
巻選手の12年間と、僕の12年間と
「ああ、そんなこともありましたね」
巻選手はほほ笑みながら、うなずいて聞いてくれた。
「でも、あのことがあったから今がある。僕はそう思っていますよ」
コーヒーを一口だけ挟んで、彼は続ける。
「こういうことをすれば人の心は離れてしまう、というのがよく分かりました。そこって、塩畑さんに言われて未然に防げてしまっていたとしたら、身に染みて分かるとまではいかなかったと思うんですよね」
「どんな形であれ、報じてもらえているうちが華だな、というのも強く感じました。それも、急に報じられるのと、急に報じられなくなるのを、どちらも体験したから。本当の意味で分かった気がします」
女子高生たちが一斉に席を立った。急に店内が閑散とした気がする。
「批判的だった媒体の方たちも含めて、たくさん報じてくれたからこそ、顔と名前が売れた。それが復興支援の活動をする上で、すごく役立っています。どこの避難所に行っても、歓迎してくださりましたから」
「だから今は、報道の方を見かけたらこっちから追いかけていきます。なんか話しましょうか?って。ヘンな選手だな、って思うでしょうね。記者の皆さんも」
そう言って、彼は笑って見せた。
マスコミと距離を置いてから1年ほど。
巻選手は自分から報道陣に歩み寄り、取材を受けるスタンスに戻した。夫人の勧めもあったという。
2010年には、当時のクラブ幹部から事実上の戦力外通告を受け、ジェフ千葉を退団した。
功労者に対してひどい仕打ちではないか。そう思って駆け付けた退団会見で、彼はそれでも「いつかはジェフに戻ってきたい」と語っていた。
新天地はロシア。アムカル・ペルミでは、移籍をめぐってクラブから「軟禁」されるという経験までした。
中国の深圳紅鑽をへて、J2東京ヴェルディへ。この当時、たまたま幕張のコストコでばったりと会ったことがあった。
「千葉から電車通勤しています。よみうりランドの練習場まで片道2時間くらい。会社勤めの皆さんはずっとこういう思いをされているわけですよね」
そんなことを言っていた。
その後、ロアッソ熊本に移籍。熊本地震を経験する。
そして今、彼は語っている。
「あの時、批判的な報道もあったからこそ、顔と名前を知ってもらえた。ふるさとのために働けるようになった」と。
彼の12年間、その重みを感じた。
僕は僕で、いろいろな経験をして、少しずつだが成長できた気でいた。ただやはり、アスリートの人生というのは密度が違う。
僕ら会社勤めよりも波乱万丈で、凝縮された人生を送っている。
そして、それらをしっかりと糧にできると、こうした「達観」にたどり着くこともできるのだろう。
普段なら言葉を返して、もっと取材対象の考えを引き出すところだ。
だが、この日の夜は、それができなかった。
震災から3年の夜は、静かにふけていった。
あれがあったから、今の自分がありますー。
巻選手の言葉で、僕は救われたところもある。
だがそれでもやはり「みんなの取材を受けた方がいい」と言えなかった後悔、反省はきっと一生ついて回るものだと感じている。
この仕事は三方よしなのか。
転職して、仕事の中身が少しずつ変わっても、仕事の指針はいつもそこだ。
強くこだわりすぎて、周りとぶつかることもある。
池田勇太プロと言い合いになってしまったように。後々申し訳なく思う。
ただそれでも、実感はしている。
社外からも協賛してもらえるような仕事は、そうではない仕事と比べて、やりがいも得られる反響も段違いに大きい。
それは巻選手を取材し続けた十数年の中で、彼が教えてくれたことだ。
◇ ◇ ◇
巻さんは2018年シーズンを最後に、現役を引退した。
そして彼はいま、再び地元・熊本のために動いている。
2020年7月4日。熊本県南部で球磨川が氾濫した。甚大な被害を受けた人吉市で、毎日ボランティア活動を行っている。
その姿は、全国のファンの胸を打っている。
そして僕にとっては学びであり、戒めでもある。
ほんの少しでもいい。
自分の仕事は、世のため、人のためになっているのか。