<メキシコ・チアパス州>サパティスタ・武装蜂起から20年 自治の現在
( ※2024年1月1日、メキシコ・チアパス州でサパティスタ民族解放軍(EZLN)が武装蜂起し30年目を迎えます。10年前に現地を訪ね寄稿した2014年2月発行の「そんりさ147号」の記事を転載します。)
メキシコ南東部のチアパス州で1月1日、サパティスタ民族解放軍(EZLN)が1994年の武装蜂起から20年を迎えた。北米3カ国(メキシコ・米国・カナダ)によるNAFTA(北米自由貿易協定)を「貧しい農民にとって死刑宣告」とし、協定発行と同日の武装蜂起は、世界に対し大きな問題を提起した。
彼らが武力を行使したのは94年1月だけであり、その後は主体となる農民・先住民族による自治をチアパス州内で進めている。2013年12月、外部から参加者を募り、自治区で開かれた「サパティスタ学校」に参加した。2012年12月から2013年1月と、2014年1月に訪ねた他の集落と合わせ、自治活動の様子を報告したい。
1.歴史
チアパス州東部に、サパティスタの活動拠点ラカンドン密林が広がる。2013
年12月24日から27日にかけて開かれた「サパティスタ学校」を通じ私が訪ねたサパティスタ支持基盤集落「ミゲル・イダルゴ」はここにある。
学校は、2013年8月に続いて12月が2回目となり、国内外から市民活動家、学生、旅行者や他地域の先住民族ら、事前にネットで登録を済ませた2000人以上が参加した。チアパス州内に5ヶ所ある自治拠点「カラコル」に参加者は配属され、滞在先となる各集落に振り分けられた。私は第1カラコル、ラ・レアリダーから80人の参加者とともにミゲル・イダルゴに向かった。
集落では、参加者1人に教師役となる1人の住民が割り当てられ各家庭にホームステイする。3日間の滞在中、寝食を共にし、仕事、日常生活を通じて自治活動を体験する。それが「学校」だ。
私の担当は、私より1つ年上の34歳の男性ホルヘ。気さくで同世代ということもあり、気兼ねなく話すことができた。質問を繰り返しても「聞いてくれることが嬉しい」と嫌な顔せず丁寧に答えてくれた。
ミゲル・イダルゴには先住民族であるツェルタル民族100家族程が暮らし、その内の2家族を除いた全てがサパティスタ派の住民だ。広々とした空間に碁盤の目に路地が走る。集落全体を覆う芝に似た植物が、強い日差しを受けて鮮やかに輝いていた。
ホルヘの祖父で、集落創設者の一人であるセルヒオさん(83)に、これまでの歴史を聞いた。
セルヒオさんは1930年、チアパス州アルタミラーノ市近郊の農場「サン・マルティン」で働く労働者の息子として生まれた。労働者たちは日曜以外の週6日間、朝6時から夕方6時まで、農場で無報酬で働き続けたという。日曜も地主の手伝いをさせられることが多く、外にでる自由は少なかった。チアパス州は、20世紀初頭のメキシコ革命後も農地改革が進まず、大地主の力が維持され、その下で隷属的に扱われる土地を持たない農民・先住民族が数多く存在した。
セルヒオさんらがラカンドン密林に入植したのは1960年。農場サン・マルティンに住む48人全ての労働者とその家族が農場主に反旗を翻す。彼らは3組に分かれて順次農場を去った。当時、土地を持たない農民による紛争が頻発しており、そうした人々が自主的に未利用国有地に入植する例が起きていた。チアパスの地域研究者である柴田修子さんのレポート「チアパス州東部における入植過程をめぐる研究動向」によると、当時、ラカンドン密林地帯は未利用の国有地が多く、土地紛争の解決策として政府は自主的な入植を黙認し、後に申請があったものに対して承認を与えた。政府主導の入植もあったという。セルヒオさんたちもこの状況を知り、密かに仲間と計画を進めていく。農場を去る日、農場主は激昂し、腰にさしたピストルを労働者に突きつけ、「そんなことができると思ってるのか!」と空へ数発撃ち放つ。それでも出ていく労働者たちを、「行かないでくれ。」と泣いて引きとめたそうだ。
鬱蒼と木々が茂る密林を開拓し築いた最初の集落で8年間暮らした後、子孫のためにさらに大きな土地が必要と考え、1969年、現在の集落を含む約1500ヘクタール土地を得てミゲル・イダルゴを建設。その後、他の入植地の人々と組織を作り、農場主や、政策を変更し入植者に圧力をかけるようになった政府から、土地と権利を守る闘いを繰り返した。83年にサパティスタと出会い集落全体で参加。土地を持たなかった時代の体験、その後の闘いの歴史と、サパティスタの掲げる自由と正義、性差別の解消など民主主義の徹底、新自由主義経済政策への反対が融合し、1994年の武装蜂起へと繋がった。
