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僕はなぜ、祖父の「一杯やっぺ」に応えられなかったのだろう…深い後悔と、尽きない感謝と
在宅勤務の昼は、妻と自宅で食事をする。
先週の水曜日は、わかめうどんに古漬けの梅干しを1つ。
「これがあるとないのでは全然違うよね」とうなずきあう。
なんとなくつけていたテレビの画面の中で、朝の連続テレビ小説「エール」の昼の再放送が始まる。
劇中、戦争の記憶に苦しんでいた主人公の古山裕一が、久々に曲を書き上げた。
実在する楽曲「とんがり帽子」。古山のモデルである古関裕而さんがつくった名曲だ。
メロディーを聞いた僕は無性に懐かしい気持ちになった。
なぜ、こんな気持ちになるんだろう…。
しばらく考えた末に、答えにたどり着いた。
その瞬間、僕の視界でテレビの映像が大きくゆがんだ。
少し顔を上げて、涙がこぼれそうになるのをこらえる。
これは、おじいちゃんが僕のために歌っていた曲だ…。
2014年6月17日、午前6時。
僕はその日のゴルフ取材に備えて、持ち物の準備をしていた。
いつもと違うのは、そこが出張先のホテルではない、というところだった。
茨城県笠間市にある僕の実家。その週の大会は、そこから車で3分のところに会場があった。
国内4大大会の1つである日本ゴルフツアー選手権は、2003年から毎年、笠間市の宍戸ヒルズカントリークラブで行われていた。
2011年からゴルフ担当になった僕は、この週だけは実家から「出勤」をさせてもらっていた。
リュックサックを背負って、玄関のドアを開ける。
するといつものように、早起きが日課の祖父が所在なさげに庭を歩いていた。
「おはよう」
「おお、おはよう。仕事か?」
「うん。行ってくるよ」
「今夜は遅いのか?日本酒のいいやつを買ってあっから、一杯やっか?」
88歳になっていた祖父だが、とても元気にしていた。
日本酒で晩酌をするという日課を、50年以上も変わらず続けていた。そして、僕が実家を取材拠点にするツアー選手権の週を、心待ちにしてくれていた。
「ごめん、今日は選手とご飯をする約束をしてしまったから、帰りは遅くなってしまうと思う」
「そうか…でも選手にかわいがってもらって、大輔は大したもんだな!」
一瞬、寂しげな顔になった祖父だが、そう言って喜んでみせてくれた。
スポーツに携わる仕事を選んだのは、祖父の影響が大きい。
僕の記憶は、祖父のひざの上から始まる。
巨人戦のナイター中継。熱烈な巨人ファンだった祖父が「あーダメだ、また打てねえ」とこぼすのを聞きながら、僕は育った。
当時の巨人は藤田元司さんが監督。王貞治さんが「助監督」だった。
チームは強かったが、それでも当然負けることもある。
「あーダメだ」が限界まで来た夜は、祖父は僕を連れてテレビの前から廊下へと移動する。
そして、プラスチックのバットを僕に持たせると、打ちやすいコースを狙ってボールをトスしてくる。
キレイに芯でとらえると「ほら、ホームランだ」と言ってほめてくれた。
そうやって、巨人の負けの記憶を払しょくしていたのかもしれない。
理由はどうあれ、僕は野球が好きになった。
小学校2年生からリトルリーグに入り、中学、そして高校と野球を続けた。
高校の公式戦に、祖父はいつも応援に来てくれた。そして翌朝は新聞を買い込み、地方版の片隅に載った試合の記録をスクラップしてくれた。
最後の夏の大会、僕の高校は2回戦で負けた。それでも祖父は「大輔だけは打ちまくってた」と言って、とてもうれしそうに紙面の記録を切り抜いていた。
スポーツを伝えると、こんなにも感情移入してくれる人がいる。
祖父に「読者」の姿をみていたから、僕はスポーツ記者を志した。
その年は、ゴルフ取材の集大成ともいうべきシーズンだった。
日刊スポーツでは、ゴルフ担当記者は続けられて1、2年というのが通例だった。そんな中、僕は4年続けてやらせてもらっていた。
特に男子ツアーの方には、かなりの人脈ができていた。
どこの試合会場でも、選手の誰かと食事に行く予定が毎晩入っていた。
実家から通う日本ツアー選手権も、例外ではなかった。
試合が始まった後の土曜日の夜まで、会食の約束で埋まっていた。
毎朝6時に、祖父は試合会場に向かう僕を見送ってくれた。
