シャンゼリゼ通りで泣く僕が、国境の街で"ある女性"に教わったこと。
あの有名なシャンゼリゼ通りを、僕は泣きながら歩いていた。
気晴らしに、とパリ市内のホテルの部屋を出た。
地下鉄を乗り継いで、凱旋門の最寄り駅で降りた。
地上に出たところで、電話が鳴った。
残念な「知らせ」だった。すべては無駄だった。聞きながら、何度もため息をついた自覚があった。
やっぱり無理だったんだ。いまさら何ができるというのか。
当てもなく、ただ茫然と、通りを東へとくだっていく。
次の瞬間、激しい腹痛が来た。トイレはどこだ?フランス語でどんなスペルだった?
スマホで調べるが、こんな時に限って、死ぬほど回線が遅い。
絶望をした次の瞬間、自分の真後ろに公衆トイレがあることに気づいた。
安心するのと同時に、腹痛が引いていった。かわりにひどく情けない気持ちになった。
涙が目尻ににじむのを感じた。世界で最も華やかな通りを行く人々に、僕はどう映っていただろうか。
2015年。日刊スポーツ新聞社で働いていた僕は、5年ぶりにサッカー担当記者に復帰した。
そのころ、サッカー界は揺れていた。
日本代表のアギーレ監督に、スペインでの八百長関与疑惑が浮上。やがて解任をされた。
後任は誰か。
何人かの名前が浮上する中で、やがて候補はヴァイッド・ハリルホジッチ氏に一本化されていった。
日刊スポーツは2月24日付の朝刊でそれを報じた。
僕はその前夜、サッカー班の一員として取材を手伝い、朝刊の紙面ができあがった深夜2時半に帰宅した。
缶ビールを開けた瞬間、携帯電話が鳴った。
当時のサッカー班のキャップからだった。
「朝8時の便でフランスに飛んでほしい。ハリルホジッチ氏のコメントを取ろう」
記者になって10年。
急な動きには慣れているつもりだったが、これにはさすがに驚いた。
それでも、スピーカーホンに切りかえて通話をしながらパソコンを開き、予約サイトに飛ぶ。
さすがに直前すぎて、朝の便のチケットは押さえられなかった。
「15時30分の便なら取れますけどね」
「じゃあそれで」
「ちなみにハリルホジッチさんという方は、フランスのどこにいるんですか?」
「あー、パリっぽいんだけど…」
「っぽい?」
「そこも含めて、頼むよ」
電話は切れた。
長くなったやりとりの間に、缶ビールはすっかりぬるくなっていた。未練がましく口をつけてみたが、それ以上は飲む気になれなかった。
時差の問題が頭に浮かんだ。
日本の朝になったら、フランスは真夜中。連絡はとれない。僕はあわてて、現地に住む通信員や旧知への連絡を始めた。
パリについて1週間以上がたった。
ハリルホジッチさんがどこにいるのか、僕はまったくつかめずにいた。
手は尽くしているつもりでいた。
日刊スポーツが契約する通信員や、フランスに住む知人が、新聞記者やサッカー関係者に広く当たってくれていた。だが、まったく情報は得られなかった。
自力でできることには限りもあった。
することがないから、ホテルの部屋で過ごす時間も長くなった。
フランスにまで行きながら、あいつは何もできていない。そう揶揄する会社の同僚たちの姿が目に浮かんだ。
パリで長年取材をする通信員を抱えている新聞社もある。そうしたところに、先にハリルホジッチさんをつかまえられてしまうのではないか。そんな焦りもあった。
ただただ、ストレスばかりがたまる。
これは精神的にかなりよくないと思い、気晴らしにシャンゼリゼ通りに向かったところで、フランスの知人からその「知らせ」が来た。
「パリにはいないらしいぞ。ここに住んでいるって…いったいどんな根拠があったんだ?」
これまでの動きはまったくの無駄だったのか。
「大都市パリの中で人を探す」というだけでも無理じゃないかと感じていた。それどころか「フランス全土の中から探す」となってしまった。
急な腹痛も、絶望感、ストレスからだったと思う。
次の痛みが襲ってこないうちに。それだけを考えて、僕は急いでホテルに戻った。そんな自分が、ただただ惨めだった。
部屋でパソコンを開くと、先ほどとは違う知人からメールが届いていた。