セルヒオさんの写真を撮らせてもらった。撮影をお願いすると、サパティスタのシンボルである黒い目出し帽を部屋から持ち出し日陰のベンチに座った。帽子から除く目が力強い。日に焼けた張りのある肌と、およそ年齢にそぐわない盛り上がる胸回りの筋肉がTシャツ越しに見て取れた。背はけして高くないが背筋が伸びた凛とした姿。未だに現役で畑仕事に出向いている。「働くことが好きだ」と彼は話す。土を耕し生きてきた農民の姿だった。
2.離れる人々
私の教師役ホルヘは、99年から1年半米国へ出稼ぎに行っていた。農場での仕事が主だった。20万円ほどの仲介料を業者に払い、国境までの案内と仕事の紹介を受ける。借金で賄う仲介料は、米国へ渡れば2~3ヶ月で返せたという。この集落で50代以下の大多数の男性が米国での出稼ぎ経験者だ。国境まで3日間砂漠を歩き密入国をした。麻薬マフィアとのトラブルに巻き込まれる場合もあると聞いた。入国が難しくなった現在も、集落を出たうち20から30名が米国で暮らしているという。出稼ぎをきっかけにサパティスタを抜ける人も少なくないと話す他集落の人もいた。
集落での主な現金収入はコーヒーとトウモロコシ。コーヒーは価格変動が激しく、トウモロコシに至っては400本250ペソ(1ドル=12ペソ)という安値で取引される。トウモロコシは自家消費が第一であり、余剰分を売りに出す。その他フリホール豆、サトウキビ、ユカ芋、ネギ、かぼちゃなどを自家消費用に栽培している。個人としての収入源は限られており、出稼ぎが重要な収入手段となっている。
経済の問題は大きい。2013年に訪ねた第4カラコル・モレリアで、「外国人が支援するとして何ができるか?」と聞くと、率直に資金援助が挙がった。カラコルの収入源には、カラコル所有の共有地で生産される家畜やコーヒー、販売される民芸品と、国内外のNGO等からの支援があると聞いたが資金的に苦しいようだった。
また、私が2012年12月に訪ねたチアパス高地の集落サンマルコス・アビレスでは、住民がサパティスタ派と反対派に割れ、集落内が緊張状態にあった。当初そこで暮らす90家族全てがサパティスタ派だったが、現在はその内の60家族が反対派になった。これには、政府関係組織によるサパティスタ派住民へ圧力と同時に、政府が施す現金支給を中心とした農村支援を受けるためという事情があった。2010年には、離れた人々が外部の反対派勢力から提供された武器を手に、サパティスタ派の人々を襲い難民化させるという事件が起こった。直接の死者は出ていないものの、避難中に病を患い亡くなった幼い子供が複数いる。約ひと月後、カラコル、支援団体に守られ集落に戻ると、土地、家畜、収穫物や家財道具が盗まれていた。家族の中で立場が割れ、親族に襲われたというケースも幾つか聞いた。現地のNGO職員の話では、集落は現在も緊張状態にあり、また、他の地区にはパラミリタールと呼ばれる武装組織に攻撃を受けている集落もあるという。
ラ・レアリダーで出会った人は、「多くの人が離れていった。みんな忘れてしまったんだ。今電気、道があるところも、昔はなにもなかった。収穫したコーヒーを売るため、3日間担いで120キロの道を歩いたんだ。国は私たちに何もしてくれなかった。」と、チアパスに関心を払わなかった政府の態度と、その政府から援助を受けるために離れていった人々を非難した。サパティスタと深い関係を持つ人権団体Fraybaのある職員は「資金力の低さが自治を厳しくしている」と語った。
日本の農林水産省のホームページに、メキシコではNAFTA発行以降1994年から2001年にかけ、トウモロコシの農家販売価格が70%下落し、それにより経営が立ち行かなくなった200万戸以上の農家が農地を手放したとある。家族単位の零細農家が大部分のチアパス農村部において、サパティスタもそうでない人々も生活形態に差はなく、厳しい状況に置かれていることに変わりはないだろう。サパティスタに残る人々も、出稼ぎを利用し折り合いをつけているように感じた。離れていく人々を単純に非難することはできないと私には思える。
3.理念の実践