「今日は遅いのか」と聞いては、寂しげな表情を隠して「頑張ってんだな」と言ってくれた。
大会が終わる日曜日。選手たちはラウンドが終わるとすぐに、笠間市を後にする。
つまり唯一、夜の予定が入らない日だ。僕は祖父に「今日は早く帰るよ」と言って、実家を出発した。
最終日は試合後、優勝選手の会見が行われる。
同じ選手を全メディアが集中することもあり、どうしても取材が長引く。
原稿を書く速さ、仕事を終えてプレスルームを出る早さには自信があった。そうでないと、選手と夕食の約束ができないからだ。
だがこの日はいろいろと時間がかかってしまった。実家に到着したころには、午後7時になっていた。
夜の早い祖父は、すでに就寝してしまっていた。
高校を卒業した僕は、1年の浪人期間をへて、僕は東京の私大に進学することになった。
上京する日、地元の駅までクルマで送ってくれたのも、祖父だった。
祖母は「跡取り息子がなぜ茨城大に進学しないのか」と言って、地元を離れることに納得がいかない様子だった。だが祖父はただ「受験勉強、よく頑張ったな」と言って、笑顔で送り出してくれた。
大学時代の僕は、ディズニーランドでのキャスト生活に没頭し、めったに実家に帰らなかった。
そして社会人になり、休みが休みと言えないような新聞記者の仕事に就いた。
年をまたいで高校サッカー選手権の取材。お盆はJリーグが真っ盛り。
帰省するタイミングはいよいよ見つからなくなった。
そして東京に家を買い、東京で結婚をした。
祖母は東京で行った結婚披露宴の際も「いつ実家に帰ってくるのか」という疑念を僕にぶつけてきた。気持ちは分かる。申し訳なく思いながら、僕は「いつかは帰る」と答えた。
すると傍らで、静かだった祖父が口を開いた。
「いいんだよ。大輔は取材を頑張れ。いつも記事を楽しみにしてっからよ」
そうやって実家から遠ざかっていた僕の転機は2011年、サッカー担当からゴルフ担当への配置換えだった。
1年に1度、日本ツアー選手権の取材のため、1週間続けて実家に滞在することになった。
祖父はとても喜んでくれた。毎晩、一緒に晩酌をした。
祖父はたいてい、途中で一度席を立つ。そしてとっておきの日本酒と、僕が書いた記事のスクラップを引っ張り出してくる。
本当に楽しそうに杯を重ねながら、こう言ってくれた。
「大輔はたいしたもんだな。世界中飛び回って、いろんな選手と話をして」
取材現場では苦しい思いもした。
社内の人間関係に悩み、自律神経失調症になったこともあった。
だがこの祖父の言葉で、すべてが吹っ飛んだ気がした。
記者になって、本当によかった。心からそう思えた。
ゴルフ担当3年目、2013年の日本ツアー選手権は歴史的な大会になった。
石川遼プロと松山英樹プロが、予選ラウンドから同組で回ることになったのだ。プロとして初の「直接対決」だった。
今でこそYouTubeでコラボ企画をしたりと、2人は最大の理解者同士として認め合っている。
だが当時は、同い年として比較されがちということもあって、意識して距離を取り合っているようなところがあった。
だからこそ、メジャー戦での同組ラウンドは、とにかく注目された。
初日から、平日にもかかわらず5000人近い大観衆が宍戸ヒルズカントリークラブに集まった。しかもその大半が、石川・松山組に集中。松山プロが「全米オープンの最終日みたい」と驚くほどの盛り上がりになった。
自然と、記者である僕らの仕事も増えた。
前年までなら、午後6時には完全に仕事を終え、祖父と晩酌を始められていた。それがこの年は、実家に戻った後も部屋にこもって、パソコンをたたき続けなくてはならなくなった。
父や母に「大輔はまだ仕事かかりそうか?」と何度も聞く祖父の声が聞こえてくる。
できる限りと急いでいるうちに、声がしなくなった。どうやら、待ちきれずに眠ってしまったようだ。
大会は、後にアメリカツアーでも優勝することになる小平智プロが優勝。最終日まで大いに盛り上がった。
結局この年は、祖父と晩酌をする時間をまったくとれないままに終わった。
だからこそ「来年は晩酌できるだろう」と祖父は期待してくれていたと思う。
だが、翌2014年も、最後まで時間が取れなかった。
最終日翌日。実家を後にする僕に、祖父は「来年こそは一杯やっぺ」と声をかけてきた。
本当に楽しみにしてくれていたんだな…。申し訳なく思い「うん、来年は必ず時間をつくるから」と約束をした。