「たぶんリールという街に住んでいる、という話を聞きました」
フランス到着後初、と言っていい、とても有力な情報だ。
もろ手を挙げて喜ぶべきだった。
なのに、気がめいっていた僕には「ベルギー国境の街」というだけでなぜか忌々しく思えてしまった。
そんなところまで探しにいって、いなかったらまた時間のムダではないか。
電話が鳴った。
フランス南部・グルノーブルに住んでいる日刊スポーツの通信員、松本愛香さんだった。
リールにいるらしい。そう情報共有をすると、彼女は即答してきた。
「行きましょう」
リール市郊外にある真新しいスタジアム、スタッド・ピエール・モーロワ。
スタンドを埋める観客のざわめきがかすかに聞こえるプレスルームで、松本さんはひとりの記者と意気投合していた。
「それはオレが書いた本だよ」
そう言って、その地元記者は本の背表紙にサインをしてくれている。
その本は、リールというクラブの歴史をつづった本だった。
情報収集のためにと訪れた市内のクラブ公式ショップで、何の気なしに買っていたものだ。
自分が書いた本を小脇に抱えたアジア人を、物珍しく思ったのだろう。
その記者が僕たちに話しかけて来たところに、松本さんがすかさず「サインをください」とたたみかけた。
彼はかなり気をよくして「何しに来たんだい?」と聞いてくる。
松本さんは「ハリルホジッチさんに会いたいんです」と率直に伝えた。すると、思いもしなかった反応があった。
「電話番号と住所でいいかな?僕の名前を電話で伝えてくれればいいよ」
「よかったですね。私も、働ける間に何とか、って思っていたので」
スタジアムからの帰り道。松本さんがうれしそうに笑う。
彼女はこの日を最後に、通信員の仕事をいったん終え、産休に入ることになっていたのだ。
身重と聞いた僕は、松本さんに「パリまで無理に出てくることはないです」と告げていた。
だが彼女は「日帰りならば大丈夫なので」と言って、TGVで3時間かけてパリにやってきた。
「せっかくリールってところまで絞ってくださったんですから。それにまだそんなにおなかも大きくないし、身体は動かさないと」
パリからさらに1時間かけて、リールの街へ。
松本さんは到着するなり、クラブの公式ショップ、あるいは有名なレストランなど、ハリルホジッチさんに縁がありそうな場所を次々と回ってくれた。
そして「きっと知り合いの記者がいるはず」と言って、リールがホーム戦を行うスタジアムへ。
記者としての申請も手際よく済ませてくれて、プレスルームで聞き込みをしてくれた。
その結果、ハリルホジッチさんと旧知の仲だという記者に出会うことができた。
パリの街まで戻った僕は、グルノーブル行きTGVの始発駅、リヨン駅で松本さんを見送った。
「頑張ってくださいね。インタビュー記事、楽しみにしています」
松本さんは笑顔で手を振り、雑踏の中に消えていった。
最後まで、いずれハリルホジッチさんの取材ができることを信じて疑っていない様子だった。
彼女からすれば「日本から急きょ飛んできて取材をするからには、確たる裏付け、根拠があって動いているはず」と思っていたのかもしれない。
ハリルホジッチさんがリールに住んでいる、というところまでは絞れていた、というのもあるだろう。
だから「できる」と信じて、リールの街で聞き込みを続けてくれた。
わずか数時間しか滞在できない中で、連絡先まで教えてもらえたのは、奇跡としか思えなかった。だが彼女にとっては「必然」だったのかもしれない。
僕がいいトシをして、シャンゼリゼ通りで泣いていたことを知ったら、きっとものすごく不思議がったことだろう。
リールでは、意外にも他の日本メディアの動きは見られなかった。
フランス到着から、僕はずっと「いまさら自分が探したところで」と思っていたが、どうやらそんなこともなかったようだ。
それなりに大きな街であるリール市の中から探す、というあたりにも、あてのなさを感じていたが、実際に探してみればそれほどでもなかった。
地方都市のサッカーコミュニティーは、さほど大きいものではない。