2013年1月、1週間滞在したサパティスタ支持基盤集落「12月24日」で、共有地で栽培するコーヒーの収穫を手伝った。共有地の収穫物は各家庭へ平等に配られる。作業の日、リーダー格の30代の男性が「サパティスタにエゴイストはいないはずだぞ。」と作業の手を抜こうとした若者をたしなめていた。その会話が私には新鮮だった。10代から60代の様々な世代が仕事を共にし、そこでサパティスタのあり方が伝えられている。歴史を語ることもあれば、農業についての知識の交換もある。人々が持つ経験が自然な形で世代間を行き来し、受け継がれている。上の世代が如何に闘い今の集落が出来上がったかを、子どもたちも自分のことのように詳しく知っていた。この協働作業をサパティスタは何よりも重視している。
学校ではどうだろう。各集落にある小学校の教師は、土地の人間に混ざって外国人もいる。「12月24日」には2人のチリ人が住み込み教育にあたっていた。彼らはここに来て5年が経つ。カラコルで一定の研修を受けた後に配属された。元はチリの大学の先生と生徒。印象的だったのは、私が写真を撮っていいかと尋ねた時、先生はちょっと待ってくれと言い、生徒一人ひとりに意見を求めた。中には嫌がる子どももいるし、好奇心が強い子どももいる。ここでは撮ってもいいという子どもだけ撮影を許された(顔が分かる写真は発表しないという条件で)。上から押し付けることはせず、それが子どもでも、それぞれの意思表示を促し意見を尊重することが方針としてあるのだという。
もう1つ印象的だったことがある。1年前にレアリダーを訪ねた時、地区の教育部門責任者の男性と、僅かだが話す機会があった。その彼は、綺麗に髪を伸ばし、化粧をして胸にパットを入れていた。私はこれまで保守的な先住民族社会を見ることが多かった。そこでは男性が女性的な振る舞いをすることは、非難・差別の対象にさえなりえた。しかし、ここではそれを揶揄する人はおらず、自分の生き方を貫き、そして、本人の力量さえあれば責任ある役職が任されることを目の当たりにした。個人の表現の自由と性差別撤廃の実例だ。
第2カラコル・オべンティックの建物に、カタツムリの絵とともに「LENTO,PERO AVANZO.(ゆっくりと。それでも前進する。)」と書かれている。組織を離れる人がいる一方で。サパティスタが掲げる理念は実践を通し、この言葉通りゆっくりとだが、根付き、次世代へ受け継がれていると感じた。
4.土地と自由
サパティスタが武装蜂起の際に、「貧しい農民にとって死刑宣告」と呼んだNAFTA(北米自由貿易協定)は、メキシコ社会を底で支えてきた人々に大きな打撃を与えた。メキシコの全国農業生産取引業連合(ANEC)のビクトル・スアレス執行理事はインタビューの中で、1994年以降米国からの輸入増はメキシコの農民の生産を圧迫し、メキシコ農民の4割が離農したと答えている。
メキシコ全体で農産物は輸出入ともに大きく伸びている。それは、国内北部で展開される外国資本を中心とした大規模農場によるところが大きい。しかし、依然、総人口の約半数が貧困層であり、その大部分が農村で暮らしているという状況は変わっていない。農村で仕事・土地を失った人々は、大規模農場・工場地帯のある北部へ、また国境を超え米国へ労働者として吸収されていく。まるで歴史を逆に辿るようだ。
日本と同じく、メキシコが交渉参加を表明したTPP(環太平洋経済連携協定)に関しても、生活に苦しむ零細農家のためではないだろう。
自分の土地で、自ら主体となり働き、収穫したものを食して生きることが、人としてのあり方と考える人たちにチアパスで出会った。以前取材をしたコロンビア、ペルーの先住民族もそうだった。その土地で如何に食べ物を得ていくかという知恵と技術を上の世代は子や孫に生活の中で伝える。そこで文化が育ち、社会が築かれる。経済活動ではなく、生き方にとしての農業に幸せを感じる人々がいる。しかし、この価値観を外部の人間は後進的とよび、時に都合よく伝統的という言葉で表現する。そして、経済発展の名のもと、当人は選択の余地なく生活を奪われていく。
武装蜂起から20年。世界は驚くべき早さで変化し続けている。力のないものを容赦なく振り落としながら。
この世界を前にして、貴方は何を大切に生きるのか?1人ひとりが、自分の立場で向き合わなければいけないこの問いかけに、サパティスタは今なお強い光を持ち、1つの方向を示し続けていると感じた。
サパティスタの若い男性が「私たちが望むものは土地と自由です。」と私に言った。シンプルだが力強い言葉だった。