それから2か月がたった、8月のある日。
珍しく父から電話がかかってきた。僕は言葉を失った。
「おじいちゃんが入院することになった。肺にがんがある」
風邪をひいたことがない、というのが祖父の自慢だった。
いつも元気で快活。よく飲み、よく食べていた。
いつまでも元気でいてくれるんだろうな…。ごく自然に、僕はそう思い込んでいた。
だから「来年こそは一杯」という言葉にも、特に疑問もさしはさまずに「うん」と答えていた。
年齢を考えれば、何があってもおかしくない。
いつかはまた…とは、あまりにも想像力を欠いた考えだった。
思えば、ずっとそうだった。
必ず長生きする。だから、いつでも会える。そうやって、会いにいくことをいつも怠っていた。
あらゆる可能性を否定せず、想定していく。それは記者にとって基本中の基本だ。
祖父の後押しで僕は仕事に没頭し、取材においてはその基本を守れるようになっていた。
なのになぜ、とても大事な人の未来について、考えを尽くせなかったのか…
いろいろな取材を取りやめて、僕はすぐにお見舞いに行った。
病室のベッドの祖父は、まだ元気に見えた。
ただ、食欲はあまりないようだった。あれだけ食が太かったのに…。それだけで、涙がにじみそうになった。
面会を終え、病室を出たところで、両親にこう告げられた。
「本人にはがんとは伝えてない。あまり頻繁にお見舞いに来ると、かえって不自然になるから…」
普段から帰省していれば、そんなことを気にする必要もなかった。
ただただ、自分のこれまでを後悔した。
取材現場では必死に動いた。
必死でいないと、すぐに身が入らなくなりそうな気がしたからだ。
8月末。僕は渡米した。
以前から乞い願ってきたアメリカツアーのプレーオフシリーズ取材を、会社の上司が許可してくれたからだ。
現地では石川遼プロも、松山英樹プロも、世界最高峰の舞台で大健闘をしていた。松山プロは、賞金10億円の年間王者を決める最終戦にまで進出した。
本当にいい取材をさせてもらった。記者冥利に尽きる現場だった。
だが、ホテルの自室でひとりになると、罪悪感におそわれた。
まさに、こうやって「いい取材」に酔いしれていて、祖父との限りある時間をふいにしてきたのではないか。
眠れないまま、何となく酒を飲んでいた。
特に用はなかったが、パソコンを開く。メールが届いているのに気がついた。送り主は父だった。
画像ファイルが添付されている。開いた瞬間、僕は嗚咽をしていたと思う。
だいぶ体調が悪くなっていた祖父は、何かをする気力を失いがちだったという。
だが、父からのメールの文面によると、この日は珍しく調子がよかったらしい。そして「大輔の記事が読みたい」と言ってくれたそうだ。
「松山も頑張ってっけど、大輔も頑張ってんな」
そう言いながら、何度も何度も、アメリカで僕が書いた記事を読み返してくれていたという。
僕は涙が止まらなかった。泣けて泣けて、仕方がなかった。
そうやって、祖父は自分を責める僕を救ってくれた。
日本とアメリカ、はるか遠くに離れているにもかかわらず、だ。
祖父は僕のことを導き続けてくれた。
最後の最後まで。
帰国してしばらくしたころ、祖父は亡くなった。
早朝に知らせを聞いた僕は、すぐに実家に帰った。
眠りについた祖父の前で、ひとしきり泣いた僕に、父が日本酒の瓶を差し出してくれた。
「大輔と一杯やるから」と言って、祖父がずっと大事にしまっていたものだという。
まず、祖父の分を注ぐ。
遅くなって、本当にごめん。そう詫びてから、ご相伴にあずかった。
◇ ◇ ◇
朝の連続テレビ小説「エール」では、戦後すぐのころに「とんがり帽子」が大ヒットした様子が描かれていた。
少年少女が、合唱をしている。
緑の丘の麦畑 おいらが一人でいる時に
鐘が鳴ります キンコンカン
鳴る鳴る鐘は父母(ちちはは)の 元気でいろよという声よ
口笛吹いて おいらは元気
幼い僕の手を引きながら、祖父がいつも歌っていたのは、この2番の歌詞だった。
僕が世界のどこにいても、祖父はいつも「元気でいろよ」と応援してくれていた。僕が知らないところで。僕が気づかぬうちに。
10月26日は、祖父の七回忌だった。
最後の最後まで、背中を押し続けてくれた祖父のためにも。
僕はこれからも「伝える仕事」に前向きに取り組んでいこうと思う。