やる前から、いったい何を思い悩んでいたのだろうか。
松本さんは「私がいなくなって、フランス語の通訳は大丈夫ですか?」と心配してくれた。だが、僕にはあてはあった。
日系の飲食店には、バイトをしている日本人留学生がたくさんいる。声をかけていけば、きっと誰かは協力してくれるはずだ。
止まっていた思考回路が、急に動き出した気がした。
忘れかけていた「急な渡仏取材でも自分がやりたいと思った理由」も、脳裏によみがえってきた。
ハリルホジッチさんはボスニア・ヘルツェゴビナ出身。
僕がずっと取材し続けていた、元日本代表監督のイビチャ・オシムさんと同郷であり、旧知の仲でもあった。
脳梗塞を患い、代表監督を退任されたオシムさんの志を、もしかしたら受け継いでくれるのではないか。
もしそうであれば、取材はもちろん「僕らがいかにオシムさんのことを大事に思っているのか」というあたりもあらかじめ伝えておきたい。
そんなことを考えながら、僕はフランス行きの飛行機に乗っていた。
到着後は"捜索活動"の大変さばかりを思うようになってしまっていたが、松本さんのおかげで「初志」を思い出せた。
日本にいる同僚たちがどう見ているか。そんな思いは、頭からきれいに消え去っていた。
何としてもハリルホジッチさんに会う。腹が固まるとは、こういうことを言うのかなと思った。
それから僕はリールにホテルを移し、何度かの電話と、何通かの手紙でハリルホジッチさんに「お話を伺いたい」と訴え続けた。
そして1週間後の3月5日、ついにご本人に会うことができた。
この時のハリルホジッチさんは、さりげなく就任決定の日時を教えてくれつつも「またの機会にインタビューは受ける」と話されるにとどまった。
だが後に、その約束通り、取材の機会をつくってくださった。僕がスポーツ紙からネット企業に移ったのにもかかわらず。
ちなみに、これはハリルホジッチさんの日本代表監督在任中、最後に受けた単独インタビューの機会にもなった。
こうした「松本さんと別れた後の取材の顛末」も、いつか書かせていただくとして…
僕はこの取材を通して、スポーツ記者がいかに「お膳立て」に恵まれているのか、というのを感じた。
会場に着きさえすれば、試合は始まる。必ず取材ができる。
会見、あるいは公開練習なども、広報スタッフがすべての段取りを済ませてくれて、我々は取材をすればいいだけだ。
そうしたものがない、というだけで、僕は途方に暮れてしまった。
普段から取材しているフィールドではない、という理由で「いまさら自分がやったところで」と限界を自ら設けてしまってもいた。
だが、松本さんはそうではなかった。
お膳立てに慣れていないから、お膳立てがないことを不安には思わなかった。
「できる」と信じて進む。
自分が産休前で働けるうちに決着をつける。
そこに徹することで、道を切り開いてしまった。
◇ ◇ ◇
知らない道を進むのには、不安が付きまとうものだ。
だが、その不安には根拠があるのだろうか。
まったく知らない道なのに、不安要素だけはきちんと把握できている、ということなどありえるのか。
リールでの取材を境に、僕はそんなことを思うようになった。
そして2年後、僕は未知の世界であるネット関連企業に、思い切って飛び込んでみることにした。
新しいフィールドに順応するまでには、いろいろな壁はあった。
だが少なくともそれは、事前に不安に思っていたこととは違った。飛び込んでみないと、本当のことは分からないものだ。
ネットに限らず、世の中は日進月歩だ。常にアップデートを求められる。
そんな中でも「いまさらそんなことを自分がやるのは」と尻込みしてしまうのは、得てして人生経験が豊富と自認し、リスクを事前に見通せると思っている人かもしれない。
その「いまさら」は、果たして本当なのか。
自分で自分の可能性にふたをしてはいけない。
いくつになってもチャレンジを続けていきたいと、僕はいつも思っている。
※この文章は、チームブリヂストンがnoteとコラボして開催する「#挑戦している君へ」コンテストの参考作品として主催者の依頼により書いたものです。